おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

あこがれのオフィスワークの面接はうまくいったが…

 

派遣サイトに登録し、時間給ながら念願の事務職に近づいたかたむきみちお氏(32)は、とある自動車リース関連事業を営む上場企業の一部門で、職場見学の機会をいただいた。

見学とは言うものの、1人だけ体育座りの傍観が許される立場にあらず、派遣先企業の担当3人、ナントカ課長(そう、日本に何十万といる課長である)と部署のリーダーと、その間のどっかしらのレベルで何かを管理しているリーダーとが、ビシッとスーツを決めて立ちはだかる、面談である。上場企業の社員でござい、というような意識が、言葉や表情には出ずとも、スーツの着こなしやタイやベストといった装飾品とその使い方、差異表示記号とその文法に現れている。こっちは30歳を過ぎて、大学入学前に18歳で作った、今までに1回しかクリーニングしていないヨタヨタのグズグズのスーツで挑んでおる。いかにも重要な予定がびっしり書き込まれていると言いたげなぶ厚い革手帳をでん、と3人が机の左上に置く。僕は100均で買ったペラッペラの手帳、月のカレンダーと残りはメモ帳の、かわいいワンコ表紙を裏返しにした真っ白の、ハンバーガーの包み紙みたいに頼りない手帳をフヮスヮと机に乗せるのだった。

派遣会社の担当者は1個上のパリッとした好男子で、相手企業のリーダー2人と名刺を交換している。僕は人生で名刺交換はおろか、名刺を作ったこともない。この愚鈍な二世タレントのような、社会の厳しさの何の洗練も陶冶も掘削も受けていない白痴美の無垢な顔こそが、ワシの名刺代わりじゃい! と連中の奇態な儀式を眺めつつ思った。担当者は少々やりすぎでは?と思うような声調子で「お名刺頂戴いたしますっ!」とやる。「失礼いたしますッ!」「アリガトウゴザイマス」…いちいち機械のように状況にたいして反応する。たかだか自分の1個上で、ここまでしっかりした”社会人的なマナー”が身に染みついて染みついて、もうどこからが自分の肌の色か分からなくなってしまうほど、サラリーマンとして規格化されつくしたソルジャーを見るようで、尊敬すると同時に、同情するのであった。

自己紹介を無難にこなす。僕は口下手で、人とまともに話せない人間なんだ…と自認してきたが、どうやら他人評ではそうでないらしい。人と会話するならまだしも、1人で話し続けるなんざ、常に頭のなかでやっている独り言と同じだから余裕である。というか、内容の情報的な質や、価値にかかわらず、その話者が”できる人”に見える話法みたいなものが存在することに最近やっと気付き、これを愚直に実行していれば、たいていの場面で通用することがわかってきた。人は何も聞いておらず、見てもいない。とくに企業人など、役柄に顔がくっついているに過ぎない。恐るるに足りないわけである。

おまけの見学ステージで、オフィスを案内してもらう。100人規模のフロア自体は白く光るほど清潔で、静粛で、頭の中で想像する”オフィスワーク”のイメージをそのまま展開した絵である。各人に割り当てられたデスク、黒・赤・イモムシ色のチェア、大型モニタ、酷使されたキーボード、疲れた事務員の横顔…。各自が自律的に課業をこなす、その背後にある見えない命令のネットワークが、声なき号令が不気味であった。彼らは誰に操られているんだ? 傀儡子はどこにいるんだ? 透明の糸をたどって、天井を、本社ビルの最上階を見上げてしまう。

背もたれに深く背中を投げ出した30代OLの、ラクダ色のカーディガンは、やる気なくしなだれている。それが日常における他人の手触りのような不快な侵入感をともなって僕に迫る。クリーンなオフィスで、仕事自体、手も足も鼻の穴も汚れないクリーンなものだ。しかしここへ週5で9時18時、1年間毎日通うことを考えたら、ゾッとした。牢獄だ。囚人だ。ここに半日身を預けて、人形となって得られるものは何か…と考えると、人生を半分捨てるようなもったいなさを感じてしまった。

その日、前職のクリーニング会社のかつての仲間たちと飲んだ。餃子の王将コメダ珈琲のハシゴである。人員は男4人。30代後半の社員と、40代のアルバイト、かつて短期バイトで働いていて最近運送業に復帰した40代、そして僕である。誰もが事務デスクと無縁の現業である。ホワイトカラーのしきたりや文化、上下関係、服装、所作ふるまいと無縁である。机に太った手帳をデンと乗っける人たちより、こっちの無作法で無規律で非文化的な人に囲まれるほうがなんと居心地の良いことか。

妻は、別に僕が会社勤めしなくても、フリーランスでも何でもいいよ、と言う。おそらく僕は会社勤めしたくとも、もう会社的には使いものにならない人間なので、就労の壁が低いバイト的なワークと、自分で行う細々とした内職的な稼業を合算して、必要最低限の生活費を捻出していくのが一番リアルな生存戦略だ。

自分で仕事をとるにはどうすればいいんだ…と考えると、派遣企業営業男子の「お名刺頂戴いたしますっ!」が蘇り、あの気色悪いと思っていたはずのビジネス上のお作法や姿勢こそが、フリーに生きる上で必要不可欠なスキルであると思い至り、思考はその場で堂々巡りを始めるのであった。