おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

ひきこもりドキュメントが他人事ではない


ひきこもりドキュメントは部屋がおもしろい。取材者が家を訪れると、本人はどこかへ外出してしまう。そりゃそうだ、「ひきこもりがいるぞー」とおもしろがってTVクルーがやってくるんだから、たまったもんじゃない。部外者に状況を引っ掻き回されることをひきこもりは一番嫌うのである。さっきまで本人が寝ていたであろう身体のかたちを残した布団やタオルケット、動線を想像させる半開きのクローゼットや読みかけの漫画、旧世代のノートPCに手垢で黄色くなったマウス…部屋にある物体が、本人不在の状況でより雄弁に本人を物語る。こどおじの代名詞たる小学校の学習机には、当時の学習参考書が置かれたまま。大検の問題集には、不登校になったあとに大学進学しようとした跡がみえる。壁には穴だ。嫌な記憶がフラッシュバックした「うわ死にた」の発作で、至るところにこぶし大の穴が開いている。部屋にいたいのか、部屋を壊したいのか。部屋の壁が心の壁そのものである。

生活を維持してくれている親を一番の味方でなく一番の敵とみなし、ナイフを見せたり「殺すぞ」と暴言を吐いて攻撃の意思を示す。危険を感じた親が行動にでる。親が家を出るか、息子のために住居を用意して、他所へひきこもらせるか。引き出しビジネスをやっている独特の慈善オーラを放った溌剌とした校長が「お前を100%変えてやる!」といきなり部屋に乗り込んできて引っ張り出され、改造中の人間がわんさかおさめられた施設へ収容されるか。

僕もひきこもりがちだったからなんとなく気持ちがわかる。進学失敗、就職失敗の挫折を引きずっていた。高校卒業後なにもすることがなくなって、急に社会の中空に放り出された不安感からか、急に食べ物を身体に入れることに拒否感が出た。異常な嘔吐恐怖症から、体調が悪くなっても吐かずに済む量だけ食べる、そもそも食べなかったら吐くことはあるまい、という思考で1日にカロリーメイト1箱だけなんとか水で飲み込み、あとはずっとベッドに伏したまま、空腹感からくる気持ち悪さ、気持ち悪いゆえに食欲がでないという悪循環と闘っていた。微熱と腹部違和感が続き、心配する両親に方方医者に連れていかれたが検査結果は原因不明、数ヶ月で10キロ以上痩せて、アメフト部にいた頃の筋肉と脂肪がごっそり落ち、現在の頬のこけたガリガリ君ソーダ味になってしまった。空腹の身で外へ出て、夏の日差しを浴びながら、倫理の参考書を歩き読みし、宗教・哲学的な考えのなかに、自分を救ってくれるヒントを探した。哲学的なものの考え方が好きなのは、この頃のなごりである。おなじ浪人仲間の友人のおかげで、なんとか日々を乗り越えられた。

筒井康隆にあこがれて彼と同じ同志社大学の美学芸術学科に入ろうと思ったが、学力不足で落ちてしまい、「ああ俺は筒井康隆になれないんだ!」とよくわからない絶望をする。関学に入って初年度のゼミの自己紹介で、パーマをあてた茶髪の男が「自分ほんとは違う大学行きたかったっすけど。ここは滑り止めだったんで」とかっこつけて言うのに、だとしてもそんなこと言うなよ!と思った。パーマ男の滑り止め大学に通い続けた僕は、ふつう学生が経験する飲み会・サークル・男女交際・スケボー・大麻・入れ墨・長茎手術など、キャンパスライフの通過儀礼をことごとく「しょうもないもの」として退け、「望み得ないもの」として羨みつつ、スルーしていった。留年を含めて5年間を学内ぼっちで過ごした。卒業式には出席せず、ゼミの先生のありがたいお話だけ最後に聞きにいったら、「これから君たちは社会の〜」という定番スピーチが始まり、「3本の矢の教え」をプリントした紙の切れ端を渡された。別れ際に先生と握手したら「就職がんばって」と励まされる。なんで卒業と同時に働くことが当たり前になってんの? なんでみんなそれを当然のこととして受け入れてるの?と不思議でならなかった。同年代の人間はみんな社会人として働きだして、順風満帆な未来図を描きだしているのに俺は…という思いで、なんとなく大学院進学を隠れ蓑に1年間のニート・フリーター・ひきこもり生活を送る。親との関係が悪くなりそうになったのもこの時期だ。どうしてこんなにツラい思いをしているのにママとパパは助けてくれないんだ!とおもちゃの前で駄々をこねる子どもだったのである。いい歳こいて親に頼らざれば生きていけぬ状態を恥じる気持ちもあり、俺はお前らなんか頼りにしてないぞ、という強がりをみせるために、無理に両親を拒絶するような態度をとったりもしていた。あのままの精神状態でいたら、将来的に社会になんらかのかたちでご迷惑をかけていたかもしれないと本気で思う。家のものを壊したり両親に暴力を振るう軽犯罪から、口にするのもおぞましい生中継の惨事まで、自棄になった人間の自己正当化のパワーはどんな悪事をも当人にとって光の善行に変えてしまう。

容姿イジリ、いじめ、不登校という典型的な学校生活の挫折経験からひきこもる人が多いようだ。人とうまく交流できずに、大人の男の人が怖いと語る人もいる。僕の主たる挫折は、志望校に落ちた学歴コンプとモテたくてもモテない異性交友の失敗、周囲の人と比べて自分は…という劣等感と、同調圧力への心理的無防備という、ひどくありがちな失敗の類だ。そこへ持ち前のナイーブな性格が加わると、塩を浴びたナメクジのように外界に対して萎縮してしまうのだった。「絆」ということばを使うのは安易だが、社会的なつながりを失うと人はどんどん物事を暗い方向へ考えるようにできているようだ。僕は結婚せずに一生一人で生きていくほうが楽だと思っていたが、結婚して他人と幸せな共同生活を強いられているし、正直働きたくないが、毎日出勤して職場の人と協力しあって物事を進めるというささやかな経験が、自分のまともさを保ってくれているように思う。ひきこもりの引き出し屋の一部は、本人の意志を無視した強制収容、更生とは語りながらもただ宿泊施設に軟禁するという暴力性、高額な利用料…等々が問題視されている。ただ外部からの強制力なしに、ひきこもらないで済む状態に至るかと言われたら微妙な問題だと思う。本人の考え方がある日一変するような劇的な瞬間というのは、一人で過ごしている限り訪れない。やはり社会関係へ向かってドライブするような動機を強制的に持たされて、なおかつその強制参加に違和感を覚えないほどの多忙さというか肯定力というか現状追認力を発揮せざるをえない状況にあるほうが、生きる上ではいいと思う。僕は仕事をやめたら、もう必要以上に稼がないダウンシフターとなって生きたい。妻は「なにをしてもいいよ」と言ってくれる、「月20万稼げば」という但し書きつきでだ。ハードル高すぎだろ!(そんなことはない)。 「子どもができたら私たち家族をどうやって養っていくつもりなの?」と軽ギレされながら、減速どころかシフトアップを強いられている状況に納得するがために、嫁のため子どものため身を粉にして働くことを夫として偉大だと感じる新たな価値スケール創出のために、社会とのつながりを持ち続けることの尊さを説いて、自分に「ファイト」と言い聞かせる。