おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

おでかけ苦手すぎてつらい

 

どうも、かたむきみちおです。
えー、おなじみのお笑いでございます。

 

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(大量の小魚を前にテンション激低のわい)

海遊館に行ってきました。楽しくなかったです。と書けるのは大人の特権ですね。小学校の作文のとき毎回「○○した。楽しかった」と書くのに疑問を感じていました。先生に言わされている、というより言わされてやっている感じで、大人を喜ばせるためにしぶしぶ子どもじみた書き方をしていた気がします。

おでかけが楽しくなくなったのは、いつからでしょう。母に言わせると、子ども時代の僕は「どこどこ行くけど行くー?」と聞いたら「いくのー!」と、場所も何もわからないのにテンション高めに返事していたが、今では隣県の小旅行すら厭うインドア派に成り下がった、と嘆いています。思春期に入る前も、親父に「キャッチボールしよう」と誘われて公園で投げあいをするときは、いかにもな親子劇の一幕に恥ずかしい思いがしたものでした。中高生になると、親と行動するのが恥ずかしくなり、夜な夜な友人と出かけるようになります。大学からは「友達づくり」が急にバカらしくなり、誰とも遊ばなくなりました。この傾向は大卒後、かろうじて繋がりを保っていた旧友が次々就職しだすと顕著になり、僕は就活もろくにせずフラフラしてどうにかなると思っていたので(今でも思っていますが)、暇なフリーターと忙しい社会人では時間の貴重さが違いますから、気をつかってますます疎遠になるのでした。同級生の旧友クラスタは、小中学校の校区が同じなだけで、家族関係、教育過程、文化様式もろもろの環境が違うので、長じるにつれて趣味がはっきり分かれ、パチンコだのゴルフだの野球アプリだの酒だの子育てだの…だんだん話が合わなくなっていったのも、交流が疎になった理由です。

いまでは妻が唯一の「お友だち」ですが、ここだけの話、その交際にすらときどき疲れてしまいます。繁華街へ買い物にいくにしても、欲しい物もなく、行きたい所も食べたいものもなく、ただ先導されるがまま人気・話題・旬であるらしい商品群にさらされ、百貨店で連絡橋で地下通路で人群にもまれ、ストレスがある閾値を超えると「早く帰りたい」で思考が埋め尽くされ、何を訊かれても「ウン」「ソヤネ」しか言わなくなる人間サイレントモードに切り替わり、自分も相手も不機嫌のまま休日を台無しにしてしまうこと、おびただしいです。仲間がいるかと思って「旦那 おでかけ 不機嫌」でググると、奥様方がヤフー知恵袋的なところで、ボロクソに書いていたので、そっと画面を閉じました。

自分で不機嫌になる理由を探すと、一番の原因は「他にしたいことがあるのに時間がなくなっていく」という焦燥感、イラ立ちにあるようです。帰宅後、午後6時をさす居間の時計をみると、世紀末のような終焉の閉塞感におそわれます。2人の時間を一緒に過ごすことが貴重で喜ばしいことだと頭では理解していますが、感情的には、こうしてまた1日、貴重な休みが潰えていった、次の休みはいつだろう…と思ってしまいます。「他のしたいこと」に積極的な意味はないんです。自分の思うままに自分の時間を使えればそれでいい。YouTubeを見たり、本を読んだり、昼寝したり、何もしなかったり、外部の強制を逃れて自分の意志で自分の時間と行動をコントロールできる状況に価値と安寧があるので、たとえそれがディズニーだろうと海遊館だろうと、楽しさを提供するべく綿密に設計された施設に強制的に(この力は「そういうところであれば楽しいからみんなが行きたいはず」という常識によって、よりソフトに、より暴力的に通用するものです)、連れていかれると、仕事明けの休日のはずなのに「また労働がはじまった!」と思うわけです。通常、労働とは自分の時間を使用者の指示の下に差し出して、気の進まない作業に従事するものですから、両者はほとんど一致しています。金がもらえるだけ会社での仕事のほうがマシなレベルです。

 

 

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(魚みて何が楽しいわけ?)

海遊館へ行っても、「魚をみて何が楽しいわけ?」と平気で思います。子どもみたいに純粋に魚の泳ぐ姿をみて楽しめないなんて、人間曲がりすぎ、好奇心失いすぎ!と思いますが、海遊館へ向かう電車内で読む柳沢淇園の 『雲萍雑志』を「なにそれw なにがおもしろいの?」と鼻で笑う細君にしても同じなわけで、趣味や興味範囲が絞られてくることは悪いことじゃないし、それこそが水族館がみせる生物の多様性、文化の多様性ではないですか、と思うわけです。 

なんでもすぐに「しょーもない」と思うのは、オッサン化の始まりですが、ワシからしたら世の中にはしょーもないもん、しょーもないもんが多すぎます。外部に用意されたあからさまな娯楽を楽しめなくてもいい。最近はショーペンハウエルの『幸福について』に慰めを見出しています。「一生の間、日々刻々自分自身のあり方に徹していることが許されさえすれば、ほかにほしいものはない」。いいですね。精神力の乏しい人間は、「官能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない」。時間と孤独にたえる精神的な享楽を開発しようというわけです。妻は本をみて「こんなの読まなくても、わたしといれば幸せでしょ?」と言います。答えはハイでありイイエです。まさに禍福はあざなえる縄の如しです。

「普通の人間は、事、人生の享楽となると、自己の外部にある事物を頼みにしている。財産や位階を頼みにし、妻子・友人・社交界などを頼みにしている。こうしたものの上に彼にとっての人生の幸福がささえられている。したがってこうしたものを失うとか、あるいはこうしたものに幻滅を感じさせられるとかいうことがあれば、人生の幸福は崩れ去ってしまう。このような人間の重心は彼の外部に落ちる」。

こんなのに共感しているようでは、厭世の気分が過ぎるでしょうか。昔は水槽を泳ぐ魚をみると窮屈に感じましたが、いまでは大海で過酷な自然競争に晒されるより、飼育員に飼われる悠々自適の生活を羨ましく思うようになりました。自由はどこにあるんでしょうね。