風呂場で股を開くパートナーの下にかがみ、降り落ちるシャワーの湯の雨が目にしみるなか、洞穴を覗き込むようにして必死に鬱蒼たる陰毛へシェーバーをあて続ける自分は、さながら青函トンネルの掘削に挑んだ男たちと同じ熱き魂で大事業に向かっていた。
女性はすべて無毛であれ、と願う主義ではない。脇毛などはあるほうがゾッと興奮するが、こと陰毛に関しては、実務上、ないほうが好ましく思う。Vゾーンと呼ぶ恥丘の、白々しい皮膚のうえへ散らばる黒毛は、下手な絨毯屋の仕事のようで、見るほどに戦意を喪失する。性器まわりの長い毛は、にちゃにちゃしたヒジキを口に入れるようでキモく、相手を気持ちよくさせることより、自分がいかに不快にならずにいられるか、気を逸らすことで精一杯、「あー早く終わんねえかな」と朝礼に立つ気分である。性は求道的でない。もともと情熱も少なく、芸術として新奇性を求めるより、工業として円滑に進むほうを好む。僕はセックスが好きじゃない。嫁から「セックスしたい」と言われるのは、「計算ドリルがしたい」と言われるのと同じ理由で気が進まず、計算は電卓でやれ、とも思う。
かねてよりハサミでの剃毛を提案してきたが、「毛を切るのに抵抗がある」「怖い」「専用のやつ買え」と逆提案を受けてきた。これのAmazonリンクがLINEで来て、GOの合図と受け取る。
思春期の頃は、エロ漫画・動画で扇情的にクローズアップされる女性器そのものをエロチックなものとして捉えていたが、いざ実地に対面してみると、ふだん人間の内側にあるものの赤みとか濡れ感とか、動物的な臓器の低劣ないやらしさがあって、毛まみれで、グロテスクで、とてもじゃないがそれ自体をフェティッシュに愛せるものではなかった。
きれいに剃りあがった陰部には、可愛さがあった。懐かしさがあった。ありがたさがあった。千と千尋の神隠しを思い出した。みんなが汚いと忌避したドロドロの迷惑客こそ、神であった。自分はここから生まれたのだ、という帰郷があった。少年少女のたわむれがあった。「まじまじ見るな」と怒鳴る嫁があった。自分はロリコンではないと思うが、無毛になってラクダの質感をさらす局部の傾斜と、肉が滝壺へ落ち込む無防備な波紋は、ひとことで言って、いやらしかった。ここだけの話、今年買ってよかったモノ1位かもしらん。ここに天職を見出し、QBハウスならぬPubic(恥毛の)ハウスをオープンしようと思ったが、だれも人が剃ったやつでぐりぐり剃られるのは嫌だろう。
こういう注意書きで初めて見る「大陰唇以外の性器、肛門、粘膜には使用しない」というパワーワード。
もっと早く買っときゃよかった。
全人類的におすすめです。