おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

社労士試験、激落ちクンだった

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得点は、選択19、択一32。
合格点はそれぞれ25以上、44以上。
ちなみに平均点は22.7、31.5である。
ぜんぜん足りねーよ!

労務管理の一般常識0点って。俺が勉強してきたん何やったん。長年のニート歴が災いして、いや働くことが嫌すぎるナメた態度が影響して、労働についての非常識が露呈してしまったんか。

なんか漠然と自分は勉強すれば、ある程度の試験ならパスできる頭があると思ってたけど、俺ってバカなんかなあ。平均受験回数4−5回と聞くが、今はもう続ける気力がないよ。落ちたのにユーキャンの支払いあと6ヶ月×4980円も残ってる。これからの支払いの意味!意欲!

まあでも失敗を受け入れること、というか何かに挑戦して失敗することはとてもいいことだ、という部活の先生が言いそうなポジティブ精神論をちょっと学んだね。成功するには失敗を2倍に増やせ、とも言うし。

次はスイーツコンシェルジュ目指すぞー(泣)

 

 

・労働についての一般常識

みんなはどういうモチベーションで仕事してるの?

目下働くことについて、ひいては人生について悩み中なので、指針になりそうな本を開いては慰めとヒントを得ようと躍起になっている。

まずは佐藤優『最強の働き方』。最強というからには最強でしょ、というわけで、

資本主義社会で、労働者がいくら努力して、朝から晩まで働いても大金持ちにはなれない。労働力商品の価値(賃金)は、労働力を再生産させるのに必要な商品やサービスを購入する価格で天井が定められているからだ。

これは肌感としても判る。社長の家は大きいが、社員の家は冷蔵庫の野菜室みたいだ。年収1,000万円でも大金持ちでなく、せいぜい外国製の家具家電を使って、人よりまんべんなくパンが焼けたり、部屋の陰毛をうまく吸いとる程度の暮らしができるに過ぎない。誰かに雇われて働く身分では、中金持ちになるのが精一杯だ。ここで幸せ≠金という、いつもの泣き言に逢着する。そもそも個人が幸福を呻吟することが極めて近代的な発想なのかもしれない。

W・B・ウルフ『どうしたら幸福になれるか』にこんな言葉がある。

ほんとうに幸福な人というのを見てみると、その人は、ボートをつくっているとか、シンフォニーを作曲している人とか、あるいは自分の息子を教育しているとか、庭で八重咲のダリアをそだてているとか、ゴビの砂漠で大昔の恐竜の卵をさがしているとかいう人だ。彼は幸福を探している人ではない。幸福なんか鏡台の下にころがっているカラーのボタンぐらいにしか思っていない人だ。

自分が幸せかどうかを知るために、書店で、数多ある幸福論(哲学、スピ、習慣、話法、仕事術なんでもござれだ)に尋ねなければならない状況自体がなんともうすっぺらい不幸なんである。世の中には仕事と幸福が結びつくという、幸運な結婚があるらしい。

たとえばマクドナルドのレイ・クロック、

仕事とは、その人の人生にとって、ハンバーガーの肉のような存在である。「仕事ばかりして遊ばなければ人間駄目になる」という格言があるが、私はこれには同意しない。なぜなら、私にとっては、仕事が遊びそのものだったからだ。野球をして得るのと変わらない喜びを仕事からも得ていたのである。 
成功はゴミ箱の中に

成功者の言う「仕事が遊びですわ」は意味不明な言辞である。始発~終電三百六十五日の勤務を、若き日の武勇伝とばかりに、若い頃のおイタがすぎてろれつの回らない不良上がりYoutuberのように、得意になって話すのを見ると、僕なんかは「よし、やってやるぞ。男と生まれたからには、一代でのし上がっちゃる」より「イヤだイヤだ、そんなに必死に働きたくないでござるよ」が勝ってしまう。

これは僕が幸福とセットになった労働を経験したことがないからだと思う。仕事といえばアルバイト式の課業にして苦行、時間単位で上から与えられた作業を無難にこなして賃金を得る、という工場式の、あるいは刑務所式の(いま僕が働いている工場で、20代のパートさんが「ここ刑務所みたいですね」と言ったのが忘れられない)労働観しか培わずに30歳まで来てしまった。それでも毎日「刑務所」に通うのは、日課だからである。小学生とサラリーマンがそれぞれ学校、会社に向かうのを見て、歳は違えどやってることは同じなんだな、と思う。そういや自分も小学生のとき、嫌々起きて学校行ってたもんな、行くのが当たり前だと思って、座って先生から押しつけられる問題を解くのが、そうしなければならないこととして、透明の仕事として、受け入れていたもんな。「毎日通って課業をこなす」という身体と心づくりのプログラムは、すでにタンポポ2組の頃から始まっていたんだ、と思い慄然とするのであった。

きっぱり仕事は徒労である、と認めてしまったほうがいいのだろうか。

内田樹名越康文・橋口いくよの鼎談本に、こんな個所がある。

橋口:明治神宮の参道を歩いていたら、作業着姿のおじさんが、広い道に大量に散らばる落ち葉を掃いていたんです。次の日に行ってみたら、ほぼ同じ場所で、昨日と同じようにやっぱり落ち葉を掃いていた。翌週行っても、それはまるで先週の続きみたいに同じ場所で落ち葉を掃いていたんです。それで私「この人は葉っぱがあるという違和感を常に取り去ることを仕事にしているんだ」と思って。
名越:深い!
橋口:私はこうやって生きよう。これこそが仕事というものなんだって思ったの。
『本当の仕事の作法』

 

放置自転車の管理倉庫前で、ミント色の作業帽の老人が、落葉を掃いているのを見た。なにが注視に値するかって、その日は風が強かったので、集めたそばから落葉が散りぢりになり、もはや集めているのか散らかしているのか分からない状況にあったのだ。絵に書いたような徒労に笑いそうだったが、振り返ってみれば、自分の仕事も、風の中の掃葉と同じ、これを繰り返してなんの意味があるの?と、油断すればすぐに疑義注記が挟まれるような、あやうい意義しか持っていない。こんなの無意味だ、とものごとを中身をえぐりとってしまうのは、消極人間が最も得意とするところだ。ここで再度、佐藤優に戻ろう。

実は資本主義システムの中においてね、誰にも必要とされていないっていう仕事は、1つもない。誰にも必要とされていない仕事っていうのは、持続的には、賃金を得られない。ということは、自分っていうのは、今この場で働いている自分が賃金を稼いで生きているんだけれども、目には直接見えないんだけれども、誰かのために役に立っている。それは間違いないわけだ。このリアリティっていうのを持ってるかどうかっていうところにかかってくるんじゃないかと思う。

本来は、役に立つからお金がもらえるんだけど、お金がもらえるから役に立っているはずだ、という逆転した意味の流入によってのみ、現代社畜の賃金労働の意義は成り立っているんじゃないかな。

 

幸せかどうか、どうすれば幸せになれるか迷ったとき、拠りどころにしている言葉を『無門関』から、

 

早知燈是火
飯熟已多時
(早く灯は是れ火なることを知らば、飯熟すること已に多時なりしならんに)

イメージは洞窟だ。灯火を持って暗闇をさぐる。しかし自分が探しているものは火で、それは初めから手元に握られている。火があれば飯が炊ける。今の状況(健康・家族・仕事等々)をたずさえて幸福を暗中に求めるのではなく、今のその状況こそが求めていた火であり、幸福である。そんで温かい飯が食えりゃ、他に何を望むことがあろうか、という解釈だ。明日には自分は不幸だと嘆き悲しむだろうが、今だけは言わせてくれ、僕はもうとっくに幸せなのだと。