おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

ババア ババア2

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給付金が入った、とババアが言うからとりに行った。フットワーク激重でも金となると動きはリオネル・メッシである。中3になったとき、ババア(当時はうら若きババア)から「テストで平均90点以上とったら、10万あげる」と冗談半分の賭けを持ちかけられ、金の力で平方根を有理化し、10万馬力で第4文型を第3文型に書き換えて、金を手にした。10万は、高校に入って、中型バイクの免許に消えた。そのときと同じ10万円、今度は大型バイクか、と期待して、実家へ馳せ参じたのである。

昨年まで「ババア部屋入ってくんな」を地でいくひきこもりの子ども部屋おじさんだったのが、今は金目当てに「ババア家にあげろ」と叫ぶ半自立型のパラサイトになったのだから、人の成長は侮れないものだ。結局は金、金、金。親子のつながりも金次第なのである。

10万円、さて何を買おうかとAmazonの家電ページを総覧する。仕事場の60代のおじさんに喜色満面で「やれ10万円、それ10万円」と雑談の種に給付金を何に使うか尋ねたところ(事実、おじさんたちの金の使い方は謎めいている)、メビウス・エクストラライトをひと吸い「家賃とか生活費もろもろ払ったらなんぼも残らへんで」じぶん経済なめとるんとちゃうけ、と続く語気で封殺されてしまった。「サラリーマンは気楽なもんや。自分で商売してる人なんかもっと大変やで。10万じゃどうにもならん」青空に見知らぬタオルハチマキの居酒屋店主が浮かび、10万円ボーナスのウキウキ気分は、焼け石に水の無効力感に様変わりしてしまった。

まあいい。今回はババアのババアの話をしよう。写真を晒して、ついに家族を動員してまでブログを更新したいのか、とメディア・リテラシストは眉をひそめるかもしれないが、これは純然たる家族愛の表現である、との見方をすれば、穏健派からも文句は出るまい。すべて人類はババアから産まれた、というのはヒトクローンが許される日までの、永遠の真理である。さて、ババア91は、91歳にもなって1人暮らしをしていて、たまに家に遊びに来る。来るといっても迎えに行く、自家版デイサービスである。親子孫が出揃うたびに、あんた昔おばあちゃんと風呂に入ったときに、おばあちゃんの乳首吸うたんやで、という話を聞かされて、うんざりだ。

 

・ドラキュラ

「おばあちゃんキウイ食べたら血出るからな」
とババア56が訳のわからないことを言う。熟れてるほうが出ないねん、これはどやろか、と切ったキウイを出す。ババア91は齢のわりに食欲旺盛だ、いや旺盛であることが長寿の秘訣だとでも言いたげな食べっぷりである。
「これどないして食べるの?」
「スプーンがあるやろ」
「ほな、いただきますね」
「おばあちゃん、何食べるときでも絶対『いただきますね』って言うやろ。そこが偉いと思うわ」
戦中戦後の食糧事情を生活習慣の形成過程に想像感得せしめる清貧剛強な未亡老人、毎食毎度の独弦哀歌であった。
「ああおいし」
キウイの果実を、皮を器に、スプーンで綺麗にほじくり返して口へ運ぶ。いったいこの平和な運動のなかで、どこに血を見るようなことがあるんだろう、ひょっとして、食べたあとの尻の穴…、僕はウォシュレットに横たわる腐った桃の切れ目から真紅の果汁がしたたる断面図を得て身震いした。おやつから10分後、談笑の途中で、ババア91の口が、口紅をさしたように赤いのに気がついた。子どもがお母さんの口紅で遊んだような、でたらめな線の引き方である。怖くなって、
「おばあちゃん口のまわりめっちゃ血出てるで」
と異変を伝えると、落ち着き払った56が、
「キウイ食べたら血出るねん」
なんやねんそれ。そんなに血出てる? とババアがにっと口を開くと、このドラキュラには歯がなかった。ヒルみたいに吸うタイプなんだ、と思った。

 

100万回死んだしむけん

齢なのでボケが心配される。
「もうボケてきたな」
「そんなボケボケ言わんといてえな。母ちゃんしんどいわ」
「まだボケてへんな」
漫才のやりとりである。

ある日のニュースで56、
志村けんが死んだで」と91に伝えると、
「ええ、そうかいな」と驚いた様子。
次の日、追悼番組を見るふたり
志村けん死んだなあ」と振ると
「ええ? 死んだん? そうかいな」と新鮮に驚く。
56はついにボケが始まった、と覚悟したそうな。
それから連日、ボケの進行度を確かめるために朝起きてすぐ「志村けん死んだ」「志村けんが死んだ」をやっていると、ついに91、
「あんた毎日同じこと言うてボケてんのか?」
と56を心配する。

 

老人のひとりごと

91は間があくと
「はあ寂しいなあ」
「もう母ちゃん死んでしまいたいわ」
と聞こえぬ声で独言する。もちろんこの聞こえぬは当人の基準であり、自分で聞く耳も遠くなっているので、独り言は隣室から丸聞こえである。初めて聞いたときはギョッとしたが、家族は平然、よくある老人の独り言としてフル無視だ。僕もひとりになると、ささいな失敗がフラッシュバックして「しにた」、暇でやることがないときの「しにた」、窓に開けた世界の光景になんとなくの「しにた」を発することがある。ああ91になっても「死にたい」とつぶやくことがあるのだ、と妙な安心を覚えた。しかし寂しい問題は痛切だ。本人にとっては間を埋める口癖として、威勢のいい老人の「よっしゃ」とほとんど意味の負荷は変わらないだろう。寂しい寂しいを連呼しても、嬉々として細密なぬり絵の猫の毛並みを塗りわけていたりする。どうして親子三代が揃って寂しいのか、人がとなりにいて寂しいのか、家に帰ると誰もいないのが寂しいのか、夫に先立たれて寂しいのか、二世帯が同居しない近現代の都市的な生活様式が寂しいのか、いくら寂しいとつぶやいても、寂しさが誰にも伝わらないのが寂しいのか。老境、人は貧に病を運よく逃れたとしても漠とした寂しさに苦しむのだ。いくら稼いだって金はあの世に持ち越せない。ならいま僕がすべきことは、どうやって金持ちになるかを思案することじゃなく、どうやって死ぬまで付き合える友達を持つかを思料することじゃないか。