おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

幸せとはモンダミンである

 

両親が洗面所に紫色のリステリンや、水色のNONIOといったマウスウォッシュを常備しているのをみて、ふだんは食品ラベルの物騒なカタカナ語、たとえば「コーンスターチ」「マーガリン」「デキストリン」「アステルパーム」なんかを毛嫌いして買わずにいるくせに、毎晩よくわからない薬品で口をゆすぐのはどういうわけだと不思議だった。30歳でようやくその習慣の効力がわかった。

僕は口がくさい。マスク流行のいい副作用に、口のくさいおっさんどもが自分の口臭に気づく時がきた、という主張がある。僕は日中、何時間とマスクをしても自分の口のにおいには気づかない。歯磨きして数秒後にはくさいので、胃が腐っているとしか思えない、と彼女は顔をそむける。そんなことをいったら女も朝一番の口のにおいは、鮮魚売り場を思わせるほどだし、風呂をさぼった頭皮からは鉄工所のにおいがするものだ。

モンダミンを寝る前に試すと、寝起きの口のネバつきが消えた。これだ。この感覚だ。パパとママがマウスウォッシュをリピート買いしたのは、朝一の口の不快を抑えて、1日を気持ちよくスタートするためだったんだ。この発見は喜ばしいが、同時に老化を自覚し、中年の覚悟を、時の諦めを準備するのであった。

 

 

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モンダミンを手に喜悦の表情を浮かべる筆者

 

そんなことより問題は上着である。写真のユニクロのオーバーサイズアノラックパーカとかいう上着である。ブルゾンとか背広とか、スラックスとかチノパンとか、服に種類と名称は各あれども、僕は上着かズボン(かスカート)の別でやらせてもらっている。とにかくこの上着が4千円もし(いまネットストアでは1,990円になってやがる)、同時に仕事用のズボンも買って、計6,578円。ユニクロ6,000円の散財は、駄菓子屋2,000円の浪費に等しく、恐怖であり、愚昧であり、虚妄であり、イボイボである。「似合ってる」に上機嫌で衝動買いするなぞ、僕が嫌う軽薄な人間の軽挙そのものだ。反省のために「10年着る」と宣言し、ここのところ外出の際はムキになってこの服以外は着ていない。

服には興味がない。すべて青少年は、服装や髪型に興味を持つべきものだと錯覚させられるのが校舎にはびこる思春イデオロギーである(恋愛もそうだ。青春ドラマに映画にマンガが恋愛を理想化するが、人との交際がどれだけ愚かさに満ちているか知ってみれば、ほとんど取り組む価値のないテーマであることがわかる)。自分に与えられた実際の造顔体型と、モデルイメージをうまくマッチングできないほとんどの醜悪な人間が、資格のないことを恥じて詫びるように、お母さんがイオンで買ってきたトップバリュの「Endless Dream」みたいな英字の入ったトレーナーに身を包み、休日はスーツからユニクロの制服へ着替えて町へ出社するわけである。こうした敗者の服装も見苦しいと思う一方で、流行先取のアイテム、ブランド、スタイリングで、夜業のクラブに酒場での振る舞いが、LINEでのやりとりにツレとの会話の言葉遣いが、見聞きする前からすでに粗暴粗略野卑野犬だと直感できる風体で街をあゆむ非創造的な消費体も、同時に「うわ」の対象である。

服飾という営み全体に懐疑的である僕が、クリーニング屋で毎日何百着という服を見、触れるのはなんたる皮肉だろう。この経験値が将来のスキルに生かされないのは酷だ。自分が服飾学校の生徒だったら、服の1点1点の意匠、生地の選定、裁断、裁縫、目立たない裏地の縫い糸一本の色にすら感動と勉強の余地を見出すだろうに、僕にはただの仕事道具、というより文字通り山積みとなった厄介な仕事の量としか思われない。唯一の発見は、女学生のスカートだ。なかにポケットがあることを初めて知った。女子と親密にしたサッカー部のモテ男は、放課後、女の制服の下腹部にこのポケットの存在をひそかにさぐり当てていただろうが、僕は30歳になって、仕事としてスカートに対峙して、預かった品を点検するという業務を通して、初めて知ることとなった。

上等な服はもちろん、低廉な品も手にしただけでわかる。なんだこれはと思ったのがイッセイミヤケだ。もちろん初めからイッセイミヤケの服と知っていたわけじゃなく、手にした服のラベルの「ISSEY MIYAKE」をみて、これがイッセイミヤケか、と思ったわけである。女物の上着とスカートだが、上下とも黒色で、きざみのりをまぶしたようにフサフサで(このあたりの素材、装飾にも業界用語の準備はあるだろうが、僕の服にたいする解像度の低さを勘弁いただきたい)、ピンク色のペンキをひっかけたようなデザインだ。こげたトーストに明太バターを適当に落としたような外観である。軽くて動きやすい、が服の美徳に数えられるなかで、このスカートの重量感はデスクトップPCに負けず、これまでに見てきたどの服のカテゴリーにも、スタンダードにも、規則にもあてはまらない異物として僕の認知に訴えてきた。検品をすすめると、裏の裏まで油断なく(安物の服は、裏までは見られまいと油断している、もしくは見られても平気だと居直っているものだ)、相当に作り込まれたものだと直観する作品だった。そう、これは作品なのだ、とはじめて服に商品性ではなく、作品性を感じさせる作りだった。服には、マーケティングブランディングの売りこむ世界だけじゃなく、作り込むアートの世界もあるのだと、いっちょまえに感激もしたのである。

以来、イッセイミヤケの服づくりの思考を探るために、三宅一生を特集した『美術手帖』(2011年12月号)を取り寄せて読んでみたが、スタイルのいい長身美人が、くしゃくしゃにした折り紙を着せられて歩く仮装大賞の公演を見せられるだけで、ファッションの何たるかは「わからないもの」という消極的な意味でしか理解できなかった。

「一般的な動きを見ると、ファッションは、いまやすっかり軽い存在になっているのではないでしょうか。すっかり自己流の着こなしの時代に入っている。一時期のように、ブランドのブティックの前に並ぶというような真剣な状況はないという印象です。最近雑誌などを見ていると、『一生さんの服に、ユニクロのTシャツを合わせて着るのが好きです』なんていうコメントがあったりします(笑)。不思議なコミュニケーションですが、それもいいのではないでしょうか。」

ファッションとは自己流の着こなしのことを言うのではなかったのか。アイテムの組み合わせかたにセンスを見せるのではなく、アイテムそれ自体のセンスを感じとることにオシャレの本当があるのだろうか。わしにはわからん。3,000円したユニクロのパーカーを10年、色あせ生地すり切れるまで着倒すことに、僕のファッション・センスの全てがある。