おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

社労士試験受けるよ


8月末の試験に向けて、ユーキャンに8万払って勉強してる。「この講座で絶対合格!」とか言いながら、試験が近づくと『合格力養成講座のご案内』みたいな、別売りの4,5万する教材を平気でセールスしてくる。自社の教材に自信持ってんじゃねーのかよ! 受験者の不安を利用して、高額な追加メニューを用意するとは、かなり悪どい、いや商売上手だね。

 

給料から雇用保険料が引かれているのに、「悪徳企業め、バイトからも小銭を巻き上げやがって。ハイハイこれが社長のベンツのガソリン代になるんでしょうね」と不信を募らせたが、これは働く人がうまく働けなくなったときに支給される失業手当等々に回される金であって、会社と折半で国に払うものだった。なんなら労災保険に関しては、事業主がその保険料を全額負担しているものとも知る。こういう社会の仕組みは、家庭科で教えてくれないと非常識で困る。

 

法令用語を書き写して勉強アピールもいいが、読むだけでニヤリとしてしまう単語をとりあげる。


「労働と生活の調和」
「労働者の経済的地位の向上」

「労働者の健康で充実した生活の実現」

労働法は、ほとんどこれらの空疎な目標実現のために掲げられている。働きたくない。在学中は「iPadプレゼント抽選会」を誘い文句にしたエロマンガ制作会社の説明会へ顔を出した程度で、就活せず(就活している同級生をみんな馬鹿だと思っていた)、学卒後はずっと非正規の仕事(短期/派遣バイト)しかしてこなかった僕からすれば、労働と生活の調和なぞ、自分のケツを掘る延長コードそのものだ。完全性を備えたオブジェクトとしては美しいが(『労働と生活の調和』などはそのままプラケースに入れて、美術館に飾れるくらいである)、実用には何かを犠牲にせねばならない。ほとんどの労働者は、労働と生活とを調和させるのではなく、労働イコール生活として一個体の調和を目指すやり方で、定年までのラットレースをしのぐ。「充実した職業生活」とは、シカを狩るために、小屋でひたすら槍づくりを命じられた虚弱体質の村人がいた時代から実現されたことはない。「労働者の健康で充実した生活」とは、ほとんど「砂上に建設した氷の楼閣」と同じ意味である。

もちろん働けばいいこともある。余暇を充実させようと奮闘するところ、スキマ時間を活用してちまちまと小目標を達成するべく躍起になるところ、今日は何しよう?の自問に苦しまずにすむところ、ほかには……ほかにはない。イベント自粛ムードのなか強行された会社のボウリング大会で、上司の投擲に「さすがです」と汗ばんだ手を重ね、23時の帰宅から翌朝8時出勤、働きながら昨晩の疲れを癒やしているとき、ふと「こうして人は鈍感になっていくんだなあ」と、感じない器具になったこころの硬直に落胆する。かつて嫌だ嫌だと思ったもの(フルタイム勤務、人間交流、社内行事)への慣れを、社会人としての成長と喜ぶのは一部のおめでたい奴、僕はもっと尊い非社会人としてのセンスの摩滅と嘆きたい。HSP(「私はHSPです」と自分の繊細さを才人の条件のようにアピールする人は、それじたいが感覚の鈍麻を表してはいまいか。だってHSPは、その概念の提唱者の本によると、学的に定義された測定可能な心理的特性ではなく、電話調査で「自分は敏感だ」と答えた人たちをそう名付けたものにすぎない。僕はわけの分からない概念の濫用を避けたいと思うほどには、繊細な人間であると自認している。とにかくそのHSP)の人たちがキャッチするだろう、床のシミ、風の声、対人接触のざらつき、電信柱のささやきを捉えられなくなる。もともと詩人ではないが、詩人的な感性の喪失が、月給の代償だ。むろん、しょうもない会社で出世しているということは、年功序列型の日本社会においては、無能の証明として恥ずべきことである、という誰も口にしない会社の詩みたいなものに気づくことはある。「あの上司は話が長い」と愚痴る上司の話が長くなる無限連鎖も、また然りだ。

 

希望は「消極的怠業」にある。

これは使用者にたいする争議行為(ストライキとか)のひとつだ。積極的怠業がわざと欠陥品を作ったり、機械を壊したりすること(これらは不当な争議行為であって、刑事・民事免責とならない)で、消極的怠業とは本当はもっと早くできる作業をゆっくりやって能率を下げたりすることだ。ようはバレないサボりだ。え、これって争議行為の代表格じゃなくて、働くときの基本の心構えじゃないの? コンビニに停めた営業車のなかでスマホをいじるサラリーマンの日常なんじゃないの? 僕の夢は、消極的怠業の最高技術責任者となって、ひとびとの労働と生活に調和をもたらすことである。