おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

あげまんは実在する

 

愛液に分泌する女性ホルモンの特有成分が、ペニスからの接触浸透をとおして、古代ギリシアよりの四体液説における人間の体液バランスを揺動せしめ、熱血漢の黄胆汁者を孤独な黒胆汁者へ、社交好きの多血質者を口の臭い粘液質者へと変容させる。これが付き合う女により、男の性格が転じるゆえんである。喫煙者と付き合った女がタバコを吸うようになるのは同機構の逆動作による。医療占星術によると、四体液のめぐりと星の運行は、月が運河に逆流を、大海に干満をもたらすように、迂遠にして強力な影響関係にある。人は出生時の黄道十二星座の位置により、天運を決せられるが、これが体液バランスの微変動と、星々を置くセレスティアル・スフィアの転回によってゆらぎを与えられるとき、その人為的な環境因のほうをあげまん、さげまんと呼ぶに過ぎない。

 

月収8万円のイオン・ピープル時代には、彼女との交際費に給料の大半をもっていかれたので「金がかかって仕方ねえ、実家の優雅なひきこもり生活を、金銭的にも時間的にもおびやかしやがって」と自らの稼得能力を棚に上げて、彼女の存在をうとましく思うことがあった。年間2,000万円を稼ぐボートレーサーだって、「僕が息する間に、口座の金は、嫁と子どもに使われている」と嘆くものだ。

僕は恋愛に懐疑的なんである。親にあてがわれた相手を宿命的に受け入れる故習、入籍からスタートする見合い結婚のほうが、システマチックで、恋愛のちびちびした浪漫の応酬に時間を空費することがなく、好ましく思う。ただ一見自由恋愛の結果にみえる交際も、じぶんの生活圏や親の経済力、文化と趣味の遺産によって、ほとんど知らぬ間に用意されたものに過ぎない。ある女は、シェアした軽に乗るダメ男より、改造国産車で軽を煽るイイ男に惹かれるものだ。

 

たまに働くだけで、生活は親にみてもらう。読書したりネットしたり、世の成功者を恨んで、夜な夜な自分が作家や起業家として大金持ちになった夢を見ながら孤独に生きていく。それが世俗を超越した、高いレベルの幸福である。世間で通用する価値観、家族愛だの友人愛だの恋人愛だの仕事愛だのの重視を「まやかしだ、皆騙されている!」と告発する。他人の恋愛をスタジオでタレントが見て騒ぐ様子を、テレビ前で見つめる地獄のような入れ子構造に「けっ」と言う。文化に主流と傍流がある。文化にモテと非モテがある。ワックス、ブリーチ、ラウワン、ビグスク、クローズ、メンエグニューエラ、クラブ、ドンペリ、ナンパはすべて敵性語だ。モテ文化否定の先に、わが敬愛の森鷗外先生がいらっしゃる。先生の若い頃の写真なぞ、非モテの最たるもんである。後者へ後者へ、逃げるようにして退くのが超越の快感であった。

 

幸運は、僕が実家から出たことに始まる。「2人で一緒に暮らす」のは、憧れのカップル像ひいては幸せな家庭像か知らないが、僕の「1人で孤独に過ごす」という理想と相容れない。稼げない僕が1人で生きるとは、その実、パパとママに生かしてもらうことであった。ひとりっ子で(そうとも「ひとりっ子であることがすでに病いである」と言った精神科医がいた)、愛情を一身に受け、それを利用するズブズブの関係だ。「いつか同棲したいよね」と言う彼女に、「そうだね」と言ったのは、「いつかご飯いきましょうよ」と言って言われるときの「いつか」と同じあいづちだった。計画は実行をともなった。彼女が勝手に予約した不動産屋にあちこちのアパートを連れ回され、茶色のスリッパを履かされて、ベランダから望む霊園に「緑が多いところです」のフォローを受けるとき、頭のなかで「いやほんとに住まないよね」「冷やかしで来たんだよね」「家賃払えないよね」が渦巻き、床暖房の有無それどころじゃなかった。書類は押印をともなった。納得する間もなく、共同生活が始まった。はじめは何をしても二人暮らしごっこ、お芝居のセットでそれぞれの役割を演じていた。1ヵ月で終幕だと思った。それが2ヶ月目には、僕の前で平気で屁をぶちかますようになり、用便の際はメンズビゲンのCMで松岡くんが言うみたいに「(便器を私色に)ぞめてくる」と言って発つ。なんだ、気楽じゃねえか。キッチンに立つ彼女の後ろ姿に「女房」の語感にふさわしい生活感が漂うようになった。

 

人と付き合っていると、まともな人間に見られる。人々の話題は200年後も、嫁が夫が子が孫が…に決まっている。最も利益を感じたのは、会社で「君にも彼女がおるし、一緒に暮らしてるならバイトの給料じゃやっていけないやろ。ちゃんと職に就いてたほうが彼女も安心のはずやで」とこちらの事情を酌んで、社員格に上げてもらったことだ。なるほど、交際相手がいる、結婚している、あるいは結婚前提の付き合いをしている、また家賃を払っている、住宅ローンを組んでいる、といったもろもろの世間的な事情を背負う男には、社会的な信用がつくのだ。家族を養うために定期収入が必要だから、ずっと長く、まじめに勤めてくれる、使いやすい労働者像に合致するのだ。卒業校は、無名高校・大学に過ぎないが、地元の限られた地域では、大阪弁のアホ・カシコの二分法で、カシコに振り分けられる。信用を測るのに学歴は、今では頼りない定規だ。しかし地域密着の年長者が集う地元の中小企業では、こうした価値観がまだ電話ボックスとテレホンカードのように生き延びている。

 

労働の必要、生活の必要をもって世間並みの価値観のセット(ちゃんと働くこと・休日に遊びにでかけること・人と交流を持つことを良しとするものの見方)に参入させてくれた。社会人の倦怠にも共感できるし、金を使う暇がないからこそ、つまらないものの購入にドバっと金を使ってしまう特有の消費スタイルも(購入を促すカタログみたいな雑誌の存在意義も)理解できた。新卒採用でコミュニケーション能力がうるさく問われたのは、結局仕事が機械とのやりとりではなく、人とのつながりに生まれるものだからである。人の仕事は、仕事を命令する側と、命令された仕事をする側に別れるが、この指揮系統のどんなレベルにあっても、伝達と実行はことばを要するし、顧客はもとより社外のあらゆる取引先との横のつながりを維持するのもコミュニケーションだ。『超一流の雑談力』を読んで、「しゃべるのが嫌なら黙っていればいいものを」と笑ったが、話さないのは損だ、職場の雰囲気づくりに会話が大事だ、信頼関係はくだらない雑談が作ると知った。僕は、人としてまともになりつつある。

正答は他者が導く。正解だと思ったズボンの色でさえ、彼女に言わせると「ダサすぎて一緒に歩くのが恥ずかしいレベル」の間違いであるらしい。独想の結果なぞ、ほとんど頼る意味のない誤回答だ。縁と運と解をもたらす他人を思えば、人類は総あげまん説。ところで、あげまんのまんって何なんです?