おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

人見知りって治すもの?

 

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『人見知りが治るノート』を読んだ。

類書の例に漏れず、一読して霊験あらたかとはいかず、アパートの駐輪場では人に会わぬかビクビクし、ゴミ出しでは住民との交渉が起らぬかハラハラする。収集車の到着まで、五十年輩のオジサンが、ホウキを持って、天敵のカラスを見張る。彼の出動までに家からゴミを搬出せねばならない。ホウキを振りあげてカラスを追う姿は、屋根に土のうとブルーシートの、土壁がフォークを入れたチョコレートケーキさながらに剥がれた昭和建築の連なる貧民街の狭隘道路に、ギャグマンガの画線を与える。

人見知りには、特有の思考硬直、ものの本来的な在り方を勝手に規定した「~であるべき」の発想があるという。人見知りが治ると謳う本書がすでに「人見知りは治すべきだ」という、決めつけを暗に含んでしまっている。ほんとうに人見知りは、精神科医がしゃしゃり出てきて"治す"病気なのだろうか。著者はその点抜かりない。

人見知りが悪いということではありません。…ただ、物事には良い面と悪い面があり、人見知りは私たちが自分らしく生きることの妨げになりやすいのです。人見知りがなくなれば…これまで勇気がなくてできなかったことが少しずつ実現し、人生が何倍も豊かになります。それこそが、あなたが望んでいる、本来のあなたらしい生き方のはずです。

ここにこそ深刻な病「自分らしい生き方の探求」が見てとれる。何を買っても読んでも持っても使っても観ても食べても、試されるのは自分らしさだ。自分らしさとは何か。髪をピンクに塗ることか。舌を二股に割くことか。人の集合から抽出した性格特性、たとえば「優しさ」「気難しさ」を、自分に再帰的に当てはめて、解釈、構成した心理学用語の彫像のことか。あるいは身長、体重、年齢、年収、血圧、視力、尿酸値、婚歴、痔歴、飲酒歴、鼻毛、歯の本数…等々、基本単位(1cm, 1kg, 1歳…)の倍率を列挙したエクセルデータが、唯一無二の自分らしさ.xlsxなのだろうか。

自分とは歯である。僕は歯が悪い。乳歯から数えると、虫歯を知らない歯はなく、前歯は2回折れて最安価の裏が金属むき出しの差し歯を挿れている。銀歯はそこここに、親知らずは上2本を抜歯、下は初期虫歯を放置、残った歯も歯ぎしりで薄く細くなり、せんべいを噛むのは、春先に凍湖を渡る恐ろしさ。対策用マウスピースを噛んでも、被せものと歯のあいだから侵襲する虫歯菌で弱った箇所がボロボロに欠け落ち、歯列は連日連夜のコーヒーとチョコレートの着色汚れで、寝起きの小便より黄茶色だ。芸能人のオールセラミックのまばゆいばかりの陶器のような歯(セラミックとは陶器のことであった。これは便器の材質である。なるほど、今をときめく女優に俳優は、口を便器に改造した人のことを言うのであった)から、競艇場のおっさんの、歯を押していくワニゲームの後半のような緊張感ある口元まで、歯の状態に本数は、世帯収入の関数になっている。僕があくびをすれば、「こいつは時給1000円の配送バイトを月15回のシフトで組んだ月収10万5千円のフリーターだ」と分かるわけである。

歯が悪いのは歯の磨き方が悪いせいだ。僕は30歳になるまで、歯を磨くとは、額面どおり歯の表面を磨くことだと思ってブラシを当ててきた。本当は、歯と歯のあいだ、歯と歯茎のあいだに溜まった歯垢に食べカスを掃き出すことを言う。つまり「歯を磨く」の歯とは、周辺の何もない空間を指すのである。これに気付くのに前歯2本を費やした。さてここで人間とは、人の間に立つもの、という親父くさい説教を導入する。あるいは今確認した「歯」磨きを、「自分」磨きに置き換えてみる。自分とは、となりの人とのあいだ、支えてくれている人とのあいだに成立した空間の名前である。自分磨きとは、顔をきれいにすることではなく、他者との関係を整理することである。自分だけを磨いても虫歯になる。

変人のエピソード集に、ある高名な化学者の話があった。男は極度の人見知りで、出入りの際に誰にも会わぬよう、自宅に自分専用のドアを作った。それでも入退出時に主人と鉢合わせしてしまった使用人は、即刻クビを言い渡されたという。この男の気持ちが解る。僕の住む3階建のアパートは、1フロア3世帯の計9世帯がひとつの出入口階段を共用している。これが高層・高密度の集合住宅になれば、住人も増えるが通行手段も増えて、人がエレベーターを使えば階段へ、西の階段を使えば東の階段へ回避できる。団地に住んでいた頃は、住人とのエンカウントを避けるべく、雨どいに手をかけて滑降し、ときには束ねたカーテンを伝ってベランダから地上まで20メートルを懸垂下降して外出した。今のアパートは出入口が一つなので、いつ人に会うかしれず、ドアレバーの回る音がしようものなら、あわてて逃げ帰ることもある。人を避けるのは、人の目線が怖いからだ、と先生おっしゃる。視線を批判的に受けとる癖がついている。それは自己評価が低いせいだと言う。僕はここへきて「また例の自己評価とやらだ。自信? 自己効力感? エフィカシー? ええい何でもいい。結局これさえ上げときゃどうにかなると、人の複雑な自意識を、給湯機の温度みたいに言いやがって」と毒づくが、ふと、もしかして僕が生きづらさを感じるのは、低い自己評価のせいかもしれないと思い至る(だって僕は人と比べて《そう、比較こそ諸悪の根源である》、稼いでないし、失敗してるし、友達は少ないし、暗いし、チンコはボタン電池みたいだし)。街を歩いても、不審者と思われるんじゃないか、子連れのママ連とすれ違うときは、凶行に及ぶ変質者と疑われているんじゃないか、と気が気でない。いつもニュースを騒がせるのは、日中フラフラしている、この年恰好の、この陰険顔の、この手の秘密趣味を持つ、この手の男だからである。これが低い自己評価の表れだろうか。分からない。自信がないから、なにひとつ自分の意見として言い切ることができない(ことだけは自信をもって断言できるのに)。

 

本書は自己主張の7ヵ条を掲げる。

《健全な自己主張のための7ヵ条》
①自分の意見は「相手の思惑を気にせずに」決める
②人に理由を説明する必要はない
③困っている人がいても、あなたの責任ではない
④考えは変わる
⑤嫌だったら嫌だと言う
⑥相手の質問のすべてに答える必要はない
⑦時には人を傷つけることもある

 

 

「おれバイト辞めてパチスロで食っていくことにした」
「どういうこと?」
「理由を説明する必要はない」
「私たち家族、どうやって暮らしていくの?」
「困る人がいても、おれの責任ではない」
「あきれた。昔は、そんな人じゃなかったわよ」
「考えは変わる」
「こうなったら実家へ帰らせてもらいます」
「嫌だ」
「なんで」
「嫌だったら嫌だ」
「なら考えを改めてくれるわね?」
「質問に答える必要はない」
「もうあなたが信じられないわ」
「時には人を傷つけることもある」

 

 

人見知りは、エレベーターで人と乗り合わせると、場の空気に緊張すると言うが、僕はそもそも人と乗り合わせるようなヘマをしない。が、バイトの行程上、どうしても相乗りを避けられぬ場面がある。商業ビルの地下駐車場から地上階へ上がるエレベーターは大人4人で満杯の箱、そこへ僕と、バイトの60代の先輩、50代の上品なおばちゃんが乗り合わせたとき、こんな会話があった。


「儲かってますか」
先輩が口火を切る。
おばちゃんは愛想笑いで、
「いや、それなりですわ」
「僕ねえ、犬とか猫、大嫌いなんです」
「あら、人生損してるわね」
女はエレベーターを出た。
「あれペットショップの店主や。俺嫌いやねんあのオバハン」

僕はこの会話に感動した。これこそ大人のビターでスウィートなやりとりだ。ペットショップの店主に、犬猫が嫌いと告げる大胆ないやらしさ、それに眉ひとつ動かさず、人生を損を問題にしてマウンティングする華麗さ、同年代の中高年アルバイターを見守る嘲弄とも敬愛とも受けとれる笑顔、うまくやり込められたおっさんが相手の背中に向かって、聞こえるか聞こえないかでとなえる、俺嫌いやねんあのオバハン――。

参った。これが洗練された世間話だ。こんな斬りあいを演じても、次に乗り合わせたらまた笑顔で会話するのだろう。愛犬家に犬嫌いを教えるのが自己主張なら、僕は人付き合いのうまい連中に、人見知りとして言ってやる。儲かってますか? ところで僕、人が嫌いなんです。