おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

 

男児の趣味は、トミカプラレールに別れる。愛車を、階段の手すりにゴシゴシこすりつけて遊ぶところから僕の意識はスタートした。電車なんか、自分の意志で曲がれない不自由な乗り物だ、車のほうが発明として上に決まっている、と思った。これはスクールカーストの反映でもあった。たんぽぽ2組のカメガワ君は虚弱体質で、かけっこでは周回遅れ、逆上がりにむせび泣くメガネっ子で、きんちゃく袋やランチクロスに電車のプリント品を(お母さんが)選ぶくらいのファン、そのいかにもなオタクの風貌に、それ見ろ、やっぱり電車好きの奴は軟弱で運動音痴だ。だって電車にはウインカーがないものな。急に曲がれって言ったって、どだい無理なはなしさ! と本気で思っていた。自分でみつけた社会の法則の第一であった。小学校で知り合ったカワイ君は、柔道家タイプの巨漢で、巡査の息子にしてガキ大将だった。彼が警察官向けの家族寮の自室で、畳に敷いたプラレールの基地を自慢してくれたとき、法則は崩れた。長いものにはとことん巻かれろ、強者の靴を舐めても子分に下れを信条とする生来の下衆なので、「カワイさん、これ面白いっすねえ」と、形式も知らない車両を掴みあげて笑うのだった。

電車の先頭車両で運転手越しに外を見ると、ふつう横に流れる景色が、奥から立体的に迫って左右に割れる、まさに自動車的なビジョンを得る。最前席は、子どもと大きなお友達の占有スペースだが、この日はしょぼたれたおっさんひとり。おっさんはトレインビューには目もくれず、ウインズ梅田で買ってきた馬券を、合格発表に向かう受験生がするように、数字を確かめたり、結果を想像して、ブランデーとホステスの香水かおる夢物語と、6畳間ちゃぶ台上のストロングゼロの悲喜を入れ代わり立ち代わり味わう、量子コンピュータの演算を表情に出力していた。おっさんは僕の視線に気づいて、見せものじゃないと言いたげに顔を上げたが、僕は車窓に目を凝らし、大人になっても電車熱を捨てきれず、休日はこうして先頭車両に乗って運転手の動作を見物したり、真似したりするのが好きなんです、家にも廃線の標識や看板なんか持ってます、の顔をつくった。実際、僕は、鉄道の進行に感動していたのである。電車は車両下部、車輪からレール、レールを載せた枕木、枕木の沈む砂利、阪急なら車輌の色まで、すべてが赤茶けている。鉄のサビと岩石の風化、火星のように地味な世界だ。ところが運転席から見る線路には、銀色のリボンがはためいている。350トンの鉄塊に研磨されたレールが、車輪と接するそこだけ包丁のように鋭く光っている。その鏡面には雲さえ映る。なるほど、電車には空の自由があった。たいして車に許された自由といえば、死角から一旦不停止で飛び出してくる、電動チャリの高機動型ジジイに、長めのクラクションを浴びせる権利くらいなものだ。僕はいまクリーニング店の配送車で、決められた道を走っている。見えないレールの上を電車のように、自分勝手に右左折もできずに進んでいる。毎朝の通勤電車が嫌で、郊外に残った零細の時給仕事にしがみついているが、縦横を転ずれば、車に乗るだけの気楽な仕事に電車の拘束があり、電車に乗って勤める一般企業の総合職に、自動車の裁量がある。痰の絡む60代のおっさんパートナーを横に乗せて、高架をくぐるとき、上を走る電車を覗く。ドアに立つどこかの勤め人は、見下ろす車列にどんな自由を妄想するだろうか。