おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

「やる気が出ない」が一瞬で消える方法だってさ(笑)

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風邪2日目の朝、症状やわらぎ、寝っぱなしもつらいので、派遣バイトの登録会に行ってきた。行ってきた、と言うと、行く気があったみたいだが、風邪をひく前に予約した説明会を、電話でキャンセルするのが怖かったのである。無断欠席のあとまた予約すると、名簿をみて「こいつ前回すっぽかした奴ちゃうけ? 連絡も寄こさんと、よくもまたいけしゃあしゃあと来れたもんやで。せやからいい歳こいてバイトで日銭を稼がなあかんねん」と思われそうじゃないか。2日ぶりの入浴、風呂場のシャンプーが、ラックスのスーパーリッチシャインから、アルビオンのスキンケアコンディショナーに変わっていた。同居の彼女の趣味だ。このメーカーの化粧水を含んだコットンは、ゴミ箱の底に堆積すると、オヤジの整髪料みたいなにおいが出る。週2回、各所のゴミを合成するとき、必ず化粧水と生ゴミの混ざったにおいを嗅ぐせいで、化粧水を嗅げば、ゴミだと思うようになった。2日ぶりの風呂で髪からゴミのにおいがするようになった。

登録会は大阪梅田のオフィスビルで行われた。事務所をパーテーションで区切った急ごしらえの粗造会場は、3人掛けの長机を3行2列で配置する。テーブルの間隔は、都心のカフェのように、腰をひねって通る狭さだ。開始7分前の到着で、最後から2番目の受付だった。2人ずつ埋まった机の、どこに入っても両隣がいる。「すんまへん、すんまへん。おしりも出てるやろけど前のほうも出てるよってにな、邪魔でっしゃろ。へへ、わしも自分のサイズには苦労してまんのやけどもね、おなごがえらい喜びますよってにな、こないだも…」と手刀を切りつつ、履歴書で盗み見た59歳の無職男タカギと、資格・特技欄にわき見したエクセルの達人(にはどうにも見えない)60代の男クスモトの間に入った。映画館でいうA列の席で、スクリーンたるホワイトボードは鼻先にある。来場者は、ボードに貼り付けの見本資料の赤い枠内を埋めるよう指示されている。早着の人(15人中、男はタカギ、クスモト、それからマスクの青年の3人で、あとは30代から50代の女性だった)が、経歴書と疾病関係の確認書類、扶養控除申告書類をせっせと記入していた。卒入学の記入がいらずに助かった。早見表をみても、留年浪人等を含めた計算が破滅的に苦手なのである。担当社員は、30代後半の男で身長は165センチと3ミリ。ランチには山盛りの天丼を好む腹太鼓だ。人相は描写をそそる。顔を見るなり、文字にする欲望に駆られ、帰ったら絶対に書いてやるぞ、と恋した。髪型は、床屋で「ふつう」を頼んだら出てくる短髪で、前髪が眉に触れたら切りに行くようだ。うすい眉毛になだれた一重まぶた、団子鼻に開口角の浅い唇。外観は、肥満体の典型だが、口に歯が2本しかなかった。見えるのが上の前歯だけなのである。斜めに見れば、ヤニ汚れしたすきっ歯が下に出揃うが、上は奥に向かって白が続かず、相当の本数を欠落している。それで発声明瞭なのは、訓練の成果か、天性の才か知らないが、腹話術を見るようであった。次に指である。男は、部屋の真ん中に立って説明したので気付かなかったが、免許証と銀行のキャッシュカードをコピーする段になって、右手を伸ばすとき、バインダーを受け持つ左手の薬指のつけ根に、ナスカの地上絵みたいな、点描による抽象図柄のタトゥーが見えた。何の絵か判らないのは、墨を隠すように上から指輪をはめるせいである。田舎のガソリンスタンド店員の隠し技だ。タトゥーを隠すための指輪か、本当の結婚指輪か。だとすると歯が2本しか(見え)なくとも結婚できるんだ。タカギ、クスモトの間で、世間の広さを知った。

さて本題の『やる気が出ない〜』の感想は書く気がない。カウンセラーの著書によると(カウンセラーとは免許も学位も必要なく、石川県のタバコ屋のおばちゃんから、農林水産省大臣まで、そう自称したければ誰もが肩書きにすることのできる、虫に詳しい子どもを大人がからかい混じりに呼ぶ「昆虫はかせ」みたいな通り名に過ぎない。売れ筋の本を見ると、この世にはカウンセラーとコンサルタントしかいないのではないかと思われる)、生物は快・不快の2次元のコードで出来ており、不快を避け、快になびいて生存してきた。人間も、不快な状況に置かれ続けるとバグが起こり、やる気がなくなってしまう。だから快を生きろ、というのである。僕はこの仮定がすでに不快だ。整備された民主社会では、構成員がちょっとずつの不快を我慢して、公共的な快を実現していく仕組みになっている。目的地まで信号無視で突っ切ったほうが早いのを、赤信号で止まる不快を受け入れて、大なりは生命の安全、小なりは円滑な交通(信号のないほうが渋滞する)の利便を得ましょう、ということだ。電車なら、ダイヤの乱れ、お互いの体臭を我慢して、安価の長距離移動の恩恵にあずかりましょう、だ。不快を我慢せずに笑顔の接客があるものか。著者は、やる気が起きないことを「学習性無気力」と定義する。これはラットの実験でわかった生物の習性、すなわち、電流装置に入れられたラットが、うんぬんかんぬんで、電流のオン・オフを自分で操作できなかったラットは、次に操作可能なゲージに入れられても、スイッチの切り換えにチャレンジせず、ビリビリされるがままになるという、どっかの啓発書、ネットの自助記事で見たようなアレを持ち出して、科学っぽく語っている。「学習性無気力」でググれば誰もが閲覧できる論文を一読すると()、無気力状態の回復には、小さな成功体験を重ねることが有効であると(いう文献が)示されている。しかし著者は「万能感への気付き」と「他人の嫉妬の認知」という、よく分からない解決法を持ち出してくる。万能感とは、彼が言うには、勝手な思い込みのこと。たとえば、なじみの店で、常連客の自分は優遇されるだろう、とふんぞりかえっていると、たまたま接客の不備、配膳の遅延にぶつかった時、心底不愉快になる。これは解る。知人に、初対面の反応をされたときのガッカリ感。そしてこっちが初対面ヅラしてやるときの、相手のウソだろ?という顔、落胆の表情をみるわくわく感。万能感の停止が、やる気につながる仕組みは分からないが、なるほど事前にハードルを下げるだけ、不快は減りそうである。これはなんとなく納得できる。腑に落ちないのは、あなたは他人から嫉妬されているから、やる気がでない、という第2の原因のほうだ。ここでは、無気力のふるさとを自分の外に求める原因の外在化、つまり自分が悪いと思い込んで(=「万能感」)自分を責めるのではなく、外部の問題として扱うことで負担を減らす狙いがある。やる気が出ない原因を外に求めるなら、はじめから内在の原因たる「万能感」を指摘する必要がないし、自分が他人を羨むならまだしも、他人が自分を妬んでいると想定するのは(本書では事実として断定される)、ほとんど勝手な妄想つまり万能感にほかならない。こういう不可解を可解にするべく何度も読み返すうちに、はたと気付くのである。全然「一瞬で消える」じゃないと。やる気回復の特効薬——散歩する、緑に触れる、瞑想する、とにかくやり始める、スケジューリングする、時限を設ける…を期待して読んだのに、一瞬では把握しきれない、まどろっこしい心構えばかりが説明される。この期待も僕の「万能感」、勝手なイメージのせいで読む気がなくなったんだと言われたら、それまでだ。もうなす術がない。あーあ、なにもやる気が起きない。

そもそも、だ。やる気がないことは、いけないことなのか。僕たちは、やる気を出すように、やる気があることが正しいことだと思うように、社会からドライブされているのでは。やる気があってもなくても、やったらいいし、やらなかったらいいじゃないか。なにが万能感だ、他人の嫉妬だ。釈迦は29歳で出家した。僕も30歳を目前に生き方を決めた。なにひとつがんばらないマンとして生きる。なにをしても「がんばりすぎかも?」と自問して、がんばっているようだったら、やめる。これ以上は、がんばりすぎである。