おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

将来は図書館の休憩おじさんが確定しています

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はじめに

目をひく新刊は、たいてい単行本の再編・文庫化・新装版なので、わざわざ買うことはない。旧楽曲のVer.2019より、原曲入りの中古アルバムを聞くほうが得だ。服や電子機器は新しいほどオシャレで高性能だが、本はモードとテクノロジーの進歩観、newnessの信仰と無縁である。

新装版まえがき、文庫版あとがきの「当時の熱気を味わっていただきたく、加筆修正は最小限にとどめ…」や、「最近めっきり勃ちも悪く」といった近況報告は、土曜日に鼻をほじりながら片付けた仕事が丸わかりで、読むほどに寒々しいものがある。読書通が「はじめに」と「おわりに」を読むな、と注意するとき、バカな、初心忘るべからず、終わりよければすべて良し、ハンバーガーも上下のバンズ、始末の両者が大事だろうが、と思って、学生時代は専門書の冒頭3ページに苦闘し、学問の道はかくも険しいものかと無念を味わった。彼らは難しいことをやるのが仕事だから、わざと難しく書いているのだ。アパートの入口へ神殿の柱を建てるのだ。芦屋の六麓荘は有名な高級住宅地で、友人の軽で見学ツアーをやったとき、どの邸宅も門前にライオンの石像を配するような気配があった。まったくどいつもこいつも、せせこましい日本の土地に、こびとが住むようなミニチュア宮殿を競うように建てやがって、いっそタージマハルを作った皇帝のように、設計者を殺し、建設作業員の手を切り落として、後世に二度と同じ物が現れないようにするぐらいの規模があって欲しいものだ。どこを歩いても同じ様式の同じ建物、車が空気抵抗の方程式に従って、どれも溶けたキャラメルみたいな外観を示すように、どの住宅もコスパの計算室を経て、似た材質の似た構造の、唯一無二にして悉皆無数の”マイ”ホームにできあがる。そういえば都築響一の『圏外編集者』にこんな話があった。

一緒に飲んでいて、たとえば「安藤忠雄も終わったよね」なんて言ってる建築雑誌の編集者が、じゃあ自分の雑誌で『さよなら安藤忠雄特集』をやるかといえば、それは絶対にしない。ハイファッションなんて買えもしない編集者が、紙面では「上質なものと暮らす喜び」なんて記事を作っている。

紙面は体のいい嘘で満ちている。「はじめに」は雑誌の表紙みたいなものだ。モデルの美顔は目をひくが、理解は1ミリも前に進まない。

 

大阪の池田で住んで30年。昔、図書館は山中にあり、景観はいいがアクセスの悪い、田舎の私大みたいな施設だった。今は池田駅前ビルにある。歯科医院の床、授乳室の壁。行政の雰囲気をかもす白と直角は見る影もなく、板チョコを半分に折ったじじくさいビニールソファが、つぶれたグミのデザインチェアに置き換わった。

図書館は、知の殿堂ではなく、おっさんシェルターである。金銭に余裕あるおじさんは、パチンコ屋、競艇場へ姿をくらますが、サーバーの水も水筒にとって帰りたい倹約家は、冷暖房完備の屋内施設でじっと過ごす。出版社は、海外のエリートやエグゼクティブが瞑想すると知り、瞑想を不調の万能薬とする本を乱発した。成功欲にとりつかれた下級事務員および無職・フリーターが瞑想し、瞑想して得るものなき事態が噴出する。瞑想した後、何かいいことをした感と、で、どうすればいいんだ感に苦しむ。若年の市議候補のように、元気の使い方に困る。瞑想の達人を求めてチベットの山奥に入り、東大の脳科学者を頼る必要はなかった。公共施設の仙人をたずねよ、だ。釈迦が花を指差すのを見て悟った人がいるように、仙人がビニール袋からみかんを取り出す手つきに、人生の諦めが得られるだろう。

図書館にも仙人はいる。もうとっくに本に厭きてしまい、ポケットの小銭を掴みだしては丸くちびた指で1枚ずつ表裏の絵柄と金額の一致を確かめては戻し、次は金が増えるかと、おみくじを引きなおす要領で、またポケットの硬貨をひっぱり出す老人。一度も読みきらない村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の冒頭で、主人公が同じ行動をする(このシーンだけは何度も読み返すはめになるので覚えてしまう)。85年の作、あれから30年も経てば登場人物もこう老けるのかと、読み置いたまま時が過ぎた物語の停滞を見るようだ。べつの中年男は、新幹線の席みたいに、ソファで靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、脱いだ靴下でつま先にシュークリームを作り、剥けた踵を地べたで冷やして休んでいる。ブックオフで文庫本に顔をうずめるホームレスにしてもそうだが、彼らは常人より数十倍も活字に親しんでいるにもかかわらず、そこから在野の研究者が出たり、放浪の哲学者が生まれることはない。本が修養するはずの精神は、なんら実効を伴わず、むしろ眼前に展開する字をただ享楽的に眺めるだけの、ほとんど野球中継を前にしたおやじの堕落を呈している。年収が高い人ほど本を読む、成功者はみな読書好きだと噂する人は、公園や図書館にいる活字好きをどう見るか。異常な外れ値だろうか。それとも本は、健全な行動を損なう恐れのある、包むのが葉であるか字であるかに違いがあるだけの、ほとんどタバコ同類の嗜好品だろうか。

不登校児に居場所はない。登校する学校も、出社する職場もない暇なおじさんたちの居場所問題は、教育の点から顧みられないだけさらに暗に置かれている。先日、マクドナルドの両席に60代のおっさんが座った。子どもが騒ぐ横で、高校生が学ぶ前で、スポーツ紙片手に100円コーヒーをちびちびやりながら直角のソファに粘っこく張りついている。僕は年をとっても、こんな風に時間を潰すのはご免だ、と思ったが、そうなる未来を予感した。

肥満の英語女教師が、教材『ローマの休日』のオードリー・ヘプバーンを指して「きれいな人やけど今はアカンね。痩せた人は老けたら悲惨。太いほうが、若く見える」と、腹を叩いて勝利宣言した。90歳の祖母は、入浴時に干し柿みたいなおいど(彼女は古い大阪弁でおしりをそう呼ぶ)丸出しでも、寿司を食べ行くとなると、くずきりの白髪を水で戻し、唇を赤く塗る。叢中紅一点、草むらの一輪花をそう言うが、ばばあの口紅には老醜紅一点の凄まじさがある。とろけた皮膚、ガイコツの透ける顔に赤だけが自立している。同級生も死に、友達も消えた今、彼女のとりまきは親類だけ。口紅にまだ会わぬ他者の想定がある。未知の社会関係を開く用意がある。それが人間的なのである。たいして男はどうだ。マクドの一方の席のおじいは、鼻毛が冷凍庫の霜のように飛び出ていた。鼻毛、耳毛が出るのはいい(人間だもの)、悲しいのはそれを注意する人がいないことだ(あらあなた、鼻毛がわんさか出ていますわよ)。

デートにヒートテック1枚で臨んだら、
「きもい。肌着で街へ出るな。パンツで歩く恥を思え」
と言われた。心無い指摘の心遣いに感謝である。僕はセンスで売るデザイナーでないし、布の単語で語る芸能人でもないのだから、服は他人のために着る。髪が変、ヒゲが汚い、服がおかしい、と矯正されて初めてまともな人になる(おかげで職務質問を免れる。警察24時に出てきた「神の目を持つ男」は、パトカーから見た通行人の印象「ガサッとしてるな」だけで、薬物犯を検挙していた。「ガサッと」のクオリアは、人が見た目によることを示している)。

書店で、ベースボールキャップの男が、大股を開いたまま、コマ送りの絵みたいに立ち止まった。何だと思った客が、観光ガイドブックから、学生参考書から、知的生きかた文庫から顔を上げる。即席の円形劇場で、不動の男が、力み、パーと高い屁をこく。発信音のあとにメッセージが吹き込まれる時間も待たず、男は去る。居合わせた一同は顔を見合って驚嘆の拍手喝采であった。おならは人目人耳を盗んでする。鏡を通ったら、自分を確認しないでいられる、無頓着な人間に見られたくてわざと顔をそむける。新設の図書館にセルフ貸出カウンターができたときは、嬉しかった。これで真顔で借りるのが恥ずかしい『己の心を制するものは人生を制する』とか『頭の中の貧乏神を追い出す方法』とか『絶対大金持ちになる』が読める。重厚な二字「存在」「生命」「歴史」といった深遠なタイトルの本ばかりを、うちこれ好きで読んでますねん、と鬼才の幼児じみた好奇心、秀才の知的貪婪さを演出したいあまりに、借りては返す、無意味な本の行って来いに20代の大半の精力を費やしてきた。カウンターで「これ貸出お願いします」と言うのが面倒である。司書が作業らしいこと、他の職員との仕事の打ち合わせ(にみえる雑談)をしているところを、僕みたいな人間が横入りして、手間を増やすのが申し訳ない。ぶ厚い本を借りるときは、「重いものを何冊も持ってきやがって」と配送窓口の愚痴を聞くようで心苦しい。それが彼らの仕事だが、仕事のない奴が人の仕事を増やすのは悪夢に思えるのである。図書館の本を電子書籍にして返却を自動にすれば、返す手間も、予約待ちのもどかしさも消える。僕は、ちゃんと返さなきゃ困る人がいる、と思うことで、家を出る理由と、積ん読の解消ができるので、物体として、公共財を分有する責任の実体化した重みを感じているほうが、人間の駄目の改造には役立つ。

図書館にヤンママが来た。国語の授業をまつげの手入れに充ててきただろうスウェットに黒マスクの金髪女である。男児は襟足がイカ足くらい伸びている。図書館に来る女子は、夏の風物でいうと、火を吹く筒というより、ちりちり光る紙こよりである。彼女はヤギの群れに入ったライオンであった。館内の静寂を知らず、まるでマクドにいるような音量で、
「りく~、こっちちゃうで。こどものんあっちやで」
とない眉毛を寄せた。図書館は、左右の空間の両端に、児童書と一般書を隔離している。ママは子どもといっしょに遠慮なく本が選べるし、孤独なジジイの安眠は守られる。子どもコーナーから雑誌、新聞、ジャーナリズム、経済、金融、技術、医療、文化、娯楽小説、文学、古典文学と、実用的なジャンルから空想的な内容へと向かうコースの最果てに、詩がある。児童書から最も離れたものが詩なのだ。高度な詩境が子どもに分かってたまるものか。ところが詩作は、老若で優劣のつかない唯一の文芸である。年齢を伏せられた評者は、80歳の詩人と8歳の坊やの作を同列に並べてしまう。なるほど東を行けば西の始まり。どっちもこどものん、やで。