おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

最もイノベイティブなたこ焼き

 

BRUNOのホットプレートは女子受けする。彼女たちは料理上手に見えるためなら鍋つかみにだって凝る。ただの電熱線に、かわいいつまみ、かわいいフタ、かわいいエングレイヴ、かわいい流線、かわいいカラー、かわいいゴム、かわいい木べら、かわいい箱(西洋人がプレートを囲むヘタウマの、アメリカ産の山藤章二みたいなイラストだ。英字のキャプションは「楽しみこそが料理のスパイスだ」と言う。引き出しの取手はリボンだ)がつくと、物欲が嵩ずるようである。

粗製のナンチャラ記念日が近づくごとに「BRUNOっていいなあ」と耳打ちされ、そのたびに「へえそうなんだあ」「そんなに使うかな」「シンプルに金がない」と断ってきた。かき氷機をねだるときは「アイスよりコスパがいい。氷なんてタダだ。味はシロップで変幻自在、フルーツジュースを凍らせてもいい」と説得した。商店街の空きテナントに現れては消える、無料プレゼントのサラダ油で老人をおびき寄せては高額な布団セットを集団催眠商法で買わせる「グリーンプラザ」みたいな名前の悪徳商会に騙されたおじいさんみたいに、ハイハイハイと手を上げて電動ふわとろ雪かき氷機(¥3,000)を買ったものの、使ったのはその日の1回だけ。1杯3,000円のかき氷なんて高級ホテルでも気が咎めて出しやしない。なにがトータルでみれば安いだ。結局コンビニのアイスも買うじゃないか。BRUNOの不買運動で無言の抗議に出た。するとタイミングよく彼女が転職し、同僚カンパの退社祝いで、真っ赤なBRUNOが家にやってきた。

大阪人はタコパする。大阪人3人寄らばもんじゃの敵である。原価の安い粉もんの代表格、小麦粉を溶かしたシャバシャバを焼いて丸めたB級グルメのなにがパーティだ。大体たこ焼きのポジションが気に食わない。主食には物足りず、おやつには大がかりだ。生まれてすぐたこ焼きの手ぬぐいに抱かれ、たこ焼きの乳母車に乗せられ、離乳食はたこ焼き、テレビはたこやきマントマン、三輪車もたこ焼き、二輪車の補助輪もたこ焼き、たこ焼き学校のたこ組で、たこ焼きのペンケースにたこ焼きの消しゴムで、たこ焼きのテストでたこ12個入り、舟皿のお弁当箱にハンバーグで育った筋金入りの大阪人なので、今さらたこ焼きじゃテンションが上がらない。空腹で帰ったら「今日はおでんよ」とおかんから知らされたときのガッカリ感である。実家にはたこ焼き器がない。外でも食べない。おかんが夜店を指して「あんなもん何入れてるか分からん。汚いからやめとき」の家訓が浸透していたのである。BRUNOはたこ焼きプレートを標準装備。材料費が安くて大量生産できるために「今日はたこ焼きにしよう」が頻発するが「イカの気分だ」「タコに食われる夢を見た」と難癖をつけて断ってきた。先日、お決まりの勧誘を「タコがない」で断ると、「もうタコじゃなくても良い」と開き直る。たこ焼きからたこを省くなんて。大阪のソウルフードは、アイデンティティの根幹がゆらぐ。

インサイド・ボックス 究極の創造的思考法』に、たこ抜きたこ焼きの例がある。業界に革新をもたらした製品を調査し、共通点をまとめた本だ。ここに引き算の法則がある。DVDプレーヤーは、従来のVHSデッキと置き換わっても違和感のないように、同じサイズ・同じ形で売り出されたが、パッとしなかった。そこでVHSデッキの表面にひしめいていたボタン(ボタンの多さは機能の豊かさを示すものだった)をリモコンに集約し、本体をディスクのように薄くすることで、再生機器のデザインを革新した。僕らのリビングになじむDVDプレーヤーは、ボタンの引き算によってもたらされたのである。他にも、モニタをなくした除細動器、ユーザーの選曲権を奪ったiPodシャッフル、電話できない電話(受信ができる子ども向け電話。発信できないので通話料がかさむ心配もなく、不健全な接触も防げる)など、もともとの製品に必要不可欠と思われた要素を取り除いたあとでその使い道を探す、という手法が意外なヒットにつながる。たこ焼きからたこを取ったら…僕らは世界を変えるイノベーションの初段階に立っていた。

サンディでたこの代替物を買う。もうたこでいいと思ったが、たこは1パック350円のモーリタニア産しかなかった。モーリタニアを記憶の地図に探すと、地理の授業で森田さんがモーリタニアになった椿事しか思い出さない。さて、卓上のBRUNOには、24個のくぼみに、黄色の液がぐつぐつ煮えて、早くも外周に固形の輪ができ、袋から開けたてのコンドームの様相を示している。『今ちゃんの実は』で、たこ焼き屋のバトルがあり、各社のエースが目隠したこ焼きひっくり返し選手権で戦っていた。なんやアホらしい、目玉焼きをひっくり返すのと何が違うんや、こんなもん練習せんくても簡単にできるやろ、せやからテレビ局の「達人の技」いうんは信用できひんねん、と盤面をこねくり回していたら、崩れたがんもみたいな、培養液から上げられた不具の生命体が、ひくひくと呼吸する実験場になっていた。彼女はもち・ウィンナー、僕は塩こんぶ、ミートボールを選んだ。塩こんぶは『ガキの使い』の料理企画で好評だったもの。ミートボールは、丸には丸が合うだろう、という2歳児のパズル玩具の発想だ。僕は服装も変だし、勉強だって暗記ができない文章題には手が出ない、人付き合いも朝5時に起きてゴミを出すくらい苦手だし、お金の使い方だってコーヒーを飲むのに家で作るよりスーパーで買うより自販機の高い缶コーヒーを飲んでしまう、人生だって他人の答えを探して自分じゃ考えないし、ブログも高校生の語彙でやりくりしている。なかでも最大の音痴が味覚である。胃の辞書は、焼きそば、チャーハン、オムライス、カレー、そうめん、パスタ、うどんの項目で成り立っている。夕飯の食材選びに悩む彼女に「飯なんてレトルトカレーでいいからさっさと帰ろうぜ」と漏らして何度喧嘩になったことか。テレビでは食欲の秋と言い、岡山のまつたけ三昧日帰りバスツアーへ参加したレポーターが「すごいジューシーですね」を連呼するけれども、わざわざうまいものを食べに出かけるのは変だし、車に乗って胃袋を満たし車に乗って帰ってくる一連の動きを見ると、なんとも滑稽である。僕は過度の嘔吐恐怖症で、食事にたいして前向きになれない。病気や戦時、経済の困窮を経験したことない一人っ子のゆとりで、一食一食を大切にする意識がないせいもある。いただきます、ごちそうさまでしたを強制されて言うようになったのは、彼女と同居し始めたこの半年のことだ。ナチの敬礼、フリーメイソンの握手、朝礼の社訓5ヵ条の唱和など、結社のポーズやしきたりが構成員にとって形式を超えた不気味な意味を帯びるように、食前食後に手を合わせてまじなうと、不思議と自分が食物連鎖のなかで、生物のいのちをいただいていること、生産者・加工業者・販売者……手もとのごま豆乳鍋を実現するあらゆる関係者と、それを買う金を稼ぐ彼女、賃金を生む労働、仕事を配分する会社、社会の協働関係、生活のコンビニエンスを生む神秘的な分業制のおかげで、自分では鳥も殺せない人間が、鶏肉のごちそうを胃におさめることができている事実に、ほとんど奇跡のようなありがたみを感じる。つながりを実感したそのときだけ、モノクロに自閉した世界がカラーになって開けるような開放感がある。合掌を解いた1秒後には、状況にあぐらをかいて、人間の縁を無視し、ミニマムな世界へひきこもるのであるが…。

ミートボールはまずかった。ミートボールと生地は一緒に食べても別であり、部分の総和以上の何かが生まれなかった。塩こんぶは微妙だった。もち・ウィンナーは微味だった。原因は、紅しょうがだ。保存するタッパーに臭いと色が移るのを嫌って、一袋まるまる鉄板にぶちまけた。赤色のフタをしたみたいになって、何を食べてもジンジャエールの味がした。僕らはたこ焼きではなく、しょうが焼きを作っていたのである。いつもなら少食の僕が残すぶんを先に片付けてくれる彼女が箸を置き、石のように水に沈んで、早々に手を合わせてしまった。僕も慌てて手を合わせて「ごちそうさまでした」を唱えたが、世界は革新できなかった。