おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

僕の仕事は「家事手伝い」

 

家事をする男は聖徳太子より希少で、金メダカより発見が困難だと言われている。外で働きながら、家の仕事をするのが偉いのであり(ハードワークは真の美徳だ)、稼ぎといえばクイズアプリの1日30円という僕みたいな無産者になると、暇なら家事くらいやれ、というはなしになってくる。ニートの頃は、枕カバーをママに洗ってもらったが、今は人類の偉大なる母性につけこんで同い年の女と気弱な同棲生活(僕は貴方でもダーリンでもなく、ゆとりモンスターと呼ばれている)、明治の小説みたいに女中を雇うわけにもいかず、日中働く彼女のために料理以外のすべての家事を一手に引き受ける。いかにも荒野に伽藍を建てる大仕事をするようであるが、いざ自分がパパとママの代わりに家事をこなすようになると、親の偉大さより卑小さに気付く。おかんは月に5日だけ郵便局のパートに出る兼業主婦で、「もうちょっとだけ寝よかな」「寝るのが一番や」「金も使わんし気持ちがええわ」を口癖にする(この性格は僕にも移った)、自分が同年代のどの女よりも美貌を保っていると誇る、並みの大阪のおばはんである。「洗濯は大変やけど、毎日みんなのためにやってあげてるねんで」と恩着せがましく言うのを、「洗濯は洗濯機がやるんや」とおとんに封殺されている。干すのも畳むのも、おとんの仕事なのである。今では2人の意見の相克がよく分かる。家事は大変だが、大変ではない。

 

洗い物を終えてこれを書く今午前5時である。早起きしても特にすることはない。見るのを見られたらまずい動画(競艇、パチンコ・パチスロのチャンネル)の更新分を消化したり、足にできたまめを爪切りでもいだりする。彼女がグーグー寝息を立てる寝室を出てから小用を足す、乾いた唾液臭ふんぷんたる歯ぎしり防止用マウスピースを10ラウンド目のボクサーみたいにぷっと吐き出して、リビングへただよい出る。ご褒美の1杯がすぐ飲めるように、コーヒーメーカーを仕込み、洗い場に一夜漬けの食器類と向かい合う。おかんが朝一で洗い物するのを見て、昨日のうちにやっておけばいいものを、とあなどったが、自分が洗う番になると、晩ご飯の満腹でもう一仕事やるのは実に億劫なものだ。朝一のぼーっとした頭で、面倒を面倒とすら思わない状態で、無心のまま片づけるのがよい。ふだんは静かなジャズしか聞かないが、皿洗いだけはBPMの高いトランス/テクノの爆音でこなす。テンションぶち上げでこびりついた米粒としなびた水菜を三角コーナーへ追いこむ。静かに狂った10分間である。

大学の研究室にいた50代の、社会人出戻り型の博士課程のおっさん学生が、備えつけの流し台で背を丸めた。「皿洗いは落ち着くんです」と語ったのを、彼の研究よりはっきりと覚えている。当時まともに食器洗いの経験もなく、ゴム手袋に手を通したことのない童貞だった僕は、彼の発言を、ただの強がりだと思った。煩わしさが物的に解消できないから、心的にだけでも折り合いをつけようと、落ち着くという効能をでっち上げたんだ、人質が立てこもり犯に味方する心理改造だ、と彼の偽善を見抜いたつもりでいたが、今はぶくぶく泡立つ洗剤のクリームに心をなごませる、油分と界面活性剤の攪拌に身をまかせるママレモンのたしなみを覚えた。「洗うのも大変なんやで」と愚痴るおかんには「面倒だが大変ではない」と反駁したい。むろん僕は2人分、おかんはかつて家族3人分の食器を洗ったが、これに次女の麻里亜、三女の希空(のあ)、次男の樹希夜(じゅきや)、三男の安楽人(あらじん)が加わる大家族ともなると、大変だ。大家族の食器を職業的に引き受けるのが、外食チェーンの皿洗いである。皿洗いと聞くとフラッシュバックする光景がある。淀屋橋周辺の吉野家だ。印刷会社でバイトした頃によく食べた。腹持ちする食物を限られた時間内になるべく早く、なるべく安くかき込みたい1人客の、肩を寄せ合ってカウンターに殺到する、餌付けされた牛豚を飼料にしたヒトの餌付けの動物園的光景であった。座って斜めに覗いた厨房に、30代前半の男が立っている。流しっぱなしの冷水へ素手をさらし、手元一点を見つめ、赤鼻の両端から、さらさらとふたすぢの鼻汁を、いまにもえずきそうな口へそそぐままに、昼食ラッシュ時の次から次へと送られてくる空のどんぶり鉢を洗う姿が見えた。2本腕10本指のキャパを超える仕事を押しつけられている。今にも卒倒しそうな疲労であった。駅伝、山超え5区の攻防であった。皿洗いは人を追い込む。夕食の醤油皿で文句を言うようでは、主夫は務まらぬものと心得ている。

皿洗いより排水口掃除のほうがつらい。生ゴミカスの溜まりから、吐気を誘う腐臭が立ちのぼる。フタのすぐ下、網の目のプラスチックの受け皿にネットをかけて掃除の便をはかるが、問題は受け皿の隅にカスタード色のねちょねちょが不法滞留し、詰まりや異臭、賭博や売春の温床になっていることだ。わざとゴミが溜まりやすく、洗いにくい設計にしたのだと、製造者のいたずらを疑っている。碁盤だったら、もう石の置きどころがないほど目という目が詰まり、カビが黒斑を作っている。これを使い古しの歯ブラシで洗う。現に歯を磨いているブラシと同色同型なので、なにかの拍子に入れ替わったらどうしよう、と不安になる。格子から掃き出される歯垢のような食品カスとごしごし間接キスするような感覚が歯間に広がって、胃から酸がこみ上げる。とはいえ、これはまだ中ボスだ。水まわりを手入れするようになって、便器の黒ずみや、浴室のピンクぬめりの神出鬼没を知ったが、それ以上の大ボスが、シンク下の生ゴミポケットのさらに下に潜んでいると知った。それが排水トラップである。異物の流出防止はもちろん、排水管から上がってくる悪臭や害虫を防ぐ役割を果たしている門番である。管にかぶさるシルクハットの形で、頭がぬるぬるしている。ひねって着脱する簡単なねじ構造なのに、取り出せない。掴みたくないのに、力を入れて、表面に付着したクリーム色のふにゃふにゃを握らなければならない。虎穴に入らずんば虎子を得ず、が動物園の空想になった今、排水口のぬめりに触れずんばトラップを得ずの格言が、もっとも実感に即した警告を与える。外したトラップを裏返しにする勇気があるだろうか。コップ状の空洞、つまり排水管に接し、表からもっとも隠れた陰湿の最奥部である。ホラーゲームの、この扉を開けたらなにか出てくる、沢辺に落ちた小岩をめくるときの、こいつの裏に絶対なにかいる、という予感がする。想像で描く黒カビの密集、豚のホルモンのような、白とピンクのイボイボコロニーの繁栄は見る影もなく、顔のほくろのような汚れが点在するだけで、一番のグロテスクを期待した興奮は裏切られる。空気に触れず、水に浸かっているから、海底遺跡のように腐らないのだろうか。それでも、油脂が流れずに、空洞の壁にねばっこい膜を張るので、嫌いな奴が来たときは、これをコップにコーンポタージュの1杯でも飲ませてやろうかと思っているところだ。

 

掃除機をかけるようになってから、豪邸案内のテレビを見ると、うらやましい、一度でいいから住んでみたいと思う反面、掃除するのが面倒そうだ、どれだけコンセントを抜き差ししてあちこち床を吸って回らねばいけないのか、と思い、狭い家に納得するようになった。むろん、大豪邸となると、庭の手入れからブラジャーの洗濯まで、使用人がこなすだろうから、ここではお手伝いさんを雇い入れるまでもない中途半端な邸宅のことを言っている。おかんの友達に中邸宅に住むおばはんがいる。彼女はホコリが許せない潔癖に取り憑かれ、年に3台も掃除機を壊す。僕も偏執なところがあるから、その熱中が解るのである。チリ、ホコリは吸えども掃けども、毎日毎秒、どこからか湧いてくる。完全に密閉したはずの容器からホコリが出ることはよくあり、地下金庫の盗難アラームの誤作動はほとんど突然あらわれるホコリのせいだという調査結果もある、というのはいま作った有名な話だ。塵芥を完全に追い出すのは、砂浜を掃いて地殻を露出させる事業と変わらない。我が家のサイクロン掃除機は10年前のガタガタの年寄りで、吸ったゴミを飲み込み損ねる。経路を振り返ると、余計に散らかっている。取り逃がしを気にすると毒だ。お巡りさんも街でくり返される軽微な犯罪を、きわどい信号通過、落ちた帽子を拾う遺失物横領、スーパーの惣菜コーナーからわさびを大量に持ち帰ること、ビニール袋をトイレットペーパー並みにぐるぐる巻きとることを、いちいち取り締まらない。掃除機は、寛容な心を養う。いくら吸っても何にもならないという人生の無為にも気付く。紙パック不要を喜ぶと、今度はゴミ容器のフィルターの目づまりを毎回ブラシで掃かないと吸引力が維持できない旧式サイクロンのメンテナンスの手間に、ひとつ便利になるとその裏でひとつ面倒が増えるという、格言の実例を得る。ヘッドに巻きついた毛髪をぶちぶち引き抜くとき、大量のホコリが宙に舞って、掃除機を掃除して出たゴミをまた掃除機で吸う、という気味悪いループに、なにか人間の愚かさが集約しているように思われて、ある日の天空を覆う巨大人間掃除機のノズル到来を前に、自身に冠せられた五味の苗字を確認するのである。強・中、優しさ、という吸引力の調整ボタンが、弱いことは優しさだ、という青春映画のメッセージをたったひと押しで教えてくれる。人生で大切なことはすべて掃除機から教わった。というより、掃除機のコードが届く範囲で、吸引力の及ぶスケールで、人生を再解釈するようになった。僕の想像力は主婦化している。掃除機なセンスである。

 

これが僕の仕事の哲学だ。時短や効率化のテクニックがひとつもないのは、僕がこのブログを役に立たないもの(使える人・物は使われる運命にある)として標榜するのが第一因、もうひとつは、時間がたっぷりあるせいで要領よく家事をこなす必要がないためである。洗濯は、洗濯板の切り出しから始めても間に合う。掃除は、ホウキの頭のシュロの枝を束ねる紐を編む糸車の土台となる木材を調達するノコギリ刃の鋳造のための塊鉄炉を組むレンガ干しから始めても、夕方のドラマに茶菓子を持って臨める。余裕はあるが、たびたび洗濯に失敗し、風呂から上がって拭いたタオルの、水を含んで甦る生乾きの雑巾の臭いが、顔一面に塗りたくられて、再度風呂行きを余儀なくされることがある。ベランダでタオルを監視して、入念にうらおもてを日光に浴びせても、まだ鼻を当てた奥底でかすかに悪臭の胎動を感じるとき、やり場のない怒りを覚える。家事はまったくの徒労だ。銀河系から見て、徒労でない人間の活動があろうか。宇宙規模の文脈へ家事の意味を解体するのもいいが、僕はもっとも身近な人を幸せにできる、幸せとはいかずとも快適に過ごせるためのささいな助力に、尊い意味を感じている。気づけば「あんたのためにやってあげてるねんで」と、おかんと同じことを言っている。