おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

『モテる読書術』は迷惑メールだ

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『モテる読書術』を読んだ。ページの流れを眺めた。著者のアドバイス「知らない人名、分からない単語は検索しよう」の通り、長倉顕太をググると、高額セミナー、詐欺、訴訟、被害という文字がトップページに頻出する。「私は出版社で編集長として1000万部以上のビジネス本を売ってきた」と言うが、関わった本の名前は出てこない。

ビジネス書の編集者だったから「ひたすら成功本を読んでるけど成功していない人」をたくさん見てきた。そもそも、成功本を作っている編集者が成功していないという皮肉も見てきたわけよ。…だいたいセミナーとかで涙したりしてるやつで成功したやつなんて見たことない。

一読して判るが、読書する人の文章ではない。長倉さんはビジネス書、成功哲学書をつくる途中で、同じことをしたら稼げるんじゃないの、と気付いて、他の啓発セミナーの手法を真似て、自分で詐欺まがいのミニマムな信者ビジネスを始めちゃった人だと予想する。読書を語る本なのに、途中でブラックジャックの賭けの理論(プロのギャンブラーを目指していたそうだ)を展開するのは異例だが、ようは金を稼ぐためなら、どんな方法でもええやん、この世のなか、利益が事業を正当化するんやで、って考えの(長倉さんは東京都出身だが)、バリバリの現世利益志向型の人だ。

 

読書をすることで世界を広げ、読書で得た知識を現実世界に落とし込み、人脈を広げることでモテるようになる。

これはまだいいとしても、

言葉の重要性について書いておく。新約聖書ヨハネによる福音書」の冒頭に、「はじめに言葉ありき」とあるように、この世界は言葉から始まったと言っていい。

聖書の世界観によるなら、なぜ旧約聖書「創世記」の、

元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり

からではないのか。

 

随所のおかしさは読者のスクリーニングだ。どういうことかというと、瀧本哲史の『戦略がすべて』にわかりやすい説明がある。

電話での振り込め詐欺やネットの詐欺メールなどでは、話があまりにも不自然だったり、文章が多少おかしかったりすることが多い。しかし、こうした犯罪に詳しい人によると、実は普通の人が騙されないような文章を送ることは、「騙されやすい普通じゃない人」を抽出するための手段だという。…実はこうしたモデルは珍しいものではない。出版業界でも毎月のように同じような内容の本を出し続ける著者がいるが、この中には、読者からより高額を徴収できる講習会や会員組織への誘導を目的としている者がいる。彼らにとっては、内容が同じであることに気がつかない、あるいは気持ちいいと感じる読者を効率よくつかまえることが重要なので、似たような本を出し続けている面があるのだ。

まさに『モテる読書術』の最後には、ブログ・メルマガのURL、ライングループへの招待QRコードがついている。Kindle Unlimitedで公開された理由も、幅広い人にリーチしたいからだ。迷惑メールの送れば当たる戦法、というより、この本じたいが全文迷惑メールみたいなもんである。悪口を言うと気分が悪くなるので、良いところも紹介する。

自分とは、他者との関係である
幸せな自分とは、幸せな人間関係である

という定式は、なるほどと思った(一言一句正確ではなく文意を記憶で再現している。ちゃんと読み返すのが面倒なのである)。本書の「モテる」の意図は、読書を通して得た知識を、共通の話題として、本を読む層(=知識層ゆえに高収入層だと本書では短絡される)の人脈をつくる、金持ちと交流する勝ち組の人間関係を築いて幸せになろうよ、というそれ自体では学校の読書週間の標語(「借りた辞書 赤線ひっぱる 膣の項」)みたいに無意味なものである。読書がその人にとって、知識を運んでくれたり、金策の一助となったり、晩ごはんのおかずのヒントになったり、どう役立っても構わないが、僕にとっては人とつながるためのツールではない。宇多田ヒカルの名言「人と話したくなくてゲームやってるのに、どうしてゲームの中でまで人と会話しなきゃいけないの」の通り、人と会いたくなくて、ひとりになりたくて本を読んでいるのに、どうして、もろもろの煩雑を招くネットワークを自ら拡げなきゃならないのか。読書会にも同じ疑問を感じるから参加したくとも参加しないのである。僕は人脈を軽んじている。なにかの目標を達するために集うゲゼルシャフト的な、企業社会の打算的な人間集団みたいなものへの帰属を嫌悪している。かといって、人間本来のあたたかみのある繋がり、絆というものも信用していない。つくづくモテるとは反対方向の、閉鎖的な箱庭へ向かうようだが、それでいて、人から褒められたい、認められたい、チヤホヤされたいと望むねじれた思惑があり、二律背反に引っ張られたさけるチーズ状態である。僕はどんな目的にも奉仕しない友だちが欲しい。

人の書いた本の悪口を言うだけなら、アマゾンレビューにも匿名の仕事が山ほどあり、どのレビューもそうであるように創造的でない。いち購入者としての感想が求められる場で、力作の評論を読まされても困るし、まず読みたくないが、今回は『モテる読書術』に呼応して、読書の姿勢を説く。姿勢といっても、素直な初学者のように、だとか、予断を排した中立的な立場で、という心持ちを説教するのではなく、肉体の位置のはなしである。

 

 

1. 座る

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背筋をピンと伸ばして、胸をパンと張って、ポンと歩けば、それだけで気が晴れて、みるみる元気になる。そんなメンタルと姿勢の心理学を、非専門家の不確定さで言い直したいのではない。ここからは姿勢と読書を素人目線で語る。

まずは座るだ。学校では着席を強いられるし、喫茶店でも座るのが常識になっている。長時間のデスクワークが、脳梗塞のリスクを高めるから積極的に起立しよう、とも思わない。アメリカの著述家が、スタンディングデスクを通り越して、机の下にウォーキングマシンをセットし、「歩いて執筆することで、血の巡りが良くなり、発想が豊かになる」と装置に掴まって汗をかくのを見ると、書くか歩くかどっちかにしろ、と思う。こういう奴に限ってリンスインシャンプーには否定的なのだ。学校で塾で、教習所で留置場で、ずっと座って書類と向き合ってきたからには、せめて監督不在の自宅では、楽な姿勢で本が読みたい。そう思って寝っ転がるが、内容理解のためには、辛くとも、座るのが一番である。ただ僕は姿勢を気にする余り、座っていても、背中が丸くなっていないか、足裏はちゃんと床に着いているか、肘をついていないか、左右の腕の荷重は均等か、10秒間の呼吸回数は一般男性のリラックス時の標準値に適合しているか、心拍数・脈拍は安静時のそれか、姿勢を良くしようと変に力んで筋肉がこわばっている箇所はないか、顎の力は抜けているか、置き時計は正しい時刻を指し、かつ正しい面を向いているか、本を持つ手のバランスは偏りなく、右で持ち過ぎたら左へ、左で握りすぎたと思ったら右へ適宜持ち替えているか、デスク照明のLEDの寿命は弱光量を選んだ場合…と気になること、注意することがありすぎて、まったく本が頭に入ってこない。座ると立つのは神経である。

 

 

2. 寝そべる

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古代ローマの貴族は、寝ながらご馳走を食べ(当時の高級食は何だろう、タロ芋の煮っころがしだろうか)、オウムの羽をのどに突っ込んで、それ専用の部屋(vomit(=吐く)orium…世界史で習ったはずの部屋は実在しない。都市伝説である)で胃を空にしてから、また宴会に戻る贅沢をした。寝転がって塩まみれのポテチのくずを流し込むのは、どんな金満の結婚式で出される、ガラス細工みたいな帆立貝のポワレより、美味で、美観で、美少年である。本も同じだ。完全に横になると眠ってしまうし、椅子に座り続けるのは辛いし、脚を伸ばしてもたれるくらいが、ちょうどいい。アリストテレスが教えた中庸の徳とは、彼女の母親のニッセン・アカウントで頼んだカーペットと、ニトリのクッション、蛍池駅のママフルで4ピース580円で買った防音マットで構成された読書環境のことを言うのである。いかにくつろげるか、いかにダラダラできるかを求めて造ったスペースが、同時に安価も追求したために、マットが薄くて床の硬さがもろに尻に反射したり、クッションの高さと長さが寸足らずで、居付けば居付くだけ、痒いところに手が届かない微妙なチグハグ感にイライラしてくる。毎日使うもの、日々肌身に触れるもの(衣服、コーヒー、筆記具、タオル…)は、奮発してでもいいものを使ったほうがいい、という当たり前を痛感する。1日15分といないのに、彼女から定位置とバカにされる。僕が寝そべるのは、彼女が飯を作るとき、ドライヤーで髪を乾かすとき(女とドライヤー。男にとってこれ以上不毛な組み合わせはない。女の髪が乾くあいだに、僕はもう一度風呂に入って、尻の間を大理石の床より綺麗にできる)だけなのに、怠けものが汚水のように溜まるスポットとして、立って腕組みする彼女から汚物を見る目で見下される。死んだおじいが、いつも家の同じ座席の、同じ座布団のうえに居座っていた。妻から、娘たちから、色が抜け、アスベストのかたまりみたいになった灰色の座布団を笑いものにされ、菌の温床のように扱われ、定位置だ定位置だ、いつも同じ場所で日本酒の猪口を上下するだけの人形になり果てた、と嘲笑されていたことを思い出す。おじいの座布団は、僕の背もたれクッションだ。定位置で本を左右にするだけの機械なのだ。

 

 

3. 寝る

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読書にこれ以上最悪な体勢はない。ここまでくると、寝るために本を開くみたいなものである。夢への階段を、なだらかなスロープに改造するために古今東西あらゆる文筆家の労作がこねくり回される。家人と寝室を同じくする人なら解るだろうが、相手がこれから寝ようというときに電気を点けて本を読むのは気が引ける。まして僕のような無職で家に置いてもらっている立場では、これから数時間後にまた8時発の電車に乗って大阪駅まで勤めに出るご主人さまのご休憩を、僕のひまつぶしの享楽で、邪魔するわけにはいかない。卓上型の電灯ではなく、小型のLEDライトを買って、まるで明治時代の苦学生がろうそくを頼りに書物をめくったように、暗闇にわずかの光を頼って読み進めるのだが(本は高尚な学問の古典ではなく、低俗な語りおろしのサブカル本)、それでも横でずびずび寝る彼女から「ま、まぶしい」の寝言を引き出すことがある。翌朝、きのうは起こしちゃったかな、と謝ると、何のことか覚えていない。好都合だが、人の無意識中にも自分が迷惑をかけていると思うと、昏睡強盗をはたらくみたいで、本が読めなくなる。闇はセックスの友だが、本の敵である。僕はセックスするくらいなら、セックスの本を読んでいたいタイプだ。最近『いろの辞典』(文芸社)を買った。これは東京の元中学教師の男が、20年かけて作ったエロ用語の辞典である。これを聞いた彼女は「キモチワル」と一蹴したが、バカ、この大仕事こそ男のロマンである、男は誰しも1冊の辞書を編むために生きるのだ、と大言したかったが、ここは家中の安全を守るために「うん、相当おかしな人だね」の阿諛迎合に徹するのが、僕の辞書のあの段である。紹介のために項目を並べてもいいのだが、陰茎やらクンニリングスやら、語義があまりに直截に過ぎる(チンピク=①女性に性的魅力があること。②性的に興奮する、昂ぶる。ともに現代隠語。チンチンがピクんとする意味か?)ので、付録の替え歌から、

◎ヨサホイ節(大正13年

ひとり娘とやる時は 親の承諾得にゃならぬ
ふたり娘とやる時は 姉の方からせにゃならぬ
醜い娘とやる時は 顔にハンケチせにゃならぬ
よその二階でやる時は 音のせぬよにせにゃならぬ…

 

頭文字がひと、ふた、み、よ…と数え歌になっている。芸と人情が合わさった、下世話ながら秀逸なネタだと思うが、R-1優勝できるだろうか。立川談志が噺の枕で歌うのを聴いて、よくこんなこと思いつくな、と感心したのが、じつは昔の庶民のあそび歌の引用だったと知る。彼女が寝たあと、ひとり寝ながらの読書で、男女の寝るに関しての事柄を読む。実際より仮象を重んじる。シリコン形成の乳房のように、実物より、実物を再現した模倣物のほうに魅力を感じる。大声では言えないが、彼女の開脚を目にするより、いろの辞典を開くほうが、深く興奮する。ポテンツ(=Potenz(独語)、男性の性的能力。勃起力)が肉体より精神を条件とする意味が親身に感じられる。何を言ってるんだ、俺は。