おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

ニート2ヶ月目の感想になります

 

いい言葉をメモしよう。

完全に身を任せられることこそ、完全な主体性の確立なのである。これは真の自立が、じつは依存できることだという意識にも似通っている。
玄侑宗久荘子と遊ぶ』

前後の文脈をすっ飛ばして、これだけ読んでも、効き目がある。いい言葉が誰にとっていいのかというと、親や女に依存している、ひも、すねかじり、ごくつぶし、そのほか社会の無用者に贈られるすべての蔑称で呼ばれる人びとにとって、不働の悲しみを負い、稼働の苦しみを人に負わせた罪人にとって、イエス磔刑となる意味においてである。

前後の文脈を詳しくすれば、荘子の景(かげ)と罔両(もうりょう)の話による。景は物のかげ、罔両はかげのまわりにモヤモヤうつろう、うすかげのこと。罔両は景を責める。動いたり止まったり、まるで落ち着きがないじゃないか。景は、私だって本体の動きに従っているだけだ、とやり返す。

罔両が景に従い、景が本体に従うのは当然のことだが、景の発言によれば、本体だってべつに自分の意志で動いているわけじゃなく、状況の変化に従って身を任せているだけだという。

どこまで動因を遡求しても、原因はまた別の原因によって動かされている。立派にみえる社会人も、企業に依存し、株主に依存し、株主のおかんに依存している。その構図は、僕がパパとママに依存する構図と、面積や辺の数を違えても、同じである。病むことなかれ。自立とは、依存すること。供給のシステムを盲目的に信仰して、自身の活動に専念すること。僕らは生来、自立者であった。

 

無職が許される期限は、確実に迫っている。満タンのケチャップボトルにも、ひくひくと空気を出すしかない回が訪れる。ただしマツキヨのデンタルフロスだけは、2年使ってもまだ出続ける。

  • 職なし
  • 収入なし
  • 職歴なし
  • 虫歯あり

こんなスペックの人間は日本にいくらでもいるが、それが自分であることが問題だ。人材サービス業に就く彼女は「30歳の職歴なしの男が就職できた。32歳のバンドマンが正社員になった」だからお前も諦めるな、と遠回しに就業意欲を掻きたてる。そうだな、そりゃすごい、とはぐらかしつつ今日に至る。実家に帰れば、「あんたまだ仕事みつかってへんのか?」と、娘の嫁ぎ先に悩む母のように、無職息子がいつまでも片づかないのを気にして、僕の学習机へ、新聞折込の求人広告を、ピザーラのチラシみたいに重ねて殿堂を組み、勤め口の降臨を待っている。親心を無視して、彼女のサポートを無下にして、かたくなに無職(働かずして食う。乞食と王は、折れば重なる紙上の2点)を辞さないわけではない。「今日は何してたの」と尋問を重ねる彼女に報いるため、しぶしぶ求人サイトを繰ったり、1日10分のPC作業で経済的自由を手に入れたらしい、受講生から評判の集客セミナーを主宰する人のブログを読んだりして、求職のアリバイづくりに奔走している(一体この手の集客とは何の商売のどんな客だ。集客セミナーへの集客セミナーか。空と海のイメージ画がいかにも安直だ。年2回の海外旅行が自由なら、添乗員にでもなればよかったんだ)。

周囲が気を揉むくらい、のほほんとしている。あせりがないことに、他人があわてるほど、マイペースでいる。まあどうにかなる、と歌うハワイアンソングが意識の底に流れている。どうにもならない現状にそっぽを向くウクレレの弦が響いている。楽天家といえば聞こえはいいが、不真面目なのだ。何をやっても人ごとみたいだ。現実感の乏しさは、ゲームのやり過ぎでも小説の読み過ぎでもなく、真剣さを欠く証拠である。生きるのに真剣である必要はない。

カリフォルニアの刑務所に、251年の懲役と11回の終身刑で服役する強盗犯がいる。金のありかを聞き出そうと、老夫婦を水責めの拷問にかけた凶行を一切省みることなく、ブラックレターの書体で刻んだ呪詛のタトゥーを首に巻きつけて、顎をあげた雄の態度で、ドキュメントのカメラに向かう。きみは一生刑務所を出られない、どう思う、と問われて、

「快適だ。ここは外のどこより安全だし、屋根つきの個室でベッドに寝られる。飯もある。女は手に入らないが、自分でどうにかなる。得られないものを求めるから苦しいんだ。はじめから望まなければ、平穏がある。欲を捨てて、現状の良いところに目を向けるんだ」

人から悪魔のように財産を奪っておいて聖者のようなセリフを吐く。人死ににかこつけて高額な布施をとりながら、煩悩を滅却すれば悟りが開かれると説く現金な僧のようである。僕が恐怖したのは、刑務所を自宅に置き換えると、そのまま僕の意見になることだ。狭い家でじっとしていれば、ささやかなおまんまにありつける。2ドアクーペ、電動自転車、オフロードバイクPS4、Nintendo Swich、iPhone11、ドラム式洗濯機、食洗機、ホームベーカリー、カヴェコ・パーカー・ウォーターマンのボールペン…ほしいものは次から次へと出てくるが、金銭的に持てないことを、思想的に持たないことにすり替えて、不満に折り合いをつけることが、この鉄柵なきあおぞら刑務所の養生訓である。凶悪犯と僕の差は、柵の内外どちらに足を置くかという幾何学の問題でしかない。終身刑は11回も1回も、そして0回も、罰の中身に変わりはない。

 

今ここを生きる、マインドフルネスがビジネス界でもてはやされた。僕は金融、IT、コンサル、広告、華々しい業界に身を置くどころか、営利団体の末端構成員として、パート・アルバイト市場にもポジションを持たない部外者であるにかかわらず、新造の業界用語と聞けば、PDCAサイクル、3C分析、ランチェスター戦略、アンゾフの事業拡大マトリクスを生活にとり入れて、じぶん株式会社のCEOとして自社の改革に忙しくしている。が、マインドフルネスだけは飲み込めない。僕の意識はつねに今にある。今ここを生きるしかない。彼女が消灯後の天井へ「今頑張ってとりあえず10年後には…」「貯蓄しないと20年先の…」と将来の展望を投影するとき、その射程があまりに長いために、夢のたわ言に聞こえる。そうだそうだと、適当に相槌を打ちながら、アイスが食べたいなあ、何アイスにしようかなあ、と甘い空想を味わっている。人間の知覚は、直近2~3秒に限定される、感覚の連続に自我の持続を錯覚するに過ぎない、と本で読んだ。毎3秒が気持ちよければ、終生快適でいられる、という刹那主義に僕は強く賛同する。百ヶ月の事業計画と万人の労働設計、億円の金融取引の結晶である高層ビルを前にすると、一個人として、その物理的な高度より、思考的なスケールに打ちのめされる。僕の時計は秒針が3目盛りを行って戻るだけの薄型1針だ。1日でどうにかなる課題にしか取り組めない。1日でどうにかなる宿題、レポート、短期バイト、1日でどうにかなる筋トレ、節制、人づきあい。ブログだけは数日にわけて書くが、これだってその場の思いつき、口からでまかせ。一行の構成が、ひと単語の選択が快であればそれでよく、自己矛盾、自家撞着、言い換え、言い直し、言い淀みのうちに短期思考の疵が見え隠れする。僕は投資家よりは投機家、いや浪費家に向いている。この性向は憂いでない。『君たちに武器を配りたい』の瀧本哲史によれば、「資本主義社会では、究極的にはすべての人間は、投資家になるか、投資家に雇われるか、どちらかの道を選ばざるを得ない」。24時間の計画表しか持たない僕は、間違いなく被使用者の器だが、10年単位の視野で利益を見込む投資家だって、僕らみたいな人間が大量にいなければ事業が立ちゆかないので、収入に多寡はあっても位に上下はない。自分では認めたくないが、僕は単純労働に適している。闘争の相手は、投資家ではなく、機械だ。AIが代わる仕事に、製造・組立の工員、一般事務員、タクシー・バスの運転手がある。僕がやりたい、もしくはやっていた仕事、たとえばスーパーの店員、倉庫内作業員、警備員、レンタカー営業所員、ビルの清掃管理人、新聞配達員、データ入力係は、すべて絶滅危惧種に指定されている。AIが嫌う仕事は、ディレクター、デザイナー、コンサルタント、インストラクター、セラピスト、スタイリスト、作詞・作曲・演出・評論家…それだけでは業務が把握しづらい、なにをやるか解らない、ゆえに高尚な職業がランクインしている。フリーライターはこっちの組で、僕らブロガーも安心して更新を続けられそうだが、質の悪い記事を作ると、機械と区別がつかなくなる、いや、文章のまずさで製作者が人間だと判る時代が来るかもしれない。どの本を開いても読者がそこに読むのは自分である、という名言通り、僕を学習し、僕を分析した装置が、僕の書きそうなことを書いてくれたら、これを読むことほど楽しいことはない。自分そっくりのアバターが外界で活躍し、持ち帰った経験値を、僕が脳に蓄えて、お互いにアップデートしていけたら、家にいて働かずに済むのに、と寝る前のうろんな頭で想像するのは僕だけじゃないはずだ。現状望めるデバイスの最高形態が、生身の自分である、という再帰代名詞の働きは捨て置いて。これこそおっつかっつの罔両と影、いや影と本体の関係だろうか。

 

哲学者バートランド・ラッセルのエッセイ集、その名も『怠惰への讃歌』にこんな一文がある。

仕事そのものは立派なものだという信念が、多くの害悪をこの世にもたらしている

日に8時間はたらく労働者の裏に失業者がいるなら、2人で4時間の仕事をしたほうが健全だ、と主張する。現代社会は(これが書かれたのは1932年だ)、労働と余暇が公正に分配されず、働きすぎの人と、働かなさすぎの人に分かれている。1日4時間の賃金労働を日用物資に換えて、あとは好き勝手に過ごすのが文化的でよい、と説く。現代のスローライフ提唱者が好んで口にする理想である。『プリンキピア・マテマティカ』で世界に名を轟かす学者なら、抽象空間に概念の遊具を持ち込んで、お母さんが呼びに来るまで遊んでいれば、大学からしかるべき俸給が支払われるだろうが、数理論理学の定理をたらこチーズパンに換えられない大多数の人間は、4時間労働じゃ食えない。AIの発達と仕事の減少、そんな時代の幸福論は、僕の3秒の視野では見通せないが、お金持ちでなくとも、お暇持ちの僕に言わせると、資産家が剰余金を慈善団体に回すように、余った時間を無駄なものごとに費やして笑われるプロレタリア・オブリージュを果たす責任はある。ただ皮肉なことに、忙しい人ほど遊び方を知っている(仲間を集めてのBBQや野球観戦、ゴルフ、バカンス、ショッピングを遊びと言うならだ。そんなものは僕からすれば仕事である)。

 

仕事。ラッセルの仕事の定義はおかしい。

地球の表面上、またはその近くにある物体の他のかような物体に対する位置を相対的に変えること

これより一般的な把握があるだろうか。材木を切り倒して、築城のために運び出す。地表のA地点にいる牛が、ダイニングテーブルのB地点へと運ばれる間に、いったいどれだけの仕事が介入し、どれだけの人員が関与するか。翌朝トイレの排水管を出発した肉の残骸は、見果てぬC地点へD地点へと旅を続ける。地球を構成する分子の移動に、僕らの情熱は費やされる。

ラッセルに言わせれば、僕も立派な仕事人だ。その仕事が職業として構成されているかどうかは、時代の条件による。「ファミコンばっかりして、プロになるんか」とあきれるお母さんの小言はもはや冗談にならない。機械が蜂起すれば、無職は人間最後の職業として、怠惰の竹やりをもって戦う。やるから、あと3秒だけ寝させてくれ。