おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

文学に向かない人

 

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ハーンは、文学を志す青年、明治期に東京帝国大学の文学部に通った学生に問いかけた。「文学のいずれかの分野で作品を物しようと望む者がいるなら、いくつかの質問を正直に自問自答してみるがよかろう。もし肯定的に答えられなければ、少なくとも一時期、文学を捨てたほうがよいだろう」。少なくとも一時期、というのは優しさで、本当はきっぱり諦めろ、と言いたいのかもしれない。

 

次の問いである。

Q1 自分には創作力があるだろうか?

Q2 自分は生涯のすべてを、また少なくとも余暇の大部分を、文学の仕事に専念できるだろうか?

Q3 自分は世間と交わって、日常生活に関わりを持つべきであろうか。もしくは静寂と孤独を求めるべきだろうか?

 


 

Q1 自分には創作力があるだろうか?

かぶりを振るなら、模倣者になるだけだと先生おっしゃる。1問目で1番の難問だ。まず創作力とは何なのか。意味を考えねば、答えようがない。自分に文才があると信じたい。文学のかほり、文庫のほこり、文芸のセンス、文体のダンス、文豪のテンス、分娩のメンス、文士の一分、文鳥の一羽、文鎮一本、文事一芸があると信じるがために、イエスと答える。

文学は作品ではなく生き方である。並みいる文学作品と無縁に、凡作傑作と無交渉に、そもそも活字文化と無関係に、目の前に出来する生活問題に汲々とし、頭を抱え、涙をこらえ、唇を噛み、腕を回し、血をにじませ、運命を全身で受け止める、すべての非文学的生活者のほうが、どの作中人物よりも文学的である。僕は自活できない破綻者だから、自立者を英雄視する。自信ありげに生きる人(本人にそのつもりがなくても傍目にはそう見える。僕だって確信に満ち溢れたように映るかもしれないが、毎秒イモムシを踏まないかビクビクしている)、有限と不確実の世界で、自分の居所を見定め、いやそんな腰抜けの鳥瞰、人工衛星の臆病な視点から座標を確認しもせず、非分析的に、非相対的に、強く歩む人には、主人公の魅力がある。実はこれが屈折したところで、学生を延長し再延長し、労働の義務、生活の事務を免れた安逸の暮らしで、人生の問題と格闘せずに寝転がって本を読んできた、小説ここに世間の真理あり、現実から析出した真実ありと、虚構の論理でもって現実を再構成する、作中人物の挙動をもって人間の行動を読むという逆流が起きている。サッカーボールで、空気入れに空気を入れる。文学をやるなら文学に入りすぎるな、という文学者の忠告はもっともで、文学の現実視、現実の文学視、現実とは文学的に表現されねばならぬものとして、文学とは現実的に表現されるものとしてみる鏡面世界の住人は、弱い表現者になる。湯切りしないカップ焼きそばは、ラーメンにも焼きそばにもなれない。

珍回答を狙うつもりはなく、真面目である。今まで出会った秀逸な答案は、理科の地層で、ボーリング調査で地面を掘ると、土が層を成し、それぞれ色や構成が異なるが、これはなぜか。しま模様の簡略図を載せた問いへ、「しまうまがいるから」と答えた西森くんである。年代によって堆積物が違うから、という科学上の理屈が正しいが、しましまだ、身近なものでしまのやつはいるか、しまうまだ、とこれ以上ない単純な発想、直観的に誰もが納得する答えを出した。オッカムの剃刀「ある現象を説明する理論が複数あるとき、多くの場合、より単純な方が正しい」とする見方が科学にある。全国全土の地層にしまうまが縦に埋まっていると考えるほうがより端的で、より詩的で、より美的である。これが創作力だ。僕はしまうまを提示する。

そもそもの疑問は、YES/NO式のチャートで人を測る方法の信頼性にある。性格診断で、自分のタイプが希少であるほど、有能であるほど、結果を周知したくなる人は希少でも何でもなく大量にいて、それを見るたび、ああそうとも君は有能だろうさ、と皮肉ってしまう僕は「非実用的な理想主義者」(当たってやがる)として、理想的な人間の在り方から、この手の俗物の気に入らないところを減点方式で評価してしまうが、問題はこの診断が性格から仕事に及んだときだ。僕は学生時代から、就職ガイダンスの(そんなものに行くわけないが)、適職診断が嫌いだった。あなたには無職が向いています、と言われない結果の不首尾もさることながら(たいていはルールを重んじる法務部か、困っている人をほっておけない君は、人助けの仕事、福祉・介護職が向いていると言われたものだ)、この手の適職診断が当てにならないのは、診断の製作者がかつて適職診断で「あなたは将来、人の天職を占う適職診断をやるのがよい」と言われたから、適職診断を作るようになったのか、という話だ。この問いに、肯定的に答えられなければ、少なくとも一時期、適職診断を捨てたほうがよいだろう。

 

 

 

Q2 自分は生涯のすべてを、また少なくとも余暇の大部分を、文学の仕事に専念できるだろうか?

主婦が作家として成功するのは、暇だからだ。夫の留守宅、午前中にあらかた必要な家事を終わらせた未希子は、ひとり中庭に面した通路の一角――ここに彼女は天然木の小机を置いて、ガラス玉に入れたイオナンタを飾っている。未希子は疲れると、植物を眺め、ああ小さい頃に遊んだビー玉に、色とりどりのオーロラを閉じ込めたものがあったな、と幼い美学を復習したり、遠大な宇宙は手のひらの爆発から始まったのかもしれないわ、と緑にけぶる氷に、起源の深遠を覗いて、思考を休めた。クロモジのハーブティーノリタケティーセットに淹れて、森を浴びながら、中途の原稿を読む。原稿といっても、一昨年の誕生日に、夫に買ってもらったローズゴールドのMacBookなのだけれど。出先でも執筆するから、持ち歩いてハードに使ったせいで、表面、四隅にキズへこみが目立つようになってきたけど、肌と一緒で、年齢を重ねること、時の経過を刻むことは、素敵だと思えるようになった。小娘みたいに、若さが何か分からない年代はとっくに過ぎて、分かった頃にはもう失われつつある命の張りに執着したこともあるけど、今はもう小池の叔母さまみたいに、丁寧に経験を積んでいく老いかたを、恰好いいと思えるようになってきたの。もの言わぬ旧友MacBookと、これからも執筆の険しい旅に挑んでいくんだわ。未希子は唇を一文字に結び直して、書きかけの長編『猫とライムとみかんと柿の木』に沈潜していった…みたいなことなんだろう?

僕は無職で、住所不定が揃えば、報道カメラ前にふてくされた、スウェットのヒゲ面で登場できる。短期バイトで小銭を拾いつつ、実家で優雅な無銭寝食のニート生活をしてきた。時間は人の3倍も4倍もあったのに、なにひとつ有益な仕事を成し遂げられていない。人を試したかったら、お金より時間を与えることだ。宝くじ当選者のあわれな末路を取材するテレビがあり、面白がって見るが、ありたけの時間を与えられた人間は、起業家、弁護士、芸術家になるより、転がり込んだ賞金と同じように、時間の浪費家となって、青年から壮年期を実家6畳間の自室PC前に潰えることになる。仕事は忙しい奴に頼め、というビジネスの掟がある。行き来の通勤列車を執筆に充て、1年かけて小説を書き上げてデビューしたり、入浴のわずかな時間に防水ケース入りのスマホで、のちに文学賞を受ける作品を打ち込んだり、そんな華々しい例でなくとも、家人が起きだす前に、あるいは寝た後の静けさを燃やして、記事を作る人気ブロガーもたくさんいる。僕はいま大阪池田のアパートに彼女と2人暮らし、その身分は主夫に近く、彼女が仕事に出たあとは洗濯機を回し、食器を流し、掃除機をかけ、米を洗い、残った時間を、テレビ前のラグに身を横たえて消すか、寝室の布団で食いつぶす。YouTubeに疲れてたまの読書、話し相手がいない寂しさをブログの下書き帳にまぎわらす。あとは0.1のドット以下に毎日0を書き足していくような無限小の暮らしである。余暇の大部分、というより、生活の大部分を占める余暇を、文学に専念できる環境にあるにもかかわらず、憧れの文章の仕事をしないのは、文学が何か知らないし、憧れといっても文学の芸術的価値や、人文に参入する栄誉を欲するのでなく、タレント化した作家の人気と印税に憧れるだけだからである。テレビ、ネットに顔と名前が載って、収入があるなら、作品なんか書かなくてもいい。紙幣の刷れない創造力は、素朴であっても崇高ではない。

祖父は88歳、大腸ガンで逝く。夜中の催しは2階から1階奥のトイレに行くのが面倒で、ビニール袋でその用を足していた、貿易会社を定年退職後、趣味の詩作に没頭、自作の詩集を何十冊も抱えて、近所の大学事務室へ押しかけ「貴重な作品だから保管しろ」「図書館に収蔵しておけ」と迫る名物老人になっていた。僕もくだらない記事をアップして、人に読めと言うのだから、血は争えない。おじいの事務室が、僕のネットだ。自称詩人の遺品整理で、「私の戦争記」と題した、小児用の学習帳を得た。希少な戦争体験者の記録だから読むべしとママは勧めたが、僕は別角度から中身を楽しみにした。詩を収めろと凄むほど才能に自信のあった人が、――ハーンも言うのは、そう、この記事はハーンの『講義録』をもとにしていた、「根本的な真理は、詩人は詩人として生まれなければならないということである…いかに教育をつんだとしても、それで詩人になれる道理はない」、なるほど詩人は胎盤の資格なのだ。谷川俊太郎が10代から書き始めた『二十億光年の孤独』を読めば、詩が天才に許された仕事だという実感は得られる。その点、「ごくまれに、偉大な才能が中年になってようやく現れることもあるが、これは主に散文作家の場合に起こる」ので、僕ら雑記ブロガーは埋蔵金を期待して、水を掘るむなしい掘削を続けられる。おじいの回想録は、新生の意味と語句を満載した傑作に違いない。希望を奪い去る飢渇、肉親・親友の死、問われる生の意味、争いの意味、自己の意味。極まる人間心理を、浮き立つ人間存在を、詩人の感性で捕捉、表現した、これぞ文学と言える作品、そう、作品を期待したのだが、○月○日にB29の爆撃があった。撃たれそうになって、死体を跳び越えて走った。みたいな事実の羅列、これだって僕が用語を整えた、本当はもっと読みにくい、陳腐で、いかにも素人くさい昔日の記録だった。生々しい原体験の湿気が、記述によって深化、増幅、再現されず、逆に言葉の粗目によって損なわれている。おじいの戦争より、テレビドラマのちゃちな戦時のほうがリアルだ。文学とか創作は、徹頭徹尾技術に支えられたものなのだ。伝記はおもしろくとも、自伝がつまらないのは、重厚奇怪な運命を歩んでも、語り口が下手では伝わらず、反対に一般人のモデルとしてふさわしい出生、教育、進学、就職コースを進んだ波乱なき一般的人生も、プロが演出すれば、『住友電装百年史』の激動とスケールを超える劇になる。人から見た人は、いつだって作品である。おじいの作文は、孫がひいき目に見ても駄目だが、おじいの人は傑作だった。この物語の美しい欠点は、決して続編が出ないことにある。

 

Q3 自分は世間と交わって、日常生活に関わりを持つべきであろうか。もしくは静寂と孤独を求めるべきだろうか?

先生によると、詩人には絶対の孤独が必要である。その心は、詩作が「時間と思考と寡黙な作業と、あたうかぎりの誠実さ」を要求するからだ。社交の拒絶度によって、詩人の成否が決まるとさえ言う。たしかに、毎夜クラブに通い、ラインの未読数を人脈の残高として誇るような、アイコスとレッドブルとたまの大麻で出来たパリピに、文化系ピを驚かせる詩は書けそうもない。彼らにとっては、肩に入れたLOVEのタトゥーが詩なのである。真正面から家族愛――親、子、恋人、そして親友を含めたFamへの愛情を、昔は悪かったけど今ようやっと尊さに気付いたんだ風の遅すぎる居直りから、およそレトリックとは無縁の口語体で、ツレに話すように歌いあげた歌詞は、それを等身大と感じる層にウケて、タオルが回る。ルールが俺たちを縛ることはできねえと悪ぶっている連中が、もっとも古典的な、中国儒教由来の忠や孝の概念を知らずのうちに賞揚し、旧道徳の保守に務めている状況にだけは、皮肉な詩が効いている。

クリエイターは内外のどちらを指向すべきか。先生は「その人の性格次第」と答える。「もしみなさんが、孤独の中で最もよく仕事ができると思ったなら、立派な作品を生むのに邪魔となる社交をみずから断つことが、自分自身と文学に対する責務」であると、当たり前のことを言う。僕が聞きたかったのは、創作のために友達と絶交しよう、社会と隔絶しよう。孤立が、見えない傑作の一行目だ。そんな言葉だ。

『今ひきこもりの君へおくる 踏み出す勇気』、これは吉濱ツトムの作、発達障害を自覚する元ひきこもりで、生きづらさを抱える人のカウンセラーである。僕は久しぶりに家から出て、というのは毎日仕事から帰る彼女を駅まで迎えにいく献身的な妻の役目があるからで、それ以外の用で外出することはめったにない、駅の書店で手にとり、これを買いに来る時点でひきこもりじゃないだろうと、下衆なつっこみを入れて笑ったところで、本文、ひきこもりといっても部屋に閉じこもりっぱなしの人はまれで、散歩したりコンビニに行ったり、ふつうに外出する人がほとんどですと、まさに自分のライフスタイルを言い当てられた、一歩外へ出たからにはひきこもりじゃないだろうという自己診断の誤りが指摘された。相談はこたえるものばかりだ。有名大学を出、大手企業に就職したが、体を壊して退職後20年、一流企業のホワイトカラー復帰を夢見ながら、何もせず、老親の世話になり、有名大卒のプライドからか、自分が正しいと思い上がり、人のアドバイスを聞き入れず、ただ年齢を重ねるだけの中年息子をどうにかしてほしい。幼少より音楽一家の期待の星として育てられ、コンクール入賞経験もあるピアニストの男性は、音大に進み、全国の強豪相手とのポジション争いに敗れ、大学を中退、過去の栄光にすがりつきながら、今も音楽の道を諦めきれない。挫折のトラウマから、ささいな物音にも過剰反応し、虫のいどころが悪いとすぐに家族に当たり散らし、家具をひっくり返す。元OLのA子さんは空気の読めないところがあって…と読むほどに心苦しい実例が延々と続く。彼らは潤沢な資金と時間と孤独があって、どうして詩人になれないのだろうか。ブロガーにも無職、ひきこもりを自称する人はたくさんいるが、どうして彼らの言葉は響かないのだろうか。僕はここにこそ社交の不足が影を落としていると思う。言葉の強度は、文章の圧力は、人との交わり――ああ僕が一番嫌いな言葉だ、ゴキブリ、排水口のぬめり、人との交わり!――が与える。自伝の弱さはこれだ。他人の目が持てない、立体世界の平面視に弱点がある。ひとつ目の動物は生き残れない。カレイだって片面に目を2つ用意した。ひきこもりたくなる挫折に失敗。誰もが大なり小なり抱える思い出のコゲつきは、実に素晴らしいものである。

「われわれは誰でも、完璧な幸福を期待することはできない。みなさんがいかに健康で、頑強で、幸運であろうとも、一人ひとり実に多くの苦難に耐えねばならないはずである。そうした苦難を活用できないものかどうか、みなさんがみずからに問いかけてみるのは、意味のあることである。なぜなら苦難は、これを活用する術を知っている人にとっては、この上なく価値があるからである。…かつて苦しみを知らぬ人によって傑作が書かれたためしはなく、これからも決して書かれることはないだろう。…自分の悲しみについて大いに考え、それはこの世の苦海に落ちたわずか一滴の水滴にすぎぬと思いなし、勇気を振るってその悲しみを反芻し、それを美しい没我的な形成で表現しようと考えるべきである」

そう、絞りきったと思ったあとの、座ってじゅわる小水一滴。ひやりとしみる尿もれがアラサー男の苦海にそそぐ悲しみの一滴である。