おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

無職の全思考

 

無職だ。プロフィールは、まだ輝ける日のフリーターを残すが、それは変更の面倒と、まだ格好がつくと考えた末の経歴詐称、人間性の詐称である。訳あってバイトなんだろう、夢あってのフリーターだろうと思わせれば、前向きに開けた人間に映る。本当は、やる気がない、働く気がない、とにかく楽な仕事、楽な現場、楽な作業を探し回った、いやもともと働く気のないやつがどうして自分の勤め先、余命いくばくもないと悟った老人がなぜ自分のメモリアルパークを必死に、そう必死の局面で探すだろうか。だれも自身の墓穴からは目を逸らすものである。先月までやったスーパーのバイトだって、たまたま買い物したときに、午前5時-9時の人の少ない時間帯に、店で売るような手頃な品物、軽くて小さくて扱いやすい食品を出し入れする作業で、時給1000円が出れば、しめたものだと思って応募したのだ。求人サイトで探したわけでも、雑誌をかき集めて見比べたわけでもなく、天からの、店長からの授かりもののように啓示された、掲示された「いっしょに働きませんか」の常套句を、これ運命なり、前世からの宿命なり、と観念して受けとめたのだ。僕の人生を貫く態度は、受け身のひとことに尽きる。

なにひとつ自分で決定した重大事項がない。高校選びも進路も、大卒後の就職先だって、ママが新聞の求人広告を切り取ったものを、手渡しにするんじゃあまりに働けというメッセージが直接伝わり過ぎるというので、僕が部屋を空けた隙に、机上へ切り絵細工の発表会のように並べてあるのを、帰って鑑賞して決めたのである。それは公的機関の堅実な仕事、まるで業務におけるつまらなさと雇用の安全がトレードオフの関係にあることを教える代表的な事務仕事で、いかにも保守的な主婦、財布を盗まれまいと小脇に抱え、とるにたらぬ小銭をきつく抱きしめて商店街をウロチョロするケチくさい、いや賢明な家内経済の取締役が、息子にあてがいたがる就職口である。その息子に試験を突破する頭があればいいが、大好きなママに手をつながれて面接会場まで来た僕は、こんなところで働く気はない、言われたから仕方なく来たんだという嫌気満々、予防注射にきた5歳児のふてぶてしさ、最後は黄色い舌でベーをして会場を出たのだった。決断を避け、状況の責任を逃れようとする人間に、雨の上の暗雲のようにつきまとうのが、この反抗的な従順、やれと言われた仕事しかできないくせに、与えられた課題にはしぶしぶの不満顔、意志に反して義務を果たす、大人なら誰もが胸にしまう社会人のハンケチを、不名誉の証としてひらひら見せびらかす。所ジョージが雑誌『世田谷ベース』か『Daytona』で、所で僕は小学校の文集で好きな芸能人に所ジョージを挙げた、ジョージは外国人の名だが日本でも譲治がいると知って悔しかった、その所ジョージの本名は知らないが、成功の秘訣をこんな風に喋った。
「そこらへんのバイト君でもさあ、俺はこんなところにおさまる器じゃない、俺の居場所はここじゃないって顔で働いてる奴いんじゃん? ああいう奴を見ると、こいつはダメだなって思うよね。お前こそ何者にもなれないよって。たとえばそこに偉い人が来て「君いいね、うちで働かない?」とはならないじゃん。与えられた仕事を、気持ちよくこなしてさ、たとえバイトでもそこで一番を目指すくらいじゃないと、チャンスは巡ってこないと思うよ。このおもちゃの銃いいだろ? ほんと俺ってスゴいよね。よく思いつくよねこんなの。世界まる見え、この後すぐ」
こんな田舎のスーパーで終わる人間じゃない。日々そう思って高野豆腐を並べたが、高野豆腐に終わる人間だったのだ。でも反省はしない。たしかに従業員は、自身の場違いを暗に訴える陰険な者と、少なくとも表面的には、人格の円満を伝える笑みをひっさげた、生気溌溂たる者に分かれた。で、僕が好きなのは、やっぱり前者である。店の備品をたまに持ち出している、商品にまで手をつけそうになる衝動を必死に抑えている、が、たまに欲望に負けてガメてしまう、こんなところで働かされているんだからたまの盗み食いは許されて当然だ、でも悪いことをしたと思う、バレやしないか冷や冷やする、といった内面の葛藤が見るからに伝わる、うつむきがちで、目も合わさず、人を避けて足早にロッカールームに出入りし、ぶつぶつ文句を噛み潰している青年、中年のほうが、不気味ではあるが、願望と実態の不一致に感情の摩擦をきたす様子が見てとれて、そこに人間味と可愛げと、仲間を拒絶する態度そのものに同胞の連帯を感じる。合わない目線のやりとりに、お前もこっち側の人間だな、と通じあう暗号の符丁がある。

それにたいして、明るいバイトはどうだ。僕はそもそも明るいやつが嫌いなんだ。たしかに付き合うなら、表裏のない、一面的な奴が楽でいい。彼らは世間を斜め切りし、自分を時代の被害者に見立て、ぶつくさ体制に文句を言ったり、しくしく運命を呪ったりしない。たまに相手に同調して真剣な顔をするが、それはポーズであって、彼自身の内面の切迫感から生まれた本物の反応ではない。彼の精神平面上、いや平面というと二値で位置を定義する次元をいうのだから、ことはもっと単純に、よさげかダメっぽいか、という一変数のみが彼のメンタルを左右するという意味でまさに精神直線上というのがふさわしい、その高みを持たない浅薄さ、無深度が気に入らない。ある種の刺激には無感覚でいられる鈍感。粗い目をした水切りザル。

孤独な掃除夫がいた。カートの口に業務用ゴミ袋を引っかけて、周囲にスプレー、ぞうきん、ヘラ、クリーナーを戦隊ものの車のように装備した荷台車を押し押し、店内をくまなく、死角という死角を消して歩くように進む掃除夫。そういえばハムの陳列台とパン売り場のワゴンを、陸上競技パイロンに見立てて、同じコースをぐるぐる周回する名物おじいさんがいた。炎天下、外は危険だと思って屋内を散歩コースに選んだのは賢明だが、毎朝店へ歩いてくるなら、それで歩数は足るように思う。同じ疑問はフィットネスクラブにもある。1階下のジムへ行くのに、階段とエレベーターの手段があり、帰りならまだしも、これから運動する人でエレベーターが行列するのはなぜだろうか。たった1階ぶんの階段を降りるのを厭う人間に、どんな肉体上の課題を解決できるのか。独自の健康法でいえば、後ろ向きに歩くおっさんがいる。遠方にいると、身体の向きと接近による拡大率が逆転していて、近づくのか遠ざかるのか判断がつかない。この考えは解るのだ。50年間ずっと前へ歩いたから、そろそろ後ろでもいいじゃないかという発想である。未使用の筋肉が動き、視界なき後方への注意から、未知の感覚が研ぎ澄まされるだろう。利き手と反対の手で歯磨きするような司令部と実行部のちぐはぐになんとか連携をとる格闘が、脳に良いだろう。そんなテレビの聞きかじりの知恵を総合して編み出したオリジナル健康法に決まってる。僕がこの方法を好くのは、健康増進のためにはじめた後ろ歩きで、足をもつれさせたり、障害物につまずいたり、溝に落ちたりして、結果的に大ケガを負うか、悪ければ、いや年齢的にも大いにありえるが、ささいな転倒をきっかけに落命する危険性だってある、つまり死という不健康の極地へと確実に通じた道を歩んでいるところだ。ミイラ取りがミイラになる。魚釣りに出かけて魚のエサになる、墓参りに行って墓に入る、目薬をさそうと思ったら、目薬の水面めがけて落ちてしまう、扇風機をつけたら、羽根に密着した空間のほうがグワングワン回りだす、寿司屋に入ったら、座席が動くタイプの回転寿司ザ・ライドだった、ディズニーランドへ行ったら、本当は園内だけが現実で、今までリアルだと思っていた世界が、実は辛酸のスプラッシュ・マウンテンだった。

掃除と円周率は終わらない。押しては返す波のように、拭いては汚れ、吸っては溜まるチリ、ホコリと闘い続ける。これは職業的掃除夫でなくとも、生活者が日々の清掃で、なかには友人の訪問にあわせて半年ぶりに露出させた床へ、1年ぶりに掃除機をかける僕の彼女のような乱雑汚穢好きもいるが、その闘いの要請と果つることなき虚無の応酬を感じるところではある。無限だと思った歯磨きチューブが、見ぬ間にげっそり痩せ細り、もうダメかと思われてからも意外にしぶとく粘って耐えるところに、命との類似、ホスピスのベッドで口をあけてのたうつシワシワのアクアフレッシュを思わせる寂しさ。電子レンジが小型化しないのは、UFOの部品を使っているからだと語る22歳高卒コンビニ店員の従弟に向かって、それは人間を入れる棺桶のサイズが昔から変わらないのと同じだ、と言って聞かせる悲しさ。誰のために、何のために、僕はくる日もくる日も銃を握っているんだ、と戦争映画の主人公さながらの疑問に、銃をモップに持ちかえて、ない答えを探し続けるのが掃除だ。それが深夜早朝の誰もいない商業施設での仕事ともなると、孤軍奮闘の絶望感ひとしおである。空所が彼を求めたのか、空所へ彼がいき着いたのか、寡黙で、誰とも目を合わさず、淡々と課業をこなすだけの職人が、見えない何かと闘っている。「違う違うそうじゃない」「愛は渡せない」くらいの独り言なら誰でも唱えるが、その男は店のあちこちで「なんで俺が#$”*%>”*」と聞きとれないスピードでなにかを語る、その語尾がアイウエの母音に収束した叫び声となり売り場の端まで響きわたる。彼の心が、微細なセンサーでなにかを捉え、頭からいくら拭っても消えない幻、いや実像との対決を彼に強いる。

公共の場で叫ぶのは狂人か赤ちゃんだ。赤ちゃんは、人間界隈でよろしくやっていくためのルールを未習得という意味では一番の狂人ちゃんである。よって街なかで意味不明、用途不詳の叫び声を発する人間はもれなく狂人だ。職場で叫ぶ人とはお近づきなりたくないもので、ほかの従業員は犬の吠えるか、虫の鳴くかを聞くように、一種の自然現象とみなす大人の無視を決め込む。僕もなるべく距離をとったが、カートを音もなく滑らして、売り場のそこここに神出鬼没のガイキチと、真正面から出っくわしてしまった。狂人は、色を失う僕に、
「おはようございます」
とさっきまで猛っていたのが嘘のように笑顔をくれて頭を下げた。まともな社会人然とした男の態度に安堵したはいいが、さっきまで狂人視していた男にまともに挨拶される僕は、彼にどう見えているんだと、にわかに不安になってきた。同じ幻を分有する狂人仲間だと思ったのか、それとも僕自身が彼のみる幻影のひとつに過ぎないのか。そんなことを考えているうちに時給の発生するバイトだった。悲鳴と発狂の話でいうと、いや、そんなトークテーマがあるだろうか。サイコロに「悲鳴と発狂」と書かれた面が出て、仕込みのおばはんが狂ったように手を叩いて嬌声を上げる、あっ、ここにひとつの悲鳴と発狂を見つけたぞ、と思うような、そんな番組が…

大学の図書館で勉強するふりしながら、1人ぼっちの空腹と手持ち無沙汰をごまかしていると、吹き抜けになった上階の女子トイレから、辺り一面の空気を凍する悲鳴が降ってきた。死体を見たか、暴漢に遭ったと確信するような赤い針の叫び声で、館内の誰一人動けずにいるところを警備員がかけ上がっていくと、例の女子トイレから、黒髪で小柄の女が、何かあったんですか、と言わんばかり、声の主がやじうま面でケロリ奥の個室から現れた。駆けつけた職員は、大丈夫ですか、と問う気力を失っていた。医学部のとなりの医療関係の資料をおさめる図書館で、国家試験に備える女が、勉強のストレスを悲鳴に変えて発散するいつもの癖がつい出てしまったものだと、もっともらしい理由をつけて解釈することもできるが、女のあまりに何も聞かなかった風の平然とした態度には、たしかに聞いたはずの悲鳴を僕らのほうの幻聴でなかったかと疑わせる力があった。神経質な人ほど芸術肌だったり、才能があったり、優しかったりする噂があるから、狂気じみた演出で才人らしく振る舞いたいが、僕の天秤の針は等間隔に振れている。食器を使うのに一度水にさらさないと気がすまないほどに敏感だが、皿の裏は面倒だから絶対に洗わないでいられるほど鈍感である。同居の彼女は「シンクと接する食器の裏が一番汚い」と痛いところを突いてくるがお構いなしだ。鋭敏な感覚が狂気を導くというよりは、叫んでも次の瞬間には笑顔で挨拶したり、知らぬ顔で平然としていたり、表を洗っても裏を洗わないでいられる線引きのしかたが、人には狂ってみえるだけのこと。大小さまざまな狂いを抱えるのが時計と人間。僕らは唯一狂うことが許された狂気的動物である。

無闇だ。バイト中はあれだけ憧れた何もしない暮らしが案外辛い。もしかしたら自分は何もしないのが下手なのか、とわがアイデンティティの根本を成す「働かずしてこそ食うべけれ」の価値観が揺らぐほど息苦しい。世間様に顔向けできないというプライドの問題ではなく、そもそもプライドなんて見せる相手あっての物種、人との交渉を避ければ、誇りが虚言と虚飾の、いいね!とSupremeのTシャツによって解決すべき問題になることはない。人間は良くできているので、何もしないでいると、何かしなければと思いつめるものだ。ここに現在のスケジュールを恥ずかしげもなく書いてみると、いや人の生きるになにを恥じることがあるだろう。独房で壁の割れ目を見つめる囚人と、各国との調整会議に奔走する外務大臣では、行動の効果に、砂つぶと岩の波紋の差があるけれども、同じひとりの人間の1日としては等価である。スケジュール帳を区切る横線の数が、人生の充実を決めると思ったら大間違いだ。これは、学生が多忙を気取って手帳を開き、バイト、授業、飲み会、デート、パパ活、性交、排卵日の予定を、マス目を埋めると絵になるゲームのように、手帳の紙面へ塗りたくるのを横目にして、大学で初めて得られる学識である。僕は毎年ロフトのフロア半面に開く手帳フェアにぶつかると、つい新しいものを買ってしまうが、予定はおろか、予定をかき込む予定も立たず、ゴミになるのをただ悔いる。死ぬ以外に確実な予定はなく、2度の交通事故は「体調不良のためリスケお願いします」と死神にささやかれたのだった、予定のないほうが安心できる。これをしなくちゃ、あそこまで行かなくちゃ、と抜き差しならない用事ができると、その日までの1週間は、毎日毎時間、あの日にこれ、水曜9時、家を出るのは8時で…と細部まで検討して疲れてしまう。つねにスケジュールが白紙で、さて今日はなにするか、と悩むくらいがちょうどよい。どうにでも動けるぞ、と可能性に満ちた1日が開き、結局なにもしないで1日を終える。まことに結構なことである。

勉強の計画を立てる奴をバカだと思っていた。その日その時したいことをすればいいじゃないか、と1秒先の思考で大学院までやってきた。国家の運営ならまだしも、個人の運動ならば、短期思考でどうにかなるものである。いまここを生きる、というと芸術家みたいでカッコいいが、そんな熱気を放射するのは嫌だ。僕がいいな、と思うのは、パチンコ屋の駐輪場に羅列した新聞屋のバイクである。それも1社2社じゃない。ここだけで買収、空爆、決議案、製薬会社の人事から子ゾウの命名まで日本中の動向が丸わかりになるくらい各紙が揃っている。夕刊を配り終えて荷台は空。バイクは配達所の借りものだろう。毎日、新聞を配り終えて、パチンコ台と向き合い、日給分の金を溶かしたり作ったりする、まさにその日暮らしという言葉が、不在の運転手を見るまでもなく彼の生活を言い当てたと断言できる暮らしのありさまに、僕はこうはならないぞと反発する一方で、シンプルに書き切られた一行詩の死活に憧れる。朝起きて、昼寝して、昼過ぎ起きて、夜に寝る、あいだブログ更新の生産的な活動はするものの、こんなものは趣味としてパチンコと同じだ。座って打ち込む1人遊びで、球のなだれる盤面に世界を縮約し、リーチのかかる間は養育費の支払いと無縁でいられるように、文字のジャンジャンバリバリ落ちこぼれるにあわせて不安をごまかし正視をまやかす。たまには勝つこともあるのだから、まだパチンコのほうがましなくらいだ。起きているうちは、無産的インプットの宝庫で、YouTubeなら、ファミコン芸人フジタが、うずたかく積もるゲームソフトに四方を囲まれた、まるで廃棄ゲームの埋め立て地に穴を掘ってつくった穴ぐらのような家で、ブックオフヤフオク、中古ゲームショップで買った商品がダンボ―ル十箱単位で送られてくるのを、順次開封する動画をみる。ゲームを語るのでなく、記載された商品のコンディションと、実際に届いたものを突き合せて、「箱つきで状態良と書いてあんのに、ここんところの耳が取れちゃってる。この状態でも良ですからね」とグチグチ文句を言うのを、聞き流して楽しむ。埼玉県の幸手で、つぶれたパチンコ屋を安値で買い取った店長兼オーナーのひげ紳士が、これが業界のイメージ、たとえば店舗運営にかかわる上級役職の人間と聞けば、すぐさま連想する短躯、とろけた餅のビール腹、太く詰まった指はお札を数えるのが上手そうだ、貼りついた薄毛の頭髪の下に、小粒の脂肪腫をいくつも備えたカボチャ顔、そこへ2枚のピンク色のナメクジが引き攣り緩んで、怒号と猥語を吐きちらし、口の中にはもう何本も貴重な選手を失って、いまやうどん1本の突撃にもひるむスカスカのガチャ歯が、どろどろの歯茎が、落ちかける最後の白板の流出を抑えつつ踏みとどまる様子が見てとれる、そんな不潔と勘定と性欲の理念的合成物が、現実に人のかたちをとった代表的人物をつい想像してしまうが、当のひげ紳士は、紳士の名に恥じぬ小ざっぱりした清潔感を備え、経営不振が招いた食糧難、人件費節約のためにオーナー自らが朝から晩まで店に立つ超長時間労働の過労のせいか、痩せて立ち姿もスラッとしていて、鼻筋の通った端正な顔立ちに、きれいな白髪交じりの短髪もあいまって、パリッとしたジャケットを着こなせば、本当にそのままイギリス紳士と言われてもすぐに疑わないような、業界人と似ても似つかぬ風体をしている。その人の中に入っているのが、外観の洗練とは裏腹に、ささいな台の仕様や、モチーフとなる美少女アニメのキャラクターの可愛さにはしゃぐ、パチンコオタクの子どもなんである。アンパンマンパチンコに咥え煙草の6歳児なんである。すべてはイメージの産物に過ぎないが、企業のオーナーといえば、指先と口先のしごとで、あとは下品な水商売の女に時計を見せびらかし、太ももを触るだけの業務を思ってしまうが、僕が何かのオーナーと呼べる人物を見たのは、少年野球チームに月2で現れた照れ屋のおじさんだけだ、ひげ紳士は、腕まくりした作業着にゴム手袋をはめ、何十キロにもなるパチンコ台を持ち上げ、電源プラグを差し込み、電動ドライバーで台をビス止めする設置交換作業を、横並びに何台も行って汗だくになる労働者の顔を持っている。小さい経営体では、管理者が管理される側となり、使用者が使用される側ともなる、家族営業の八百屋みたいな状況になるのだろう。普段はブラックボックス化したパチンコ店、街なかの視線から逃れるように窓にフィルムを貼り、ろくでなしの朝の行列と働く市民の目線が交差しないようにシェードを張り巡らした店構えが物語るように、部外者には見えない内部事情が、なんとなくひげ紳士の働きぶりと、毎月報告される来客人数の内訳、推移、法制度の改変にともなう運営方針の転換、構想などが、語られる範囲で見えてくる。ふつうパチンコ動画といえば、タレント、芸人、雑誌ライターが解説したり、買った負けたの喜怒哀楽を見せるところ、もちろん人が大金を手にする幸運を見るより、店とATMを何度も往復して月収を1日で失う結果のほうがおもしろい、人の負け姿は小気味いいものだ、甲子園の砂集めも、4KウルトラHDで坊主どもの悲嘆を映せば感興も倍化するし、テニストーナメントだって試合を映さずに、敗北者が湯気けぶるシャワールームで自身の涙を水にごまかすところだけをギリギリモザイクで中継したほうがドラマチックである。ひげ紳士の動画は、夕刊配達者が「くそ、金をむしり取りやがって」と毒づくように、これまで客と敵対関係にあった店が、その手のうちの見せることで、病弱の友のような顔でもって近づいてくるわけである。全国から視聴者がやってくる事実を踏まえても、そのPR効果、マーケティング用語のなんとか効果は絶大だ。YouTubeで見る動画はほかにもあるが、「あなたへのおすすめ」に浮上するものを時間の許すかぎり、といっても僕に使うのが許された時間は日に12時間、そのうちの3分の1を動画間の跳躍に使う日もあり、中毒抑制のため設けられた週の合計視聴時間、1日あたりの視聴時間数の表示機能を、酒飲みがγ-GTPの数値から目をそらすように、恐ろしくてすぐに隠したのを覚えている。あなたは今日これだけ時間を無駄にしましたよ、と客観的証拠を突きつけられると、ゆったりした余裕ある生活が、急にみじめなものに思えてくる。しかし履歴は残る。最近見始めた『エレメンタリー』という現代ニューヨーク版シャーロック・ホームズがもうシーズン5の中盤まで「視聴済み」になった。1シーズン24話で1話45分だから…計算したくもないが、このドラマこそが僕のフリーター生活、そして現状のニート生活を特徴づける、というか原理(element)そのものである。海外ドラマを好む人なら解るだろうが、もはや面白さは関係なく、惰性で見る。毎話の構成演出を批評するんでなく、ご近所さんに挨拶するみたいに、キャストの顔を見るためだけに見る。昔、子どもの頃に連れ去られたハワイ旅行で、どこかへふらふら遊びに出た両親に部屋の留守番を頼まれた僕は、一人っ子で遊び相手もおらず、手持ちのゲームやマンガにも飽き、ベランダへ出て向かいのホテルの窓に風呂から上がったばかりの金髪美女が映らないか睨みを利かせる監視業務の結果にも失望して、最後の暇つぶしにテレビを見た。英語が解らず、アニメを見ても2歳児のみじめさを感じる。そこへ唯一、聞きなじみのある言語を話す日本人向けチャンネルがあり、僕が何度も何度も、覚えるまで見たのが『渡るハワイに恥はなし』という、英語の不得手な日本人夫婦が各地で失敗をやらかすショートドラマで、現地人から失笑を買う日本人旅行者の低劣な民度と粗悪な文化的教養を高め養う目的の啓発番組であった。

自分の手荷物、自分の手に持つ
いらないものはホテルにキープ
大事なものはセフティボークス
街を歩いてる青い目金髪
有り金いただき おつりは病気
声かけてきたらさっさと逃げよ
娼婦のようでもほんとは泥棒
ここは日本じゃないんだから~♪

こんな防犯ソングが平気で流れていた。
「ママ、娼婦ってなに?」
と繰り返し訊ねたのを覚えている。バイキングが食べたいと伝えると、バーガーキングに案内されたり、バイキングは和製英語であり食べ放題はバッフェイと言わねばならない、アイスコーヒーを頼むと顔をしかめた店員がホットコーヒーへ氷をじゃぶじゃぶ入れた、その対応に憤懣する男のところへ米国人のティーチャーが現れ、アメリカでコーヒーといえばホットだ、日本みたいにアイスコーヒーをサーブする文化はない、と教えてくれたり、「メイアイボロースクーター」と街のレンタルバイク屋へ訊いた男が、店員から鬼の形相で睨まれて追い返され、首をかしげる夫婦のもとへティーチャー「ボローは無料で借りること。お金を払うときはレントを使おう」とタメになることを教えてくれたり、僕が長じてから英語を不得意科目にしなかったのは、この番組のおかげであった。滞在中、繰り返しこの番組を見続けて、というのも日本語を供給してくれる唯一の慰めであったから、現地ではじめて友達を得た気になった。ある日の浜辺である。白いベルト巻きのビーチチェアに、あの日本人夫妻と外国人先生がテレビ衣裳そのままの姿で座っていた。カメラクルーがとりまいて、撮影の真っ最中であった。僕は旧友とやっと面会を果たした気分で、浮き輪も捨てて走ったが、そうか彼らは僕を知らないし、こんなところで「サインください」と言っても、どうにもならないと思うと冷めてしまい、親のもとへ報告しに帰った。プールサイドで寝そべる父母は、子どものバカ話だと思って聞くふりして聞き流し、まともに取り合わない。ビーチに戻ると夫婦役の役者も撮影隊も消えていた。あれは南の島の陽に当てられた僕の幻でなかったか。テレビを見すぎたために起きた蜃気楼でなかったか。今だに自分の記憶の確かさに自信が持てないでいる。

テレビに入り込み過ぎると、キャラへの親近感が、実体を伴う。今、シャーロック・ホームズジョン・ワトソンがニューヨークで事件を解決していると思っている。謎めいた単語のメモ書きを前に、1時間も腕組みの思案顔を決め込むホームズ、遠まきに心配そうに彼を見つめる警部にワトソン君がいて、急に立ち上がったホームズが「これは船の名前だ!」と抜群の推理を見せるわけだが、さっさとググれカスと助言したくなる。IT社会と、歩く辞書型の名探偵の食い合わせの悪さを吟味したいんじゃなくて、どうして作中の探偵は天才にだけ許された職業なのかと疑問に思うわけである。浮気調査ならいざ知らず、たしかに人命のかかる怪事件には頭脳が投入されて然るべきだが、それにしてもバカに探偵は務まらぬものか。それを小説にして検討したいと思って書き始めたのが今回の記事だった。

 

9月8日未明、大阪西天満の路上で女性の刺殺体が発見された。一報を受けて現場へ急行した府警捜査一課の西森は、被害者の異様な死にざまに目を疑った。一方、探偵志望の草田は、履歴書を家に忘れて、探偵社の面接に失敗した。