おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

だらだら学講義Ⅰ オリエンテーション

 

えー本日はだらだら学講義Ⅰ第1回目の授業といたしまして、授業内容と成績評価についてお知らせするオリエンテーションを行います。はじめに授業開始が15分遅れたことをお詫び申し上げます。私も近年、方々からだらだら学の権威だとか第一人者だと言われることが多くなりまして、私の一挙手一投足がつねにだらだらしていなければ評判に劣る、道理に反する、つまりマナー講師が食事の際に箸をねぶるような、警察官が取調べ中に婦女暴行をはたらくような、あっ、これはたまに本当に起る事案ですが、とにかく人にだらだらを教える立場にある者が、ふだんの生活からだらだらしていなくては説得力に欠けるというので、本当は人事考課に響くので遅れたくはないのですが、言行一致のために、しかたなくタバコの2,3本も吹かしてから講義室へ向かうのであります。ですから、この寝癖も、コーディネートのちぐはぐも、着衣の乱れも演出のひとつだと思ってお許しください。申し遅れました、講師の怠田です。怠田慢と書いて、タイダオゴルと言います。私の経歴をざっとご紹介しますと、本学の経済学部を卒業して、フラフラしておりましたところに、息子の行く末を案じた父の口利きで、というのも父は本学の学長と懇意にしているものですから、その縁故もあって、ここに君たちを教える講師として、登壇する運びとなったわけであります。君たちのなかには、私が教える者としての資格、それこそ修士号や博士号を持たないことを不審に思い、教育者としての適格性を疑う者もあるかも分かりませんが、私自身がそうだったのです。大学に雇われるから、初めはトイレ清掃、学内警備、庭の手入れや、資材搬入、学食のおばちゃんをやるものだと思っていたのですが、生徒の前でなにか話せ、と言うではありませんか。そのときの様子をちょっと再現しますから、よくお聞きになってください。

「学長。私が人に教えることなんてありませんよ。むしろ人から教わりたいくらいです」
「心配せんでも学生なんてみな聞くふりして何も聞いとらんのだよ。それぞれの事業に忙しいんだから。それにこの学校に集まってくるような連中はもともと」
「私もここの卒業生ですが」
「そうだ。その、優秀な人が多いから、なにも教えなくても、彼らが勝手に内容を汲んで学んでくれるものです。君は前に立って、好きなことを喋ればいい。自分をスピーカーだと思おう。あるだろう、教室の上に、鳥の巣箱みたいな味気ないグレーの箱が。自分があれになったと思い込むのが、緊張しないコツだ」
「はあ。私はなにひとつ人より物知りだと誇れることがありませんよ」
「なあに君がふだんからよくやっている趣味の話をアカデミックに語ればそれでいいんだよ。それとひとつお父さんによろしくね。君がうちの講師に就任した報告と、いつもどおり寄付の案内も君のほうからそれとなく話を頼むね」

とまあ、背中を押されてここへ出てきたわけで。どうですか、君たちも入学式で耳にした学長の声そっくりだったでしょう。こう見えても私は演劇部では部内の三船敏郎として鳴らしたものですから、少々のスキットなら難なくこなせる、だから初めは演技の授業をしようとしたくらいです。私は一旦役者モードに入ると抜け出せず、勝新太郎が役に入り込みすぎて正気を失ったみたいに、私も役と自分の区別がつかない時がある。自立してひとり歩きし始めた役、もう役ではなく1人の人間ですね、それが私という私の境界を融かし、混然一体となる自他の消失点が、すぐれた役者の才能の地平には存在するわけですね。私にもその片鱗が見えかけていた、つまり開花するかもしれない大才能を秘めていた、ゆくゆくは日本のテレビ、映画界の記録を塗り替える第2の渡辺謙、ようするに渡辺謙二郎として、まあこれが私の使おうと思っていた芸名なんですが、私は渡辺謙二郎としてラスト・サムライ・ビギニングに出る筈で、実際に父の会社と親交のある大手芸能プロダクションから声がかかっていたんです。それがオーディションへ行くと、プロデューサーと監督が「受験者のくせに遅れてくるとは何事だ」と怒るじゃありませんか。時間にルーズな奴は、金、女、仕事すべてにルーズだ、1分1秒が勝負の業界で、時間を守れない奴は、財布のチャックを開けっぱなしで歩いているようなものだ、それもみんなの共有財産の入った財布を、と説教まで受ける始末です。結果は不合格。私に一番強く当たった監督は父に言って降ろしてもらいましたが、私はそのときに、ああ、私は時計のぐるりに日常を支配されている連中とは生きている世界が違うんだな、タイムカード、AMANO EX3000Nc Electronic Time Recorderの前で0分0秒を待つような人たち、21時終業の工場で、従業員の時計を「貴重品だから」「混入を防ぐため」と言って奪うように預かっておきながら、チャイムを21時0分59秒に鳴るようにセットして、最後の1秒までマヨネーズを絞りつくすように働かせる労働現場の人間ではないんだな、ということに気が付きました。腕時計をしない大富豪のマネではありませんが、時間に縛られるのはまっぴらご免です。気の抜けた木琴のアラームで1日が始まる、いや人生に1日しかないその日の朝が強制的に開かれるというのは、はっきりいって強姦です。髪や服装を乱して駅へ走る女学生にサラリーマンは、朝に犯された被害の状況をよく伝えていますね。古来より、さまざまな才能ある人たちが、ブッダがキリストが、ソクラテスプラトンが、孔子老子が、DaiGoが堀江貴文が、人間の幸せとは何かを追求して語ってきましたが、ここに怠田が、真の幸福条件を発見いたしました。それは、目覚まし時計に起こされない人生です。そろそろ起きなきゃと思わせる、食べなきゃとあせらせる、デジタル時計の数字の排列に、寝食の主導権を握らせないことです。その幸福の一歩が、私の遅刻癖、いや初めから刻限を否定した生活に遅刻も早着もありませんが、とにかくできるところから時間の法をとり外していこうという考えで、この講義には明確な始業時間も終業時間もありません。だいたい人生に開始終了の合図などありはしないのです。このなかに、病院の鳩時計のピックルポックルにあわせて、産道のぬめりを舐めるように出てきた人がいたら教えてもらいたいくらいです。あれ、そこの君、手を上げましたよね。軽い冗談のつもりで先生をコケにしたら承知しませんよ。私はなにひとつ冗談を言っているつもりはありませんからね。ここに集まった君たちは、いかに最小の労力で卒業に必要な単位数を稼ぐか、ということを考えて、この見るからに楽そうな、そりゃそうですよ、講義の名前が「だらだら学」で、シラバスの講義案内も、

 

【講義名】  だらだら学講義Ⅰ
【開講期間】 前期
【担当教員】 怠田慢
【時限】   火曜2時限
【場所】   E棟5号室

【授業内容】
本講座では、往年より勤勉をもって伝えられる日本社会が、その精神的風土によって自ら瓦解せる、具体的には国際比較における高水準の自殺率ならびに精神疾患罹患率にみるところの緊張と崩壊にたいする、一種の知的防衛策として、これまで欧米社会やわが国の近代合理主義精神からは忌避、拒絶、隠蔽されてきた怠惰の徳を復活させ、諸君をして怠慢の美を感得、実践せしむる目的を持つものである。

 

【授業の到達目標】
1.基礎的な無気力を身につける
2.期限、期日に遅れることができる
3.社会の要求を無視して居直ることができる
4.大事な予定を昼寝に置換することができる
5.まじめな人を笑うことができる

 

【受講資格】
覇気・元気のない人。
「やる気ある者は去れ」というタモリの言葉どおり、授業に前のめりの人、ちゃんと学ぼうと思って一番前に座る人は不適格とみなします。

 

【授業計画】
第1回 オリエンテーション
第2回以後があると思うな親と金で、現時点では明言したくありません。計画や予定を否定するのがこの授業の目的であることを思い出してください。

 

【教科書】
怠田慢(2015)『親の仕送りで年収1000万を稼ぐ人の生まれと甘えで成功する10の方法』サンセットパブリッシング

 

【成績評価】
ミニレポート・定期試験の総合評価

 

これなら適当にやれば、単位がもらえるぞと思って、皆さんはのこのこやってきたわけです。私に言わせれば、皆さんは評価D、不合格、単位不認定です。となると余りに厳しく、その判定こそが授業の理念たる「だらだら」から離れているのではないか、とのご指摘も受けかねませんので、初回に限って成績評価の対象からは除外しましょう。

ドッヂボールにも顔面セーフという特別ルールがありますが、それを逆手にとって、あらゆるボールを頭で受けるテクニックでコート内に残り続けた男の子がわが学級にもいましたが、ボクサーでいうパンチドランカー、つまりボールドランカーの症状がでて、受験戦争のコートからは早々に弾き出されたということがありますから、皆さんもくれぐれも注意してください。そこで皆さんの一番の関心事、成績評価についてですが、前年度の合格者数を発表しますと、2人です。百十数名の登録者のうち、たった2人だけが合格点に達した厳しい講義であることを覚悟しておいてください。もう生徒間では噂になっているかもしれませんが、テスト対策の話をすると、前年度の合格者は、テストを受けに来なかった人と、テスト開始30分後に遅れてやってきた学生です。彼らはこの講義で学んだことを早速、実生活でも生かすことができた。そもそもテストがあるからといって、それが単位のため、ひいては将来の就職のためであったとしても、のこのこ時間どおりに家を出て電車にのり、指定教室の指定座席につき、出された問題をまじめに解くなんてことは、だらだらとかけ離れた行為です。いやしくもだらだら学を身につけようとする学生にあっては、テスト時間になっても、いやそんなことがあったとははなから忘れているような態度であってほしい。今回も同じ手が通じると限りませんので、当日は皆さんが思うだらだらをぶつけてほしいと思います。私は行けたら行くと思います。

さて、ここまで息継ぎもせずにお話したので、聞くのも疲れたと思いますから、少し休憩をとりましょう。と言いたいところですが、小休憩を挟んだほうが結局は作業のミスが減り能率が上がる、生産性が高まる、という発想は、工場のライン作業でも昼休憩のあとにもう一度15時の小休止が設定されるように、実際の労働現場でも実践される効率化の法則ですから、徹底してものごとの非効率を求める私たちは、このまま低能と無産のぐだぐだの泥濘を這って進むミミズとなりましょう。

話は、教師としての適格性から、どうしてだらだら学なるものを教えるに至ったか、という経緯についてでした。学長から、趣味を学問のように語れば事足りると、学業の神髄と学校運営の肝を教わったわけですが、世の中には趣味が高じて業界の牽引者となる例が後を絶たないことを考えると、あながち間違いと言い切れない真理を含んでいます。幼少期から数字を扱うのが好きで数学者になった人、銀行員になった人、昆虫が好きで生物学者になった人、カブトムシの養殖業者になった人、魚が好きでさかなクンになった人、マグロ漁船に乗せられた人、くつ下が好きで国内屈指の繊維製品メーカーを立ち上げた人、街のブルセラショップでは本人が履いたものかどうか分からないから、帰宅途中の女子高生の後ろでつまずいたフリをして、足元めがけてペットボトルのお茶をこぼし「ごめんね洗濯して返すからね」と言って強引に生履きのスクールソックスを奪う強盗犯で、このあいだの警察24時に出演していた人、など数えだしたらキリがない。フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズは、小学校の帰りに地元の図書館でたまたま未解決の難問について書かれた本を読み、10歳で自分が解くと決心したと言います。私も10歳のときには、学校をずる休みした日のテレビの面白さに感動し、学校のみんなが嫌々、つまんない顔で黒板に向かっているなか、ひとり布団のなかでゲームする楽しさに目覚め、本当に何もすることがなく、カーテンのすき間から天井へ照射された、光の筋を数えたり、その模様が車の通行でゆらめく様子に「外界のささいな動きが遠く隔たる部屋の天井へこんな微細な変化をきたすんだ」と暗室で寝そべる人間がもっともよく考えることを自分だけの天才的発想だと考えてみたり、壁紙の凹凸のテクスチャをじっと眺めて、この質感に美を見出すのは、この俺かピカソくらいのものだ、と感性的悦にふけってみたり、自分が暇であることと、その暇のうちに勉強も宿題も、工作も運動も、何もせずにだらだら過ごすのが好きだと自覚し、この先大人になってもずっとだらだらするんだろうなあ、という予感が早くも立ちました。クーラーで冷えた竹マットの上に寝転がったり、寒い日に電気毛布の下に丸くなっているときに、よし一生だらだらしていくぞ、と決意したものでした。幸い私には会社経営者の父がいて、皆さんも一度は聞いたことがある会社ですよ、それで庶民の、あっ、ふつうの労働者の家庭とは生活感覚のケタが、2つも3つも違うもんですから、私に生活費の足しにといって振り込まれる毎月の微々たる仕送りでもって、一家3人3LDKの暮らしが立つくらいの金額があるもので、こんなことこれから労働者となる皆さんに言いたくはありませんが、あくせく働かなくたって死なない境遇にあるわけです。さて、ここで思い出してほしいのですが、人類が誇る文化、芸術、その他崇高な理念や美にまつわる制作物は、生産労働に関与しない王族、貴族の暇つぶしとして発展、深化、継承されてきました。王様や主人、ご婦人方を喜ばすための絵画、彫像、演劇、音楽、詩でした。和歌は宮廷人の恋愛感情、自然感取、あはれ、をかしを容れた美器として今日の受験生が学ばされるものですが、当時の水夫が、百姓が、木こりが、彼らの生々しい性愛の遊びを語ったであろう艶笑話は、書き言葉と紙と筆の高級保存容器を持たなかったために、芸術として残らなかったのだろうと推測されますが、そんな一般庶民の話を聞いたって、面白くないと思いませんか。どうです、街中で立ち話しているオバちゃんたちの会話を文字に起こした出版物は、後年にモダニティと人間性の相克を捉えたダイアログ文学の傑作、対話篇としてプラトンに次ぐ人類の至宝と『ダ・ヴィンチ』の書評欄に載るでしょうか。教養のない人間の創作物、いやそもそも創作するのか分かりませんが、生産物はつまらない。なにかを犠牲にして、台所感覚とは遊離したところで、ふつうの人がとるにたらないものとして捨て置くことに、あれこれ悩んだり、ときには悩み過ぎて胃病、中毒、入水、拳銃自殺しちゃったりして、つくったもののほうが本人は別にして、部外者としては面白いわけです。『コクリコ坂から』も、宮崎駿を父に持つ宮崎吾郎の苦悩と、父の遺産に食わせてもらっているお坊ちゃんぶりを考えると、面白いわけですね。コクリコ坂の制作をめぐる父と子の静かな対決を追ったドキュメンタリー『ふたり』で、宮崎駿が、スタジオジブリの事務所屋上でタバコを吹かしながら「吾郎は演出に向いていない。やりたいのとやれるのは違うんですよ」とボソリ語った場面は、やりたいことばかりに囚われた夢見がちの若者をドキリとさせますね。老舗のよく煮込んだおでん鍋をアクリル板で仕切ったみたいな顔をしている女子高生が、ポップティーンの専属モデルを目指す。針の糸通しですら、途中で癇癪を起して放擲してしまうこらえ性のない人間が、10時間の精密作業に耐える心臓外科医になりたいと言っても土台無理なはなしです。やりたい熱意があっても、やれる才能がなければダメだよ、ということばが、才能ある人から漏れるのは残酷ですね。やりたいとやれるの一致が、意志と実現のセットが、ネットナンパ師から宇宙飛行士を貫く幸福の法則ですが、それでいくと、私の場合は元来だらだらしたい心根に、だらだらする才能がついてきた幸せなパターンでしょう。人間の誤りは、みんながみんな同じように思って行動していると思い込む勝手なゲーム理論的思考の無限遠の浸潤にありますが、おっと難しいことばを使い過ぎましたね、つまり君たちにも分かりやすく言うと、けろっぴが、姉のぴっき、弟のころっぴだけならまだしも、友人のけろっぺ、けろりーぬ、でんでんまで同じ味のキャンデーを好むと思っている、絵の中の蛙とはまさにこのことだと言うような偏狭に生きている、この中で学生のあいだにバックパックの世界旅行を企てている人、もしくはその偉業を達成した人を友人先輩に持つ人がいるかもしれませんが、世界を見て回ったからといって世界的な思考が手に入ると思ったら大間違いですよ、むしろ世界には世界を回ったことのない人のほうが多いわけで、自分は世界を旅したんだという思い上がりが、また一つの狭小世界の扉のカギなわけで。逆転の発想もあると思うのです。自室に閉じこもり、ベッドとPCデスクの往復に生活を完結して、現実の経験を極限まで狭めた結果、ブラックホールが自らの重力によって崩壊するように、無限小の世界が無限大に反転する機会があると思うのです。哲学者カントは生地のクーニヒスベルクの街から死ぬまで一歩も出なかった、地元から一生離れなくても世界を変革することはできるんだと、田舎のヤンキーたちは特異の例をもって主張しますが、これは毎日カレーを食べるからイチローになれる、公文式をやれば羽生善治になれる、アリエールのスポーツ詰替えを持ってにっこり笑えば大坂なおみに、国分寺にジャズ喫茶を開けば村上春樹になれると言うようなものです。

私はだらだら学の教祖ですが、すべての人がだらだらしたい、だらだらできると思っていません。世の中にはだらだらしたくてだらだらする人、したくないのにしてしまう人、したいのにできない人、したくないししない人がいます。君たちはどれに当てはまるでしょうか。私が行った調査によると、中2つにボリュームが集中しています。多動力で活発に、嫌われる勇気の鈍感力で、ポジティブな超選択術を武器に、もっと効率よく生きていくべしと圧力のかかる社会では、だらだらしたいのにできない人は身体を壊し、したくないのにだらだらしてしまう人は無能のレッテルを張られる。自制心が弱いとか、責任感に欠けている、先を見通す力がないとささやかれ、書店にはそんな体質を改善するための教科書が毎月のベストセラーを塗り替えています。ちなみに、だらだらしたくないし、しない人たちは、この講義を受ける資格はありませんから帰ってください。私が積極的に評価するのは、だらだらしたくてしている人たち、ようは今日の授業に出席しようと思ったけど、前髪が決まらなかったから一日家で休むことにした欠席者全員です。だらだらに罪悪感を持つこと、それ自体がだらだらの理想からは対極にあるまじめさ、きつきつなのです。こんなことを言うと、先生はだらだらをまじめに話している、きつきつのだらだらは自己矛盾ではないかと指摘する生徒がいますが、スローライフを説く人気講師が全国を飛び回って過労で倒れてしまうように、家庭問題が全然片付いていない収納アドバイザーがいるように、虫歯の歯科医、エロくない歯科助手、読んだら忘れない読書術という読んだそばから人に忘れられる本を書く人がいるように、追求していくと矛盾をきたす点が出てくる。だらだらし過ぎるときつきつになる。逆にきつきつを極めると、だらだらにも行き着くわけです。単独無酸素マッキンリー登頂の偉業なんて、私からみればだらだらしています。これは実体験ですが、世人のほとんどは忙しくしている、暇は最高の贅沢であると言って、風邪でもないのに食う寝る食う寝るを日に何度も繰り返すと、身体は病体のように重く、心は心の窓に地球最後のたそがれを望むような絶望感に圧倒されるきつきつの境地へ入っていきます。ようするに、だらだらする行程そのものも、突き詰めずに、だらだらした態度で半端に追求するのが正しいということです。

もうすぐチャイムが鳴ってしまいますから、といっても腕時計をしない私がどうして正確に時間が分かるかと言うと、体内時計、腹の減り具合で時を測る腹時計と言うんじゃなしに、そろそろ横になってだらだらしたいと思う直立の活動限界がちょうど90分なんです。だらだらを続ける最終的な技術に関しては、次回以降にお話するとして、最後に私が尊敬するだらだら界のスーパースター久木田をご紹介します。スターといっても中学の旧友で、今はどうしているか知りませんが、彼は野球部、中学の野球部といえば、しんどいことイズビューティフルの価値観に蝕まれた歩兵部隊、あるいは男子の体に興りつつある野獣の欲望を、健全な動きに変換する体育の発想に囚われたサーカス団ですが、何か学校生活上の粗相を犯したら、たとえば器物破損とか酒、タバコの大人ごっこが見つかった場合は、下校の時刻まで延々とグラウンドを見世物のように走らされる永遠ランニングが課されていました。ちなみに私はソフトテニス部、ソフトですよソフト、運動部ではありますが、私の学年の部員が、私を筆頭に皆だらだらしているというので、顧問の先生、これが技術を教える未婚30代のトンガリ帽みたいな顔の男だったのですが、テニスの経験がない奴に指導されてたまるかとはなから尊敬を失っておりまして、ある日先生に呼び出しを受けて「試合に向けて本気で取り組んでいくのか、授業終わりにレクリエーションとして軽い運動をするだけの遊びでいいのか、選べ」と問われて、先生としたら生徒が頭を下げて「地区大会に向けて本気でやります。ご指導お願いします」と泣きべそをかくスポーツドラマの一場面を再現したかったのでしょうが、結果は全員一致で「レクリエーションでいきます」とへらへらしながら答えました。それ以後、先生は一学年下の指導に集中し、私たちは彼らの士気を下げぬよう、裏手のコートで、温泉卓球のようなテニスを楽しんだ。そういう意味のソフト・テニスでもあったわけです。さて、問題の久木田ですが、彼は素行不良からランニングを課されても、最初の2周を走って、あとはずっとおじいさんの散歩でした。熱血漢の顧問に「久木田こら走らんかい」と運動場の端から怒鳴られても聞こえないふりでした。そのだらだらの究極がノックを受ける守備練習で、地面に膝をついてボールを捕るのが億劫な久木田は、すぐに股抜けをやらかし、グラウンド後方まで捕り損ねたボールを拾いにいくわけですが、その時にも絶対に走らない。甲子園で球を追うのに走らない選手を見たことがあるでしょうか。こんな暑いのにボール遊びなんかやってられるか、だらだら時間稼ぎしてやろう、という魂胆が丸見えの後ろ姿でした。それを見つけるたびに監督は「久木田こら走らんかい」とおよそふつうの野球部では聞かれない文句で怒っていました。私が言いたいのは、皆さん、ボールを捕るために走っていませんか、もしくは走らないといけないと思い込んでいませんか、ということです。頭の中の顧問の声を無視して、だらだらしましょう、と言いたいのです。久木田が卒業後にどうなったのか知りませんが、20代の頃、「ええから今日家きてや。舐めさせてくれや」みたいな誘淫のメールが、女と間違えて私のところに送られてきました。そのあと慌てて、友達とそういうノリの遊びをしてたのを送ってしもたんや、と聞きもしない申し開きのメールが届いたのを覚えています。それが彼の最後の消息です。

さてチャイムの途中ですが、このチャイムは私が事務室にかけあってこの教室だけに流れるようにしたもので、私が手もとのスイッチを押せばいつでも任意のタイミングで、授業を終えられるようになっている優れものです。チャイムに従って行動する、小学校から無批判に受け入れてきた慣習に自覚的でいてください。配布したコミュニケーションペーパーに、私と愛人契約を結んでもいいという女学生の方は、あなたのサブスクリプションにかかる費用を書き込んでください。もっとも低い価格を入札した方と取引いたします。最低入札価格を知るための接待などはお控えください。それでは良いだらだらを。