おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

表現の失敗

 

1日1字だけ書くMini Habitsのおかげで、前回は5,000字の記事をものにした。質の高低は別にして、公開完了がブロガーとして嬉しい。質の高低を共にすると、文章で魅せたい、ことばのチョイスとリズムのタピオカドリンクでありたい、そんなド文系のプライドを匂わせようとたくらむ手前、人の評価と自分の納得が伴わないと恥だ。

中島らもは、失敗についてこう言った。

エッセイを書いたり、芝居の脚本や落語、小説を書いて口を糊していますが、この世界にも「失敗作」という恐ろしい言葉があります。これも認めません。こういう表現の世界ほど客観的評価に意味のない世界はないからです。技術的に拙劣な「失敗作」が、たとえたった一人の人間でもいい、その人の胸を打って生きる力を与えたとします。その場合、「失敗」とは何に対して失敗だったのでしょう。
『空からぎろちん』双葉文庫

中島論によると、ブログにおいても失敗はない。僕の記事は成功しかありえない地元の神童、将来は学者か国務大臣を嘱望された青年が都市へ出、酒の魅力、女の知力、金の威力にさらされ、地味な保険会社の事務員に収まるように、引用後半の「生きる力を与えたら」という条件がネックになる。

「息子ちゃんを連れて海に行きました。日焼け対策にキッズ用のラッシュガードを買ったのですが、着たくないみたいで」というママ3年目の育児日記、「今日も5万負け。吐きそうだ。爆益の予感がしたんだけどな。調子悪かったぶん明日は勝てるはず」と夢みる貧乏人のFX奮闘記、「群青色の空に浮かんだ純白の雲は、どれもペンキで塗りたくった冗談みたいだ。真夏の殺人光線(そう、それは季節における第一級殺人なんだ)に水晶体を焼かれた僕は、蝉の死骸をぷいと乗り越えて、とろけそうな恋の熱中症に倒れるべく、サマーをバケーションしている真っ最中である」らしいうぬぼれ屋のひとり語りを読まされたとき、そこに生きる感動を覚えるだろうか。またこの手のブログだ…という既視感、絶対の個性を持つ僕たちが、恐るべき類型に回収されてしまう表現世界の束縛のほうに、むしろ不思議な感動が立ち上がらないか。そもそも君は、映画・音楽・劇・小説・実話・又聞き・時事・催事に触れて、明日から頑張るぞ、と心の底から生きる活力がもりもり湧き上がる体験をしたことがあるか。「生き方が180度変わりました」と、苦労人の成功譚に触れるたび、年がら年中生き方がぐるぐる変わるレビュワーが、しじゅう打たれている回心の電撃を味わったことがあるか。僕はない。これが自分の生き方を決めたと言える表現に会ったことはないし、これからも出会わない。

表現は人間の意図である。人を感動させようとする魂胆はもとより、善人に見られよう、すごく思われようという地下電線がある。それが見え透くように思われて、素直に喜べない。大福餅に小判を隠すような、一見なにげない旅行土産のえびせんべいに、のちの便宜を期待する意味を込めるような、そんないやらしさが、人間の制作物にはかならずや潜んでいる。父の日のキャンペーンで、スーパーの壁に貼り出されるパパの似顔絵にも、興味ない題材にいやいや取りくむ子どもの忖度、さらにその後景には5名様に当たる商品券を手にしたいママのそれとない教唆が隠れている。僕の感動はむしろそういう意図にどれだけ心を砕いたか、見せ方見られ方にいかほど苦心したか、つまり服飾専門学生の私服の力の入れようみたいなものへの尊敬と軽蔑から来ている。まるで不感症の女が、私を気持ちよくさせようとするその心根が憎い、とややこしい文句をつけて自分を高みに置くようなもので恥ずかしいが、ここまでの意見も、意見を伝える文飾も、またすべて僕の意図どおりの表現なのであって、それを真に受けて、ハンドメイド・ジュエリーのスモールビジネスを始めたり、LINEで稼げるカンタン副業、YouTubeの配信業を興して、小遣い稼ぎで始めた企てに、ほんとうの自分を生きている実感があります、と天職の使命を覚えるような感激に打たれてしわまぬよう気をつけてほしい。

 

作品の失敗はない。人間の失敗もない。


「あのときもっと勉強しといたら」と後で悔やむ人はよくいますが、その人はその時点では何をどうもがいても勉強することが「できなかった」。だから「しなかった」だけの話です。…今ある自分というものは、必然のよってきたる結果なのであって、「なるようにしかならなかった」から「なるようになった」姿なわけです。その必然の帰結である自分の姿に、「失敗」というものさしを持ち込んでも意味のないことです。


入試に落ちた人、就職にしくじった人、パートナー探しに油断があった人、株価の0をひとつ打ち損ねて100億円の損害を出した人、ポッケにティッシュを入れたまま洗濯した人、後悔に悩めるすべての人間、「後悔じゃなくて反省すべき」と今すぐ後悔したほうがいい発言をする意識の高い人を含めた、あらゆる人を救う前向きなあきらめである。これで僕は自身の短小包茎、学歴コンプ、地位、影響力、不甲斐なさ、弱虫、けちんぼ、ヘビ嫌い、手荒れ、脱毛、ものもらいの悔しさを克服した。なるようにしかならない、と自分の境遇とその結果を追認する態度は、資産なし教育なしの家庭に生まれた凡人はもちろん、外科医と貿易商の父母を持ち、金銭・将来・自尊心になに不自由なく不都合なく生まれ育ったイケメンセレブ大学生が、自身の服装趣味の軽薄、人間関係の希薄、行動原理の浅薄を自覚するとき、彼を救ってくれるのも、裕福であることを強いられた環境の限界にたいするまたひとつの諦念である。

中島らもはどうしてこんなに面白いんだろう。クスリでもやってんじゃないか?と思うが、すでに本人が著書で、ハシシ、ブロン、LSD、幻覚サボテン、覚せい剤の体験を書いたし、事実としての大麻取締法違反、アル中での入院など、クスリ漬けの一生涯だった。間食のグリコにも罪悪感を覚える万年シラフの僕にはとうてい及びがたいメンタルの極北である。

中島らもは、読んだその場では面白いが、あとになって残るものがない。飯どき、トイレ、枕上など、場所を選ばず、開いたページの一編、半ページを読む楽しみはあるが、それ以上になにか、彼が言うところの生きる力になる感動など、ひとつもありはしない。彼が大阪の小さな広告屋で、商品のPR、紙面の広告案、TVコマーシャルのプランを考えていたことを思うと興味深い。ようは、CM的なのである。短くて易しくて快くて楽しいが、さっき流れたCMを思い出せと言われても無理なように、記憶に残らない。繰り返し接触するうちに、好感度と知名度が醸成されて、ついつい中島らもという商品を買ってしまうのである。彼が文学賞とほとんど無縁だったのは、彼の文章が文学的というよりは商業的だったからではないか、と思う。

金のために書くのが文学からもっとも遠い思考なら、本を出したり、雑誌に連載を持つことで食っている作家は、彼らが偉大であるほど、売れっ子であるほど、文学的精神から遠のき、反対に自分の書き物が1円1PVにもならない弱小ブロガーのほうに、ノーベル賞級の文学感が認められるはずなのに、実際はそうじゃない。赤貧は強い胃腸を作るが、広い頭までもたらしはしない。大文学者と呼ばれる連中は、たいてい食うに困らない地主の息子、官僚家のお坊ちゃん、院長社長のご令息、意気地のなさから中退しても、それまでまことに結構な教育を受けて育った者が多く、文芸、つまり文字を使った思想のやりとりは、社会における高階層・角部屋・南向きに受け継がれてきた高級文化遺産であることがよく解る。たまに不良の仕事がもてはやされるのは、文化的背景や教育を欠いた振るまい、発想、発言が、破格的だからであるし、結局それを評価して芸術に位置づけるのは、正統な学歴と業績を積んできた先生と呼ばれる人たちである。文学文学と書いてきたこの文学の意味はさっぱり分からないが(めんつゆでないのは確かだ)、文学的な感動というのは、個人ではなく社会の感動である 。みんながどう思うか、偉い人たちがどう感じるかをまねして感じる、追従といい子ちゃんの出世学だ。巨大アンテナにつながる感度なきブリロボックスだ。大口を開けたマンタに隠れる盲目のアカンタレだ。ポテトサラダのアクトビラペヤングソース焼きそばだ。ポリエステルのナポリタンだ。サイコロのサイコロステーキの6の目だ。

駅のベンチに石像化した老人を見る。コンビニ前の無料WiFiで生き返ったようにゲームする青年と出会う。いそいそと溜め池へ出勤する釣り人とすれ違う。フードコートでメロンをパクつくご婦人にお目にかかる。ほかにすることがないのか、と時間の豊富をうらやみ、趣味の貧困をわらう。文章においても、もう書くことがないんだろうなあ、と思わせることが、好きで読んでいる開高健のやっつけエッセイに多い。老練作家のじゅくじゅくに熟れたレトリックだけが跳梁する内容空疎な文章で、読むのに気力を使うが、脳裡の遺物は少なく、揃っても白一面のジグソーを解かされているような気分で、ことばのピースがガチッとはまる生理的な快感だけが目と指を搾取していく。文学的興味のうすい作品であるが、そういうものに技の凝縮、というか技巧の結晶そのもの、きゅうりの松の飾り切りがきゅうりなしで出てくるような感動がある。書くことがなくても、書き方だけで読ませられるんだ、と文芸の芸の、ただれた芸に参ってしまう。表現の型だけがある。僕はどんなに深刻なメッセージより、この型そのものに生命力の痺れを覚える。表現世界の不思議は表現できない。

このエントリーは無意味だ。形式だけで一記事押し切ってやろうと書き出したのだ。僕には才能がある。言うのを先延ばしにしてもいいが、それは先延ばしの才能である。夏休みの宿題から検尿ぎょう虫歯科検診、浪人留年の周回遅れから今も就職と自立の課題を先延ばしにして、問題は膨らむ一方だ。深刻化する事態に、腕組みの等閑を決め込むあたり、なにをやっても不首尾に終わる凡人の証拠を見るが、これが凡庸ブロガーの勝機である。最後まで黒幕が知れないサスペンスのように、結局意味がわからない『20世紀少年』のように、沈まないタイタニックのように、ずるずると思わせぶりな態度で、なにか起こるのでは、と期待させるだけの書き方ができるからだ。僕が今日用意したのは、なにになにで書くか問題である。記事の下書きを、どのノートに、どんなペンで書くか。B5のルーズリーフかA6のコンパクトノートか、ゲルインキかシャーペンか鉛筆か、いろいろ試して決めかねて、結局ああでもないこうでもないと筆記具をとっかえひっかえ、今はサッポロビールノベルティでもらったモレスキンのパチモンみたいな薄手のノートに、10年前の入試で使ったマークシート用の三菱鉛筆を、ステッドラーの色鉛筆の削り機でちびちび削りながら書いている。この組み合わせが正解だと思わない。ひと月後にはデジタル派になって、タイピング命と言うかもしれない。ただ、こうした迷いを通じて、なにに限らず探求というのは答えを見つけることではなく、あれこれ探してぐるぐるまわる回転運動そのものが僕の答えなのだと、そんなことを思ったのであった。