おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

スーパーのバイトやめるから総括する

 

スーパーの早朝品出しバイトをやめる。午前5-9時、時給1040円の仕事だった。店舗の改装にあわせて店が閉まる間、他店への応援では勤務地が遠くなるので、家の近所でバイトするか、ちゃんと就職するか(できるのか)にしようと思う。

感覚は退部だ。2年半勤めた。新入生が受験生になる年である。卓球-PC-ソフトテニス-アメフト-ダンス-自動車。小学校から大学までいろんなクラブに入ったが、一度も活動を満了したことがない。趣味の混乱、熱意の拡散をみれば、僕の飽き性は解ってもらえると思う。大卒後にフラフラしていた時期、年賀状を刷る短期バイトをした。人手不足を補うために支社から太った四十絡みの男性社員がやってきて、スーツに不一致のエプロン姿で、店頭業務にあたっていたとき、契約期限間近の僕に、
「ここを続ける気はないんですか。せっかく仕事に慣れてきたのに」と訊くので、
「正直もう飽きましたね」と言うと、男が絶句してしまった。斜陽の印刷業界で、なんとかこの会社で定年まで勤めあげようと腹を括った男の前で、飽きたから抜けるなどという軽口はうかつだった。男の顔は暗く垂れ下がり、鼻に面会謝絶の札がかかる。ものは正直に言わないほうがよい、という社交の第一法則を学んだのはこの時である。

初めて長く続いたバイトだ。仕事が合っていたのだと思いたくない。冷凍パスタを空棚に補充するのが、豚の蒲焼きを平台に並べるのが、自分の体力・技能・適性をフルに生かした天職だと(実際にはそうであっても)信じたくない。点滅信号の中央道路をノンストレスで駆け抜ける午前4時のバイク通勤が、他では得がたい移動法だと思いたくはない。1時間ぼうっとビスケットの宣伝文を読んだり、酒瓶のラベルを眺めたりするだけで金がもらえる仕事はここだけだと決めつけたくはない。みな人物温厚で、ここ以上に人間関係が良いところはないと考えたくない。「アホみたいな仕事やで。ほかにやることなかったら、やめずに続けとったらええねん。寂しいやんけ」と言う、六十恰好の歴戦の労働者のオヤジのことばを、うのみにしたくない。やめたくないと、口にしたくない。

 

バイトで得た報酬は3つある。

 

第1に、経験による直観である。反復による熟達である。悲しいことに、曜日・日付によって微妙に増減する搬入トラックとその荷物量を、正確に予見することができるようになった。安売りの週末明けなら3台やってくるとか、火曜なら冷凍カーゴが食品6台アイス2台降りるだろうとか、水曜はトラックが3台来ても最終便の積み荷は半分だろうという勘である。この勘がどの仕事で生きるのだろうか。会計士が数字を扱い、企業の監査に熟練していくように、僕も毎日ダンボールに入った片栗粉に触れて、穀粉コーナーの陳列補充に精通していく。どんな低級な職にも、技能の向上というものはある。僕が見るたびに悲しくなるのが、町工場の神業職人だとか凄腕パートさんがTVに出てきて、何十年と毎日繰り返してきた単純作業を、これが私の日常ですから、という澄まし顔で、レポーターの驚きにも得意の無表情でいる、あの、ありがちな番組のシーンである。サビと鉄粉にまみれたボロ小屋で、紐かけの老眼鏡越しに何に使うかもわからない金属片をミリ単位以下の精度で研磨するジジイ。事業主の生活臭にまみれた個人宅兼事業所で、何を入れるかしれない紙箱を、オレンジ色の指サックをした手で魔術のように組み上げるババア。機械のような速さと正確さに、人ってこうなれるんだ、と人間の可能性に感激したすぐ後に、まさにその機械じみたいびつな技能の先鋭化に、人ってこうなってしまうんだ、と、人間の成れの果てをみて寂しくなる。肉パックをプラケースから取り出して手早く3段重ねにして配列するとき、自分に染みついたこの融通のきかない技術に、そしてその背後で失われるなにかに、悲しい怒りを覚える。

 

第2の成果は、笑うことなかれ、早寝早起きの習慣である。面接で「朝5時の仕事ですが、起きれますか? 来れますか?」と問われ、根拠もなく「もちろんです」と答えた。ほんとうは朝5時に寝て昼に目覚める逆転生活中で、午後1時の面接すら到着に苦心したのだ。1週間後の初出勤にむけて、毎日1時間ずつ早く寝れば、早朝バイトにも耐えうるリズムを回復するだろう、と踏んだのである。それにこの会社に限っては、多少の遅刻ならお咎めなしだという展望が開けていた。面接にかたちだけ参加した上役が、ここを先途と、書類を読むふりをしてその場でこっくりこっくり船を漕ぎはじめたからである。面接は汗と鼓動の緊迫ではなく、寝汗と寝息のおやすみであった。

2年半で遅刻が2回。1度はアラームの不備、2度目は2度寝である。自分でも適応できないかに見えた朝型生活は、意外にも暇が解決してくれた。僕には日暮れの外出先も、夜の遊び相手も、黄昏どきに打ちこむ趣味もない。人間本性が暗い夜道に開花して、酒とからあげと中性脂肪の蓄積が、人格に油断と寛恕の円熟味を与えるなら、僕は日没後の開成とはまったく関わりのないシラけた人間だ。バナナは黒いほうが甘くてうまい。僕のバナナは青くて固い。これは下ネタである。早く起きるために、早く寝ればいいと気づいたときは、自分の着眼を誇らしく思ったものだ。早寝早起きという字を見れば、その語順に真理が示されている。

二度寝の予防には、とにかく上体を起こすこと。寝ながらのスマホいじりは夢の箸先である。目覚ましの解除がてら、メール、LINE、ニュース閲覧のルーティンをやっていると、途中でかならず黒蜜にねっとり絡めとられて、気絶したように寝入ってしまう。ブルーライト睡眠障害を起こすなんて嘘である。南極の、氷と空の見境いない青を生きるペンギンたちは、睡眠不足に悩んでいるのか、という話だ。海に飛ぶイワシの群れは、ドライアイに苦しんでいるか、という話だ。そもそもアラームを段階的に5分ずつ10分ずつ仕込むという発想がすでに寝相ならぬ起相として汚いわけで、いやしくも死人と違って日に一度目を覚ます者ならば、潔く1回で飛び起きるべし、と三年寝太郎も言っている。よく鉄道博物館の取材で、駅員を仮眠から確実に起こす方法として、エアポンプで膨らむ特製シーツが出てくる。ダイヤの乱れは心の乱れと教育された鉄道員にとって1分1秒の寝坊は人格の破綻である。二度寝対策に僕が採用するのも、上体を起こせば目が覚めるという一見バカみたいな原理を利用したものだ。ふつうの人は、目が覚めてから体を起こすものと思っている。吊り橋効果はドキドキするから恋が芽生えるのであって、その逆ではない。耳たぶを触るからヤケドするのだし、歯が痛むからチョコを食べるのだ。洗うから汚れるのであって、その逆ではない。射精するから気持ちいいのであって、その逆では断じてない。

 

3つ目の成果は、プロの心構えである。人に口があるように、スーパーには荷受けがある。パン屋、魚屋、玉子屋、印刷屋、マット屋、クリーニング屋、わからず屋、はにかみ屋、皮肉屋などが3台の駐車スペースをめぐって、くんずほぐれつの争奪戦を演じるのが朝の入荷だ。人に肛門があるように、スーパーにも荷受けがある。ダンボールやビニール、生鮮食品の廃棄は、それ専用のカーゴに積まれて、ゴミ収集車が横づけする別出口へと向かうが、パン・肉・豆腐・惣菜など傷みやすい食品を入れたプラケースは「通い箱」と言って、製造-運送-小売業者間を行ったり来たりしている。この商品保護のための媒体は、強固な構造と廉価、壊れてもすぐに無限のコピーが入れ替わる無個性から、無下に手荒に扱われ、場合によっては足蹴にもされる。現場に不可欠の功労者でありながら、最下等の地位に甘んじているボロボロの空箱に同情する当の僕が、遺伝子の空容器、染色体間の通い箱のひとつに過ぎないと思う、そんな生物学的ペシミスチックはバイト中の暇つぶしに置いといて、空のプラケースは、人に消化物の逆流があるように、荷受けに山のように、豚バラ肉の数だけ、きざみあげ、ジェノバ風サラダの数だけ、数百という単位で返ってくるわけだ。それを捌くのが、荷受け管理人の仕事である。

U字の荷台車と、自販機くらいの大きさのカゴ台車のうえに、手が届かぬほどうずたかく積まれた空容器、それもヨーグルト、豆腐、パン、惣菜のそれぞれの製造業者が採用する色とりどり型まちまちの入れ物が、ごちゃまぜに混載されたプラスチックのアラベスクを、謎解きのように、ときにはダルマ落としのように、引き抜いては重ね整理し、出してはまとめて積み上げる。この途方もない単純作業を引き受けるのが、荷受け管理人である。この業務は彼らの副事業であり、本業はしっちゃかめっちゃかやってくる搬入業者の対応と伝票整理である。店内はお客さま用の冷暖房にわれわれ従業員もあずかれるが、荷受け場はちょうど内外の境界に位置し、夏は日差しこそ免れるものの熱気湿気をもろに受け、冬は零下の寒風が吹きすさび吐息が白む環境にある。そこで例の、賽の河原で石を積むような単調と、石の風化を待つような永劫と闘うのである。担当者は、やもめ感バリバリの中年男性社員ひとりと、なにわのおばちゃん感バキバキのパートふたり。シフトにより1〜3人で勤務する。

僕が尊敬するのはこの男だ。大人しくて、のっそりして、オシャレといえば白みがかった頭髪が肩に着いたら散髪するだけの最低限度の身づくろい、仕事着のポロシャツは洗わずロッカーに仕舞って着通しなのか、水色の布が背中だけ茶色くシミになっている。40代では老けすぎで、50代では若すぎる。ふっくらした風船の顔に泥の跳ねたような切れ長の目、オタフクソースのトレードマークが、寡黙な独身男に乗り移った雰囲気である。男とはこれまで二言三言、仕事上の会話をした程度だ。ぶっきらぼうで、愛想もクソもない。学生時代は、休み時間に誰とも話さず座っていただろう坊ちゃん刈りの姿が目に浮かぶ。この男の仕事が神聖なのである。明鏡止水の禅味なのである。

誰だって1人で処理しきれない圧倒的な仕事量を押しつけられると不機嫌になる。やけになる。うっちゃらかしになる。それが人間心理の当然で、パートのおばちゃん達は、いろんな空箱を混載して持ってきた店員を叱って分別整理をするよう促したり、グリーン・グレーの台車を色別にわけて定位置に並べるよう「そうしたらアタシらが楽やから。大変やねん」と人情と合理性に訴えたり、何も言わないまでも、自分は不当に水増しされたつらい仕事をしているんだと示さんばかりに、大仰に物音を立て、芝居じみた大げさな振る舞いで場を圧倒する。近づけば文句を言われるか、仕事を振られるかするというので、他部門の人間としばしば衝突が起こり、誰も荷受けに寄りつかない。

ところが、その男だけは、どんなに空箱が溜まろうが、ぐちゃぐちゃの空容器を押しつけられようが、空台車の怒涛がやって来ようが、空カゴの連隊が地平線に黒壁となって立ちはだかろうが、銀色の保冷台車が氷河の一列をなして押し寄せてこようが、眉ひとつ動かさず、文句ひとつ口に出さず態度にも示さず、しぶとく、ひたむきに、のっそりと、1台ずつ1箱ずつ決まった場所へ決まった置き方で沈めていく。動きはまるでシャキッとせず、テキパキという擬態語にはほど遠いカタツムリの横断で、こんなスピードじゃ追いつかないんじゃ? と心配になって見に行くと、きれいさっぱり片付いている。連休に特売日が重なる忙しい日も、つねに一定のペースで、つねに所定のやり方で、多いなヤだな、暑くてツラいな寒くてシンドイな、眠たいなハラ減ったな、という感情にも左右されず、水の柔軟と清らかさで仕事を全うする。それでいて覇気迫力を放つわけでもなく、ゼロオーラで飄然と突っ立っている。テトリスで言うと、あと数段でゲームオーバーという場面が続く朝の荷受けで、脱力したままでいる中年男の不動心に、僕はプロを見た。山積みの問題をいちいち深刻と思わず、1個ずつ片付けていく無関心の進行みたいなものを、単純労働の精神として、何より生きるヒントとして学びとったのである。

 

青春礼賛風の絵柄、画づくりのアニメを使った、学生向け求人サイトのCMが流れている。バイトはときにツラいかもしれない、しんどいかもしれない、でもその頑張りが君の可能性を広げてくれる貴重な体験になるんだ、という前向きなメッセージを含んでいる。僕は1人の時給労働者として、バイトをバカにしたような経済的自由人の発言には同意しかねるが、同時にバイトが人格と精神の地平にたいして深い震源と広いマグニチュードを持つ経験になるとも思わない。その限界は、業務内容と権限の限定からくると言うよりは、もともと限定ある人たちが集まってきたバイト・パートの働き方、働き手の集団性に由来する。従順、諦念、無言、無思考、無感動、不満、鬱屈、空元気。現場で課される非創造的な仕事にたいする人間の反応パターンが心電図の規則正しさで読み取れる。これをバイトにおける経験と呼ぶのである。井中の蛙は、世の中にはいろんな人がいるものだ、と海の広さに驚いたあと、その海の空漠たる単調さに絶句する。

先の進路は、60代の後輩おじさんが言う「フラフラするのが一番あかんのやで」の一番あかんことになりそうである。フラフラで飯が食えるのは、南国の踊り子だけと言うから、僕はこの夏、ヤシの実でブラジャーをつくるバイトを始めようと思っている。