おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

あまい生活


小さな成果を積み立てる。目標にむかって時間・体力を振りわける。強い信念で自分を鼓舞する。簡単にいえば、テスト勉強みたいなものごとの追求が、日常からすっぽり抜け落ちて、日に日にバカになる気がする。

このままじゃダメだ。漠然とあせる、そのあせりの正体を見極めるはたらきをするでなし、目標があるわけでもなし、ゆえに努力もなしのろくでなし。会社で事業のある人、学校で学業のある人は、なんやかや神経をとがらせる自然の競争中にあるわけで、僕なんかはバイトの日だけ寝床を抜け出して日銭を稼ぐ夢なき無気力人、飼育員の給餌によって、闘いを免除された動物園のトラのように、あくびと横寝を世間さまに見てもらうことで、おぜぜをいただく恰好である。

でも、これでいいのだ。幸田露伴に『努力論』という1940年代の啓発書がある。露伴が言うには、努力は努力と思った時点で終わりだ。僕はこの主張に同意する。僕がもっとも嫌いなのは、見えない努力というやつだ。バイトで肉の品出しをするとき、先輩のおじさんに棚の奥まで詰められるだけ詰めろと言われた。指示どおり苦心して並べた肉は翌日、最奥の一列がまるまる手つかずで残っていた。そりゃそうだ。客から見えない死角だ。床にひざをついて肩まで腕を突っ込まないと取れない位置だ。以来、奥まで並べるのをやめた。でも注意は受けない。そのおじさんも見えていないからである。


不登校児の遊び相手になるボランティアをしていた時、ふだんジュースばかり飲んでいる小学生がしばしばコンビニでアイスコーヒーを頼んでいた。ませたガキやな、わしが小さい頃はコーヒーなんか苦くて苦くてそら飲まれへんかったで、と思うが、彼らはコーヒーが二層に分かれるくらいガムシロップを入れたものをうまいうまいと喜んで飲んでいた。

シロップがコーヒーの良さを殺す。ブラック無糖を信条に生きてきたが、ロッテリアでアイスコーヒーを頼むと、これが苦痛なほど苦い。苦いという字が苦しいと同型である理由を悟らせる舌の拷問であった。シロップに手が出る。フレッシュに指が動く。するとどうだろう。地獄の血池が、クマさんの暮らすチョコレートランドの空に変わったではないか。甘いコーヒーは認めない。コーヒー飲料乳飲料の製品はコーヒーと呼ばせない、と息巻いていたが、いざ口をつけると、うまみに身体が浮いた。頭のなかの日本列島で、さくら前線が北に走ったような、桃色の散開があった。強烈な快感覚である。さっきまでちびちび飲んでいたコーヒーは、気付くと底をついていた。


その次の日であったろうか。UCC、丸福珈琲、KEY COFFEEの紙パックを補充していたとき、たまたま関連商品のガムシロップを並べることがあった。そうだこいつだ。こいつの正体は何なんだ、と裏を見たら、

原材料名 果糖ぶどう糖液糖

と書いてあるだけだった。これだ。これが幸せの正体だったのだ。どおりでジュース好きの子どもがコーヒーの底のこいつをずるずる吸って、目をトロンとさせたわけだ。甘みの親玉だ。うまみの源泉かけ流しだ。僕は、自分が知らず知らず取引していた品物が、高純度の麻薬であることをうかつにも知ってしまった中毒者の気分だった。こんなものを平然と買って帰れる法制をありがたく思った。だから清の墓は小日向の養源寺にあるし、僕は毎日の底にシロップのどろどろがある。人生もゲロ甘になってええんやで。