おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

毎日やることがあるのは幸せだ


バイトしながら、働く彼女を支える半ヒモ半主夫みたいな暮らしで、寝転がって本を読んだり、横たわってテレビを見るだけじゃあ世帯主さまに申し訳が立たねえ。てんで、家の雑用を一挙にこのおらが、引き受けようって話になったんだ。役所の手続きからタイムセール品の買い出し、部屋の掃除、片づけ、洗濯、洗いもの、植木の水やり障子に目あり、ゴミ出しゴミ処理あたま出せ、おまえのめだまはどこにある。

床はホウキで掃く。掃除機の音は、家のなかで起こりうる最悪の騒音である。毎夜高校生5人が雑魚寝する溜まり場の家で、その家のお母さんが朝から目覚まし代わりに、早く帰れの合図で、あの耳障りなモーター音を使った。やすらいだ湖面を波のうねりに狂わせる、音塊の投石であった。女の子が憧れの先輩と海辺の散歩で雰囲気ができる。向き合い、顔を近づけ、目をつぶるとき、そばでキーンと掃除機の強が発動したならば。ズガーズガーとヘッドが床を掻く音がしたならば。100年の恋も脱臭紙パックに吸いとられてしまう。

雑用に奔走していると、むなしい問いの起るひまがない。勝手に片づく部屋で、勝手に出てくる食事を食らい、勝手に満ちる浴槽へ飛びこみ、勝手に洗われるタオルを使い、汚れた食器に目もくれず、開けっ放しのドアを無視して眠る実家より、「人生とは何ぞや」「幸福はいかなる条件によって成るか」「私の存在意義とは」という問いにとらわらることがなくなった。奴隷を使うギリシア貴族に哲人が出たのは、彼らが暇で、そんなことばっかり考えていたからだ、という説に妙に納得できる。彼女と暮らし始めてまず感じたことは「ああ何も考えずに生きていけるんだ」という安堵であった。詩人・中島可一郎が、同じく詩人の金子光晴を評して、


できれば、無為徒食で一生を終わるのが心底からののぞみともいえる。食いつめものでも露をしのぐほどの栖家と、飢をしのぐに足りる食料があれば、なんとか気楽に命をつないでいけるものだと、考えてきた。くりかえしていうが、かれの生涯の望みは、怠けて一生をくらすことの贅沢をつらぬくことである。
中島可一郎編『金子光晴詩集』白凰社 p.181


と言うとき、そのユルさに同調する。遺産を食いつぶしながら、詩を書いて露命をつなぐ、という型にはまった文学者の暮らしをやるまでもなく、食うために働き、働くために食うの活動に埋没しているだけで、まずまず幸せにやっていける。哲学者とその奴隷では、どちらが幸せであったか、というとはっきりしない。「満足な豚より、不満足なソクラテスであるほうがよい」と言う。口と手による即物的な快楽より、頭のなかの観念的な快楽のほうがより高級であるという主張だが、お弁当にするならソクラテスの生姜焼きより、豚の味噌炒めのほうが優位であることは判りきっている。凍ったソクラテスの頭部は嬉しくないが、彼女が冷凍の豚バラ肉で味のない野菜炒めをつくるとき、僕は手も口も頭も、幸せなのである。