おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

買った本!『さみしさサヨナラ会議』『大乗仏典』

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小池龍之介宮崎哲弥『さみしさサヨナラ会議』角川文庫
長尾雅人・桜部建訳『大乗仏典9 宝積部経典』中央公論社

以上、2冊を買いました。

 

 

・『さみしさサヨナラ会議』

 

実家を出ることになりましたので、30年間ずっと一緒にいた両親のもとを離れる。そのさみしさをサヨナラするための本、というわけではなく、ゆまコロさんのブログ記事「小池龍之介・宮崎哲弥『さみしさサヨナラ会議』 - ニジタツ読書」を見て、読みたいと思ったのでした。

僕が惹かれたのは、引用されていた「(宮崎)私は人類最後の一人になっても、本と食い物があればそこそこ楽しく生きていけるという自負を持っている人非人なので(笑)」という箇所。

いやー宮崎哲弥が言うと、調子にのった発言じゃなくて、マジっぽいからすごいよねw もっとこの人の「人非人」的な発想が知りたいと思った。

 

ハッとした箇所、

(小池)俗に言う「モテる人」というのは、こうして他人に、居場所を与えてあげられる人なんじゃないかと思うのです。反対に、「モテたい」と思ってもがいている人は、自分の欠乏感をむき出しにして他人にもとめていますから、それはむしろ他人の居場所を危うくする…。結果としてかえって敬遠されたりもしますよね。p.54

仏教のありたがい話を聞きにいったのに、モテの極意を教えてもらうことになるとは。

 

ところどころに挿入される写真。

 

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セックスの話で、濡れた花びら。
これはいいとしても、


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これは一体なんだ…?
布?ふくろ? それが何に掛かっている?

結局、われわれの世界というのは、もっともらしい説明、飲み込みやすい解釈が与えられているだけで、ほんとうはこの布の引っかかりみたいなものですよ、という深いメッセージが込められた1枚ですね(?)

 

 

 

・大乗仏典9 宝積部経典

 

これを買ったのは、

 

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写真左の『仏教論争』で引用されていたから。

ちなみにこの本は、仏教教義の核心である「縁起」のとらえ方について、学者たちの主張を比較対照しつつ、批判的考察を加えつつ、「縁起」とは何なのかを多角的に把握していく、なんかまじの論文っぽい本です。

で、僕が惹かれたのは、この引用箇所、

空性という観念(空見)を足場にして思い上がっている者よりは、スメール山ほどにも大きな個我の観念(我見)に依拠している者のほうが、まだしもましである。それはなぜか。個我の観念を信奉する者を(自由な境地に)出離させるのが空性であるのに、その空性の観念に固執するならば、彼は何によって出離することができようか。

空というのは、お前が「ある」と思っている何ものにも、それ自体で成立している実体はない、すべてのものは何かと何かの関わり合いのなかで出来(しゅったい)している、どこまでも仮相的な事実に過ぎない、と見抜くときの仏教的な必殺技の名前です。みうらじゅん氏は、駐車場の「空あり」の看板によって、ないことがある、と思ってしまうわれわれの不思議な迷妄を語っておられますね。

そんな生半可な仏教知識で「なにしても空なんだから、働くのいやだぜ」と騒いでいる奴より、なにも知らない我執まみれの人間のほうがかえって偉いですよ、と諭すありがたいお話です。

 

難しい話じゃなくて、いいこと書いてます。
たとえば、心に関する場面、

もし過去の心であるならば、それはすでに滅してしまっている。未来の心であるならば、それはまだ到来していない。もしまた現在の心であるならば、それは(しばしも)とどまることがない。…心は内にもなく外にもなく、この両者以外のところにも存在しない。心は形をもたないもの、見られないもの、抵抗のないもの、あらわれ出ないもの、認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。

 

まだちょっと続きます、

カーシヤパよ、心は幻影のようなものである。真実在でないものを分別し、さまざまなあり方をとって生じる。カーシヤパよ、心は風に似ている。遠く行き、とらえられず、姿もなく動く。カーシヤパよ、心は川の流れに似ている。停止することなく、生じるやいなやすぐ消滅する。…

このあともたとえ芸は延々と続きます。

悩める現代人には効くお話です。
カーシヤパって誰ですか。