おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

かたむきみちおの進路相談室

 

人はわが人生で手一杯なのに、他人の人生に興味を覚える。情熱大陸、ザ・ノンフィクション、プロフェッショナルで破格の成功者から破滅した一般人まで、その暮らしぶりを羨望と軽蔑のまなざしで見つめる。われわれが見たいのは、彼らがトイレットペーパーを交換する実人生の瞬間ではなく、美しく編集された物語のほうだ。テレビ前で、ハンディキャップのある子どもたちの奮闘記に涙した人間が、駅前では施設主催のパン売り場の前を素通りする。「あなたの自分史を本にしませんか」と誘う自費出版の新聞広告を見るたびに、書店にずらっと並んだ、どれも変わり映えしないうす切りの背表紙を想像し、吐き気がするのは僕だけだろうか。いや、これから話すのも、そんなつまらない本の一節に過ぎない――

と、斜に構えた邦画のような始まりかたをして今さら後悔している。これは何だ、かたむきみちお職歴なし29歳、高卒公務員とパート従業員の共働きの家のひとりっ子、親の金と愛をひとり占めしてぬくぬくと育ち、自立より寄生、粉より座薬、源氏パイより平家パイを好んで生きてきたダメ男が、ついにハローワークへと赴き、就労の機会をうかがうようになったという報告と(いま済んだ)、その内面で、稼ぎたい/寝ていたい、黒ギャルと遊びたい/怖い、有名YouTuberになりたい/小学生の相手はいやだ、と思う葛藤を丁寧に描きだす(いま終わった)記事である。にしても、オダギリジョー山田孝之二階堂ふみリリー・フランキーを混ぜたような配役で、『小田原アーティチョーク』みたいな和語+洋語の意味不明なタイトルがついた、雰囲気系の邦画は何がいいんだろうか。ものうげな若者が、恋愛がらみの事件に巻き込まれつつ、人生とは穴のあいた靴下だ、生きるとはシマウマの縞を消して歩くようなものだ、とか何とか言いながら、人々との対立、和解をへて、本当の私なるものを見つけて、ラストは現実の冷酷さが垣間見えるビターな味つけ、文系好みの女歌手のバラードがかかってエンドロールが上がる、そんな映画だろう? 観たことないから分からないし、観る気もないが、定期的にああいうものが生まれること(つまり一定数の観客がいて、採算のめどが立つこと)のほうが興味深い。嘘みたいなイケメンと美女が、ニセの青春を送る映像を見て、何が楽しいんだ? こちとらブサメンと醜女が(ごめん彼女、ここは対比法のレトリック上しかたのないことなんだ。でも鏡を見てごらん。君は二階堂ふみじゃないだろう?)、遅れた青春24時の真っ最中である。

 

そう、女だ。

女といえば作家・開高健が食道癌で死ぬ間際に書きあげた絶筆『珠玉』、その最後の一文、

(女だった……)

茂木健一郎が、開高健を物語る最高の辞世の一句だと絶賛していた。ファンの僕も、この本を少なくとも10回は読んでいるが、それは3編中、前2編だけで、本当に彼が最後に書いた話は3回も読まない。だってあれ、中年作家が若いおネエちゃんとラブホテル行ったり、温泉行って、おしっこかけてもらう話だもん。

その壮麗な体がこちらの体をまたぎ、しゃがみこんだかと思うと、ひとつまみの叢林からおしっこがとびだした。はじめはおずおずと洩れていたのがすぐに大胆になり、とまらなくなり、阿佐緒は白い咽頭を反らせて哄笑した。
「立って、立って」
「たっぷりとございますわヨ」
「まんべんなくふりかけてくれ」
「溺死なさらないよう」
(『一滴の光』文春文庫 p.187)

何だよこれ。こんなものが最後の作品でいいのかよ。体力が衰えて、チンポの勃たなくなった老作家が、妄想を振りしぼり、肥えた筆力で願望を成就させた、気持ち悪い小説じゃないか。この短編『一滴の光』は、しごいた筆の先からやっと垂れた、一滴の精子だ。自分が死ぬ前の一文はせめて格好よくありたい。

茂木先生なら、
「おう、脳……」
僕の場合は、
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になるだろう。

 

女だった。こんな僕にも(と言うと卑下しながら自慢するようだが、社会はまことにうまくできている。捨てる神ありゃ拾う神もある。というわけで)彼女がいる。同じ29歳だが、男女でその感触は異なる。

「一回ちょっと結婚してって言ってよ」
「何でやねん。言うときになったら言うから。フリーターの分際で、そんなことも言ってられへんやろ」
「だったら早く就職しなよ」
「いや、そもそも俺は労働というものに対して」
「ちゃんと将来のこと考えてるの?」
「うっ…」
「親だっていつまでも元気なわけじゃないんだし」
「ままっ…」
「20代のうちにどうにかしようよ」
「そ、そうだな」

で、働くのである。屁をしてでも一生食える資産家の息子なら、無為徒食を決め込むのだが、そうも言っていられない。いや、30歳近くになっても家から追いださずに置いてくれたことが、すでに稀有の幸運なのだ。僕は彼女に会うまで、ずっと一人で生きていくと思っていた。親の遺産を食いつぶしながら、ずっと一人で日銭を稼ぎ、ずっと一人でレトルトカレーをチン飯にそそぎ、死んでいくものと思っていた。いまでも、どこかでそのほうが気楽だと思うことがある。岐路である。一方は世間的な幸福にいたる道だ。まずまず険しいが、二人ならやっていける。仕事に子育てに忙殺されるうちに、めでたく老後を迎え、やすらかに死ねる。もう一方は脱世間的な幸福を望む道だ。一人で気の向くままに生きていられる。哲学的観想にふける時間を持てる一方で、やはりどこかで成功者を妬み、家族を憎み、家族の犬まで呪いながら、畳の上に死汁を吸わせる末期をたどる。労働者の男ひとり暮らしは悲壮なものだ。そこには静かなる破滅と永遠なる停滞があり、僕好みのにおいがする。もちろん不幸な結婚もあるし、幸せな孤独もある。指輪に彫った文字が、当初のeternal love(永遠の愛)から、いつしかnecessary evil(必要悪)に変わった夫婦などごまんといる。いや、真の孤独とは単なる孤立のうちにはなく、共同体のなかにいてなお孤立した状況に現れる。一人では寂しくないのだ。集団にいてのけ者にされるから寂しいのだ。その意味では、婚後の孤独を心配する必要はないかもしれない。だって世のお父さんはみんな、陸の孤島の生活者だろう?

「ちゃんと働いたら?」問題は、結局「いかに生活費を稼ぐか」という問題に還元される。ヤクザの女は、夫が飲食店をゆすったり、シャブをさばいたり、盗難車を輸出して稼いでも、毎日のコスメとブランドバッグに不自由しなければ、その甲斐性の非合法性については口を出さない。僕には不良の気概もなければ、高値で取引される技能もない、市場で重宝される資格も、もてはやされる人格もない。ラジオもない。車もない。あるのは、健康な図体だけ(いや、それだけで充分である。一体、世の中というのは、才能ある人ほど心身を壊して夭逝し、なんら不在が惜しまれぬ愚者ほど、健全な霊肉を誇るということがある)。地べたを這って生きねばならぬ人間である。そんなことは分かっている。分かっていながら現実を見ずに、夢想の世界で(そう、いま文章を書いている、この空間のことだ)、まるで悩むのが偉いみたいにあれやこれやと理由をつけて戦闘を回避している。稼ぎたいけど働きたくない。そんな矛盾した心性は、容易に現代流行の「好きなことで生きていく」論の幻影に接続していく。

 

ヒロシの『働き方1.9 君も好きなことだけして生きていける』を読むと、そこには、

「発信者になって自分のブランドを作れ」
「遊びを極めたらそれが仕事になる」
「ニッチな市場で好きを追求しよう」

どこかで見た魅惑の文言が並んでいる。

僕からできるアドバイスはこうだ。しがらみから脱する力を蓄え、ただの個となれ。そして、加速せよ。高速で動け。来るべき、個と個が結びつく時代に備えるために「Do it now!」、今すぐやろう。

おなじみの発破で締めくくられる。「今すぐやろう」教はあちこちにはびこっているが、下手なナンパ師でももっと気の利いたことを言うだろう(西野亮廣堀江貴文の『バカとつき合うな』を書店で見るたびに、「だからオメーらの本は読まないんだよ」と思うのは僕だけだろうか。いや、正確には彼らを好きなこと経済界のグールーとして盲信している層とはつき合いたくないという意味でだ。彼らの名前が頻繁に出てくるブログはどれも似たり寄ったりでたいていつまらない。伝統宗教に限らず、信仰に必要なのは、独創より受け売りの才能だということがよくわかる例だ)。

正直いって、僕も好きなことで稼ぎたい。一番は昼寝だ。昼寝のマネタイズは夢間に想像するとして、二番目は文章だ。文章というか、ブログでやっているような、絵を描いたり、喋ったりする、雑種の発信だ。これを金に変えるには、一般市場でも通用するレベルにまで各スキルを高めねばならない。そう思っていたが、

人気のある動画の中には、出ている人がけっして美人やイケメンでもなければ、喋りがうまいわけでもないものがっぱいある。…テレビや雑誌で要求されるようなトークや文才は、ことインターネットの世界では不必要なのではないかとさえ思う。…僕が「職人2.0」の働き方として勧めたいのは、トーク力や文才や容姿なんかを磨くより、好きなことを突き詰めて、そのまま発信することだ。

そうだ結局こんなもの、医術のようにプロ資格があるわけじゃないんだから、どこまでいっても素人の手習いだ。表現の技術と、それを金に変えるビジネスの技術は、別個のものなのである。気付かせてくれてありがとうヒロシ先生。DaiGo?誰それ?時代はHiroShiだろ?(でも先生、見たくなるのは容姿端麗の男女、それもトーク力のある人たちなんだよなあ)

好きなことで生きる論が、ニートに人気なのは、それがラクして稼ぐという論理とダブって見えるからである。実際は逆だ。好きなことに時間と労力をどれだけ投入しても、苦痛を感じないでいられる無神経を強みにして、社畜ならぬ夢畜として生きることなのである。ここにきて、僕の感覚は反転する。だったらもう普通に働いたほうがラクじゃね? と。

これは就職報告でもなければ、Youtuberデビューの決意表明でもない。ただ仕事を探しつつ、働きつつ、ネット上の発信も続けていけたらいいなと思う。だって僕、こういうの好きだから。