おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

男の鏡、女の刀

 

中川家は、オッサンの生態をよく見抜く。たとえばオッサンは第一声が大きい。通りの真ん中で大演説を始めたと思ったら電話である。たとえばオッサンは暇つぶしが下手である。喫茶店で目をつぶって座るだけ。「あれは何しとんねん」「疲れてんねんからそっとしといたれや」「何が疲れることあんねん」とつっこむ彼らも真正のオッサンであり、オッサンがオッサンを笑うところに乙があり、賛がある。

しかしそんなオッサンは実在するのか。お笑い芸人の頭の中にいる空想の人物、盛られたエピソードトークの虚像に過ぎないのではないか。と疑った矢先、千里中央駅のカフェでオッサンを見た。

旅客機の車輪に頭をこすったようなハゲである。別に不潔ではない。不備を覆うところに不潔が生じるのである。木の枯れゆくに任せる心境は、老いらくの泰然自若というより、対人接触の少なさから来る自意識の欠乏のように思われる。男は背広姿の60代で、いやに服が清潔だ。靴が光る。ブリーフケースは紙1枚の薄さである。現役サラリーマンの切迫、悲哀、溌剌がない。オッサンは働いていないのだ。一日家にいると女房が嫌うので、喫茶店を転々としながら日暮れを待っているのだ。長居しても仕事の空き時間だと一目瞭然してもらうための背広である。オッサンは目を閉じ、腕組みで不動の構え。脂の落ちたカサカサの顔を、石膏像のりりしさに保っている。懸念の問題は世界飢饉か国際紛争か、哲学の対象は宇宙存在の意味に至るかと思われたその時、深く長い沈黙を破って、オッサンは電撃に打たれたように背もたれから飛び起き、机上のクロスワードパズルの縦マスにペンの銀光をひらめかせた。これがこの男の仕事だったのである。

 

むかし肌身離さずの貴重品といえば男は刀、女は鏡であった。アイテムは往時の男女観を反映していて面白いが、刀狩りのあった今、男も女も大事は鏡になった。

朝のバイト終わり、開店すぐのショッピングモールのトイレに、高校生の疑問を顔に引きずる20代の男がいた。平日なのに仕事着でない。デートに向く格好でもない。彼一流の街着がパジャマに見えるだけかもしれない。天パ眼鏡の、草食主義の熊男であった。それが洗面台に腹を乗せて、髪をなでつけ、梳かして、よじって、動かし、戻して、合わせて、掻きわけ、流す、出来損ないのケーキをごまかす悪徳パティシエの製菓業にいそしんでいた。クレオパトラの鼻が低ければ…ではないが、前髪が右に1cmずれたら、世界地図が塗り替わると思っているような深刻さである。鏡に夢中の男子に列席したとき、僕はムキになって自分の姿を一瞥もせず退場する。ところが、人がいないと分かれば、鏡の前で、風邪薬のCMを撮るタレントみたいに笑うことがある。容姿の良い人間は出世が早い、給料が良い、幸福度が高い、という。見た目から来る自信がそうさせるらしい。ミレニアルのさぶらいは、刀身に映る自分と闘うのである。

昼下がりの電車で向かいの女にバイブレータの音がした。牛がうなるスマホの振動でなく、芝刈り機の騒音だ。おかっぱの若い女が、手鏡を覗き、眉と前髪に電気シェーバーの刃を当てている。車内の散髪剃毛をけしからんとは思わない。これから会う誰かのために身づくろいする心がけを可愛らしく思う。服はいま買ったばかりの新品だ。モノクロのチェックスカートに黒タイツ。白いボタンコートに斜めがけの四角いブランドバッグ。白い首にベージュのスヌードを巻いている。この日のために用意した組み合わせと、洗濯の段取りを思わせた。しかし女は顔に気をとられる余り、後始末を忘れたようである。白いコートに落とした丸い毛のかたまりをそのまま陰毛のように貼りつけて行ってしまった。

みんなも鏡の見過ぎに毛をつけよう。
これが言い忘れたオッサンの生態、ダジャレである。