おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

オガニー

 

前田裕二『メモの魔力』が書店で1位だった。タコわさを食べたことない人はタコわさを食べたいと思わない。人は経験にないことを望めないので、経験値を高めてやりたいことを見つけよう、と説く箇所がある。未経験を望めないなら、童貞の頭に満つ、やりたいやりたいやりたいという気持ちは何なのか。とメモしたかったが、僕の持ち物ではなかった。 

 

事実と感想の書き分けがメモ術の極意であるらしい。どこかで見た記述だと思ったら、最近読んだ森鴎外ヰタ・セクスアリス』で、森少年(15)がノオトブツクを同じようにとっている。

1科目につきノート2冊を用意して「重要な事」と「参考になると思ふ事」を分けて書く。そういえばクラスでも優秀な奴はそんなことやってたなあと思い出す。それ以外にも手帳が2冊。寝る前の日記と、ささいな備忘録をつけていた。この備忘録は「紺珠(きんじゅ)」と題してある。なでると記憶を呼びさます伝説の宝珠のことだ。 

僕も森少年に感化されて真似してみた。これが「こんじゅ」か「きんじゅ」か迷うので、見るたび辞書を引かねばならず、使いものにならない。 

 

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・・・

 

ヰタ・セクスアリス』はラテン語(Vita Sexualis)で性的生活の意である。性の目覚めを振り返る小説のていをとった自伝だ。当時流行した自然主義文学(島崎藤村田山花袋)の作風にたいして、彼らが描く主人公がいつも性のことばかり考えているさまを見、そんなことあるはずないと笑い、お前らのやってることはこういうことだ、と言わんがために書かれたパロディである。『我輩は猫である』を読んだとき、鴎外は技癢(ぎよう:自分の腕を見せたくてむずむずする)を感じたが、自然主義の「作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった」。つまり、はなから相手にしないのである。自然主義はのちに作家の身辺雑記、萎縮した私小説に堕ちていったが、その末路を予告するように、こまごまとした記憶の羅列(○歳のとき、×歳のとき…)が続くため、ストーリーがなく、通読に堪えない。これも一派をからかうための工夫なのだと疑りたくなる。というのも「遊戯という態度は、鴎外の文学的仕事について廻っているような傾向があり」(中村真一郎文章読本』)、これまた遊びで文豪が、わざとつまらなく書いたと思われもする。

 

 

 

 

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本題はこれである。

 

鴎外14歳、

僕は此頃悪い事を覚えた。これは甚だ書きにくい事だが、これを書かないやうでは、こんな物を書く甲斐がないから書く。西洋の寄宿舎には、青年の生徒にこれをさせない用心に、両手を被布団(きぶとん)の上に出して寝ろといふ規則があつて、舎監が夜見廻るとき、その手に気を付けることになつてゐる。

異国の寄宿舎のイメージは巧い。彼が覚えた「悪い事」が、夜な夜な男子が手を使ってする何かだと、明言しないまでも確実にそれと伝える構成である。官能小説もそうだが、表現は回りくどいほどイヤらしい。

 

問題は、その感想だ。

僕はそれを試みた。併し人に聞いたやうに愉快でない。そして跡で非道く頭痛がする。強いて彼の可笑しな畫(=春画)なんぞを想像して、反復して見た。今度は頭痛ばかりではなくて、動悸がする。僕はそれからめつたにそんな事をしたことはない。

ウソだ。

中2男子である。昨日は何回、が武勇伝の時代である。執筆当時47歳の鴎外は格好つけて記憶を美化しているのではないか。本当は興奮で動悸したんじゃないか。頭痛がするまで運動したんじゃないか。かの「紺珠」に、

昼間に盗み見た男女のさまざまなる体勢で交わる絵を思い出し、つぶった目のうちに人を動かし、また自分が絵の人物になる気持ちで、乱暴に触った。ああ、いつか僕もこの熱鉄鉱を、あの苔むした磯貝の口につける日が来るのだろうか。円に接する直線の角度は、球に内接する円柱の圧力は。この計算のために、僕はこの日3回溜息をついた。

とか書いたんじゃねーの。
これを言わないのが、鴎外の品格とでもいうのか。 

かわりに僕が初めてのそれについて真実を語ろう。
うむ。それは実に不愉快なことであった…