おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

もりもりの鼻糞ほじほじ

 

アメフト部の練習は、高校生の体力には余裕でも、スカウティングは精神の毒だった。対戦校の試合ビデオを見て、相手チームの動きを逐一メモに残す。1人で行うと、11人のプレーヤー全員分つまり同じ1回の場面を11回も見直さねばならず、人が要る。その人を収めるのに部屋が要る。教室を使えたらよいが、門限で学校を追われると、決まって医者の家に流れ込んだ。どんぶり鉢の上の豆腐のような家であった。柵で囲った広い土地を大方庭にした白塗りの2階建てである。チャイムを押したら、玄関から門前までの長いストロークを悠悠と、置き石を飛び飛びにエプロン姿の奥さんがやってきて、僕らを見るなり、
「あら。みんな筋肉モリモリ、モリやね」と言った。
モリは人数に対応しているらしかった。
あとから部員がやってくるたび、
「あらモリモリやね」
「君たちはモリモリモリモリやね」
とモリで数えるのだと思うと、おかしかった。

 

 

 

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で、森鷗外である。

 

 

 

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本題に入るまえに、ちくま文学全集に言いたいことがある。
ボール紙をつかった本は、見た目も手触りも良いが、

 

 

 

 

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これが堅くて読みづらい。

 

 

 

 

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何度か読むうちに線が入ってしまう。

 

 

 

 

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だから切り取ることになる。

 

 

 

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今度は重さが嫌になる。

上質紙のせいで、倍太いペーパーバックより重く、持ち運びに不向きだ。ハードカバーと文庫の欠点を合わせ持つ中途半端な本は、

 

 

 

 

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当然裂かれる。

これが森鷗外全集だったものである。

 

 

 


 

 

f:id:gmor:20190104191726j:image(付した数字は作品発表時の西暦下2ケタ)

いまさら森鷗外を読む気はない。中村真一郎の『文章読本』で、やれ日本の口語文を完成させた偉人だ、考える文章と感じる文章を統一した科学者にして文学者である、あの永井荷風も絶賛、購入者の95%が効果を実感、0.3秒に1個売れてます、と言われると、どれ読んでみるか、となる。作家の全仕事をさらえる手頃な文庫が欲しい、という初心者の動きを予期して編集されたのが、このちくま文学全集だ。

 

というのも、冒頭の『大発見』である。

東大医学部出の陸軍軍医総監、のちに日本が誇る文学者として教科書に載せらるる森鷗外47歳はなにを発見したのだろうか。110年前の本にネタバレもクソもない。言ってしまうと、西洋人が鼻糞をほじることである。

 

鼻糞は白皙人種なると黄色人種なるとを問わず、必然鼻の穴の中に形成せらるべきものである。しかるに日本人がそれをほじって、欧羅巴(ヨーロッパ)人がそれをほじらないのはなぜであるか。

 

留学中の鷗外は、ヨーロッパ人の鼻糞ほじりをついに見なかった。彼らはハンカチを常備して鼻をかむから、鼻中の糞は揉み潰される。

 

揉み潰すなんぞは姑息の手段である。ほじるのラジカルなるにしかない。

 

ほじるの根本的な実行力には及ばない、というのである。陸軍軍医学校長殿が言うのだから間違いない。隙あらば指を採掘に出して、粘着した成果物をまじまじと研究する僕は、ますます鼻ほじりに自信を得た。小さな感動は、鼻をほじるのではなく、鼻糞をほじると表記していることだ。穴を掘っても宝は掘らない。鼻糞をほじると書くのは間違いだと言う人もいるかもしれないが、すでに問題は決着している。われわれは堂々と鼻糞をほじってよいのだ。

 

長年の疑問は、デンマークの劇作家によって解決される。作中人物が鼻糞をほじったのである。鷗外は発見の喜びを妙なテンションで記す。

 

キュリイ夫婦が幾桶かのヨアヒム谿谷の金屑を精錬し尽くして、一ちょぼのラジウムを獲た時の心持はどうであったと思うか。発見者になってみなくては、発見者の心持は知れないであろう。…欧羅巴の白皙人種は鼻糞をほじる。この大発見はもはや何人といえど、抹殺することはできないであろう。

 

われわれはここに何を発見するだろうか。
それは「あれ、森鷗外っておもしれーじゃん」である。

漱石とくらべてマジメで堅苦しい、授業でも『こころ』は読めるが『舞姫』は外語である、これが日本文学の傑作なら文学とはつまらないものの総称なのだと学習したわれわれの誤解を破るために、編集者は冒頭一発目に、執筆年代を無視してまで『大発見』を置き、われわれに鷗外の面白みを発見させたのである。

僕は配置の妙に感動した。

本は鼻糞に始まり、明治期に西洋に触れたまだ少ない文化人としての苦悩――「生まれてから今日まで、自分は何をしているか。…自分のしている事は、役者が舞台へ出てある役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別の何者かが存在していなくてはならないように感ぜられる」『妄想』と現代の啓発書が好んで取り扱いそうな自己使命の探求があったり、歴史に取材した後年の史伝ものが続き、そして最後に憎き宿敵である『舞姫』が代表する最初期の擬古文調ロマン小説に還る。今まで森のあれやこれやを読まされた僕は、筋肉モリモリの身体で、組み伏すことができる。ゲーム開発では、ステージの難易度を調整する技がひとつの職業になっていると聞く。この本のレベルデザインは美しい。

 

***

 

紹介した『大発見』にこんな文章がある。

運命は僕を業室から引きずり出して、いわゆる事務というものを扱う人間にしてしまった。

業室とは研究室のことだ。今でこそ違和感なく読める文章だが、これを読んだ当時の人は驚いた。「それまで日本人は、『運命』というような抽象名詞を主語にした文章は、書くものではない、それは間違いだと信じていた」からである中村真一郎文章読本』)。何気なく使っているものに先人の革命がある。それを知る発見の喜びもある。