おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

だれかの光になること

 

個人宅のイルミネーションも、星やサンタが輝くだけなら、寒空に一杯の燗でもつけたように、こごえた目の奥の神経がぽっと暖かに酔いもするのだが、軒先の植木という植木をスナックの立看板みたいに光らせて、植木鉢まで四角にふちどったかと思うと、建物のブロック塀から窓枠、窓、ベランダの柵、果ては雨どいの鎖にまで電飾をぐるぐる巻きにして、ひとりラスベガスといった光の錯乱に陥っている家を見ると、凄さを通り越して恐ろしくなる。おもての輝きが増すほど、家主の心の闇がいっそう濃い影をつくる。あれはどういう発想なのか。「主人のビジネスがうまくいってるものですから、マア、わずかに余裕ある生活費を電気代に回して、ご近所の皆さんに楽しんでもらおうと思っていますの。マア、このルビーやサファイアの指輪のように、光のおすそわけ、とでも言うのかしらオホホ」と紅茶にビスケットの談話なのだろうか。僕は決して外に漏れないハロゲンヒーターの赤をたよりに足の爪を切っている。

 

花火、イルミ、なにかしらのライトアップ、サバ寿司からガス漏れ警告灯にいたるまで、どうして女子は光りものが好きなのか。彼女に従うまま、各種の光の祭典に足を運ぶなかで、僕が最もげんなりするのが、プロジェクション・マッピングである。

京都の高台寺のときは、寺が客寄せの道具として使うのを笑ったが、今度は大阪中之島の光のルネサンスときた。大阪市中央公会堂は大正の完成、赤レンガと白い石柱を使った、当時の西洋願望をもろに反映したイベントホールで、おしゃれな老舗のチョコケーキを横倒しにしたみたいな建物である。正面に投影される映像を、ここではウォールタペストリーという。カーテンの閉まった窓から、ありもしない明媚な湖のほとりが見えたり、草木の生い茂る森林が現れたり、脈絡なく落ち葉ののった風が吹いたり、雪が舞ったり、滝が落ちたり(プロジェクション・マッピングはなんでも滝を流しがちである)、鳥が飛んだり、教会のベルが鳴ったり、リンゴが回ったり、あろうことか宝石が出てきたりする(光りもののなかで光るものの虚像とは!)。世間で美しいとされる自然と人工物が総出演する安易な美観のイメージビデオである。綺麗で退屈だ。整形で売り出すアイドルと、その人間性の関係にそっくりだ。いや、まだ彼女たちの均整のとれすぎた顔は、美しくなることに囚われた妄執の醜さと、近未来の確実な破滅を予感させるだけ深く美しい。しかしこの映像は、僕たちの頭のなかにある美というグループの品々を、少しずつ手にとって見せるカタログに過ぎない。小鳥のさえずる新緑の森の横から、マグマのように赤く火照った巨大陰茎が、戦艦の威風でずんずんと闖入してきた。それを待ち受ける女陰は、元気な甲虫を裏返しにしたように、放射状の剛毛をあちらこちらにうごめかしている。女の穴へ音もなく吸い込まれる男根が、まるで母の手に抱かれるように、ひらひらした左右の長い袖に包まれる――そんな生々しい性のイメージを映しだしたら、どれだけの絶叫を聞くだろうか。宝石が乱反射するステージへ、すぐそばの河川敷で寝起きするホームレスの、洗わない歯の口で答えるインタビューを流すと、どれだけの不興を買うだろうか。僕は美のカタログに汚のリストをぶつける空想で、しらけたムードを楽しんだ。

 

だから期待しない万博公園のイルミナイトには圧倒された。

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(ここでも滝は流れる…)

 

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70mのコンクリの円柱が、スクリーンとして映えた。塔内部の展示に呼応した内容で、商業施設の見せ物より、がぜんアート志向の映像だった。

岡本太郎はどう思っただろうか。

自分の作品が、新たな映像作品のキャンバスとなって現代によみがえり、アートとして更新されることを喜んだろうか。それとも、既存のイメージをトレースするだけのありきたりな客寄せの催しものの道具にされることを悲しんだろうか。イベントが終わって、灯りが消えた塔の顔には、もう誰も見向きもしていなかった。