おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

ドライブとダメ男の幸福論

 

人的交渉がわずらわしくて、ネット通販かセルフレジ完備のスーパーで買い物を済ませる。来月の給料日まで989円しかないので、おやつを買うのに親のクレジットカードを通している。親の臑骨とは、16ケタの番号が浮き彫りになった名刺大の板のことを言うのである。パパが毒ヘビに咬まれ、ママンがふぐに中って倒れる不運が重なった日には、足の指でわらをよじって、首吊り用の縄を編まねばならない。職、住所、身寄りのない30代フリーターが、漫喫の個室でわかばを吸いながら明日の不安を語るドキュメントを、実家自室のPC前でぬくぬくと見ていたが、同じ未来はすぐそこに迫っている。自立しない人間のことばにどんな重みがあるだろう。できちゃった婚した不良上がりの大工のほうが言うことに説得力がある。志賀、芥川、太宰は、みな食うに困らない名家や資産家の生まれなのにちゃんと働いたところが偉い。僕はもうすぐ30歳になる。しわだらけの両親に寝食をみてもらっている男は、同じ環境に甘んじている人間の気休めとなるほかにどんな使いみちがあると言うのか。

 

ドライブに出た。家の前に500万円超の国産SUVが停まる。25年前、幼稚園の入園式でとなりにいた男が運転手だ。名前はKだが、夏にSに変わった。結婚して婿養子に入ったのである。大学卒業後、運送会社に入社してトラックを転がす。座席はクリーム色の革張りで、肘かけに腕を乗せるのにテーブルでステーキを食うような格好になるくらい広い。目線は前を走る車のどれより高かった。素直にすごいと伝えると、
「日本の道でこれを運転できる奴はなかなかおらんと思うで」
プロドライバーの誇りが感じられた。

かつては中古の軽が停まった。Sの両親が足代わりに買った車だ。僕らは免許とりたての学生で、夜中じゅう走り回った。数年後、S家は車を買い替えて、コンパクトカーがやって来るようになった。やがて社会人になり、夫になり、家を建て、今度は自分の金で買った自分の高級車に僕を乗せてくれるようになった。そのあいだに僕が築いたものは何だろうか。小学生から拡がらない交友の輪、中学生から変わらない暗いものの見方、高校生から乗り換えない原付バイク。――雨の日だった。僕は口臭消しのガムみたいな色のレインコートを着てずぶ濡れになりながらバイト先のスーパーから出るところだった。Sとすれ違った。新車のワックス残るSの車は、雨のなかを戦艦のように進んだ。フロントガラスに、僕を見つけてハッとするSと、助手席で笑う奥さんが見えた。このすれ違いがすべてを象徴した。片道一車線の田舎道に、大人と子供の分離帯があった。

車は進む。悪路走行用にサスペンションストロークが長い。路面のギャップも大型バスの浮遊感で走る。車内の話題は、新婚生活。奥さんは人材派遣会社の営業職で、朝から晩までバリバリ働いている。遅い日は23時を過ぎる。非番のSは炊事、洗濯、掃除を片づける。
「完全に夫のほうの主夫やな」
「まさしくそやで。でもそっちのがええねん」
おれの性格にあってんねん、と続ける。今風の夫婦だと思った。Sは子供を望むが、彼女はキャリア継続のために欲さない。
「そこは偶然にまかせるってこと?」
遠回しに訊いたら、
「いや、妊娠しにくい期間にがんがん中出しする」
と知りたくもない夫婦生活の暗部を語った。Sは人が口にしたがらないことをあえて口にする露悪的な趣味がある。言っても引かないだろうという信頼か軽視か、そんなところを含めて僕はSの人となりを好いている。新御堂筋を江坂で折り返した帰路、Sが切り出した。
「お前は結婚しないん?」
これを聞くために呼び出したと言わんばかりの、普通を装った、しかしりきの籠もった質問だった。できるかー、そもそも相手がおらんわ、と返すのが常のツッコミだが、今回は相手がいる。付き合って1年、同い年のIT企業OLである。LINEの画像は2ショット。露骨なものでなく、2人のサンダルが展望台のガラス板を踏むような、関係をうっすらとしかし強烈にほのめかすもの。ちゃんと付き合ってるなら公表できるはず、プロフィールで恋人の存在が知れたら何か不都合なことでも起るの、という外交的な圧力におされて設定した。
「結婚のビジョンがまったく見えへんわ」
「でもそういう話するやろ?」
する。直接はないが、○○ちゃんが結婚して、○○の結婚式に行ってきて、この街に住めば、こんな間取りの家に住んだら、みたいな結婚をちりばめた発言、共同生活を連想させる話題がたわいないやりとりに挿入される。7日先の予定さえ満足に組めない先見の盲の男に、わずかに残された女20代の価値の重さを思い出させるサブリミナルである。

結婚はしたくない。僕は一生ひとりで生きて死んでいくつもりだ。美しい恋人、佳き妻、かわいい子供、かっこいい仕事、きれいな車、立派な家、そんなものは俗っぽいみせかけの幸福にすぎないと否定したところに僕は自身の幸福の測量計を置いている。妻帯した僧侶は、生活の俗世間的真理と、信仰の出世間的真理をわけて器用に生きるだろう。家庭に埋没しきったかにみえるお父さん達も、日常生活のどこかに、物心いずれの空白地帯に、自分のささやかな聖域をつくって暮らしているだろう。僕は聖俗のあいだでさけるチーズのように生きるのはごめんである。

彼女に伝えると、
「一生ひとりで生きていくって言われると、そこに私はいないんだと思って悲しくなったよ」
とか言うのである。これが他者の卑しさにして尊さなのだ。これだと信じて疑わなかった正解が、べつの知性の介入によって数ある代替案のひとつに引き下げられる。家庭を志す女の引力圏にとらわれて、定住定職、自立共生、そんな脳裡にありもしなかった星くずの概念に揉みくちゃにされ、平凡の妙なる星のうえへ落ちてゆく。

車は、高校生の僕らが原付バイクをびいびい言わせて走った道を、余裕の馬力で滑っていく。僕の乗り物はこっちなのかもしれない。Sは昔おっとりした子どもだった。僕が遊びのすべてを牽引した。遊びの時代が終わり、ひとつの人格が人生を築くときになると、Sははるか遠い地点に進み、いまは僕が彼に引っぱられている。ドライブは終わった。Sが去り、僕が残る。僕は、親が暖めた古巣のなかへ帰る。