おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

家なしのベンチを暖めて

要塞内での囚人の作業は、しごとではなく、義務であった。囚人は割当てられた作業を終るか、あるいは規定の労働時間が過ぎると、獄舎へもどって行く。
ドストエフスキー死の家の記録

 

バイト先のスーパーにいるパートのおばちゃん、契約社員のおじちゃんは、僕のことをまだ学生だと思っているので、
「○○君には、無限の可能性があるなあ」
と声を掛けてくれる。

お先まっ暗だよ!

「君はこれからの人間やからなあ」

違う、ここまでの人間だよ!
学校やめて片田舎のスーパーでバイトしてる。
ここが僕の人生の到達点だよ?

そう胸のうちで反論するが、ほんとうは自分の立場を悲観していない。僕にはある種の神経が欠けていて、未来の危機、将来の不安といったものが感じとれない。現実家の女は、
「将来どうするつもりなの?」と訊くが、
「ワカンナイ」と答える。分かんないからである。
「食いっぱぐれのない仕事に就いて、郊外に建てた庭付きの一戸建てに、息子娘と、2匹のウェルシュコーギーと暮らすつもりだ」
と答えればOKなのだろうか。クソ食らえである。だいたい僕は犬は嫌いなのだ。主人と忠犬という関係が、社会と自分の関係と相似形であると気付くと、急に首もとが苦しくなりはしないか?

不安の無感覚症に幼児的な万能感が加わると、いつも自分はここからの人間だ、と考えるようになる。年寄りの繰りごとにハハと笑って「いやいや」と謙遜するが、腹の底では、当たり前だろそんなこと、と思う。僕らは今を生きるしかないので、つねにここか、ここからの存在である。死んで初めて、ここまで、になる。この瞬間の若さと可能性に気づかぬふりをしている老人にこそ「君はこれからの人間だ」と言ってやりたい。

求人広告を見たとき、これは天職かと思った。
・1日4時間
・非接客の単純軽作業
・通勤ラッシュと無縁

収入はないが、実家で暮せば死なない。寄生は恥と思わず、何となればすなわち「我は独り人に異にして、而うして母に食(やしな)わるることを貴ぶ」老子からである。(この母は、道家老子にとっての道であり、道とは語りうるものではないと言う。だったら何なんだ?)

親が倒れたら?
ホームレス予備軍を自覚するとき、はじめて僕は自分の影に刺されるような不安を覚える。将来の安心を売って半ニート生活の気楽さを得るか、昼寝の自由と引き換えに、繋がれた囚人の安心を買うかである。

 

金は鋳造された自由である。
死の家の記録

くっ!

僕はやっぱり自由が好きだ。