大阪は一日天気が悪かった。横向きに雨が降るのをみて、外出はあきらめた。こんな日は晴耕雨読、読書に徹しようと本を積んでみたものの、YouTubeで外国人がゾンビゲームを実況する動画をみていたら、日が暮れてしまった。その罪滅ぼしに、今日は本について書きます。
中古本を買ってきた。
『雑文集』を買ったのは、加藤典洋『村上春樹はむずかしい』(岩波新書)を店で見て、たまには村上春樹でも読むかと思ったから。私はハルキストでも何でもなく、上下分冊の著作をすべて上巻でやめた中途半端な読者だから、エッセイなら読み通せるかと甘い見通しなのである。中島らものエッセイとくらべたら、エンタテインメント的な仕掛けはない。でも読んだあとに、良い時間だった、幸せな読書だったと思える不思議な文章たち。どーやって書いてんだろ。
本題は新書なのだ。発行年代順に並べると、
1957年『日本語』
67年『航海術』
70年『美について』
78年『刑吏の社会史』
50年~70年代後半を「昔」と一括するのは乱暴だけど、ひと昔前の知識人が書いた新書が大好きだ。理由は3つある。
ひとつは印刷。ガタガタとずれた字、インクのかすれた字をみるたび「うわあ、ほんとに活字組んで印刷してたんだ」という感動がおこる。プレスあとの文字の凹凸を指でなぞると、たまらない。古い本には、目でみて指で感じる文章がある。クリーンな紙面にスムーズな印字の本では得がたい体験である。
次は文章。いまの新書は、タイトルで大喜利する薄い本になってしまった。けれど昔は「専門知を、大衆に広めるという意味で『日本型啓蒙』の中核を担うメディア」(宮崎哲弥『新書365冊』)として、大役をつとめていた。
古い新書は読みにくい。かみくだいた説明にも格調が残っている。それは昔の知識人に文才があったからではなくて、専門家としてのプライドがあったからだと思う。丁寧ではあるが、読者に媚びない。このあたり、すらすら読めても何の後味も残さない今どきの新書より、苦労するぶん読書体験は上質である。
最後はPC以前であること。ネット、スマホ、SNSの話題が一切出ない。これがどれほど新鮮で心地良いことか。デジタル時代のたとえ話やメタファーは、ディスプレイ上の指紋のように手垢にまみれている。テーマがなんであれ「アップルのスティーブ・ジョブズは」と接続されるのだから漫才の終わり際である。
大事なのは、書く人もPC以前だったということ。つまり、今みたいに世界中から論文を引っ張ってこられるような時代ではなかったから、資料収集にケタ違いの時間と労力を使った。昔の専門家というのは、筋金入りのプロだったのだ。指先のデータ収集ではなく、足でかせいだ貴重な情報を大量に抱えていた人間の書くものが、おもしろくならないわけがない。ものを書くにも、原稿用紙のマス目をひとつひとつ埋めていったことを思うと、ありがたみを感じる。いかにもパソコンでぴゃっと打っただけの文章には、時間軸が足らない。古い新書は、文面にも立体感がある。