おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

100円でおかねもち

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このおもちゃを見たとき、造幣局とは似ても似つかぬ田舎の底辺工場でもくもくと時給790円のライン作業に耐えている貧困の人々が浮かんだ。「毎日おかねもちを作ってもおかねもちになれない。おかねもちを作っておかねもちになるのはおかねもちの社長だけ。あーらえっさほいさっさ」と、工員になった自分がコンベヤ台に立って皮肉に耐える。実際の生産環境は想像よりも悪く、あるいは良いのかもしれないが。

 

おかねもちになりたい。なぜか人々は親切にもお金の稼ぎ方を教えてくれはするものの(ブログやYouTubeで、貧相なボキャブラリーに質素な家の壁紙を背負って自称経済的自由人たちがとりあげるのは、不労所得に転売、せどり、FXで10万を100万に、お金を引き寄せる習慣、成功者に共通する5つの条件といった話題だ)、しかし幸せになる方法は教えてくれない。美術の時間に校内の啓発ポスターをつくったとき、用意したいくつかの候補「ポイ捨てはやめよう」「いじめをなくそう」から先生がいいと言ったのが「幸せはお金で買えない」であった。毎日がパラダイスの中学生にはピンとこない説だったが、経済的に安定した公立校のアラフォー女教師にはなにか訴えるものがあるテーマだったみたいだ。

仕事で車を運転中、ラジオも切った無音の孤絶スペースで、周囲の車――DUMP.JPのダンプトラック、共同募金受配車の軽バン、おでん色のきんでんの作業車、〇〇が運転していますと名乗る生協トラック、プロパンガスを満載した伊丹産業の荷台車、稼いだ金を惜しげもなくエアロパーツにつぎ込んだ不良趣味のハイエースを眺めるともなく眺めるとき、「世の中にはいろんな仕事があるんだなあ、みんながそれぞれに働いて、それぞれに暮らしているんだなあ。世の中で傑出するにはどうすればいいんかなあ。ぼかあしあわせなのかなあ」と自問する。車窓はいつだって感傷をさそうものだ。車に乗った男の横顔は、軽トラ農家を哲学者に見せる。シャコタンの07年式ヴォクシーに乗るヤンキーも、顎に手をやり、肘掛け椅子に座ったソクラテス同然、「人生の終極目的とはなにか」を次の赤信号までに見つけ出そうと前を睨んでいる。

 

「だが幸福とは何なのか、ソクラテスの時代以降、この問いは、古代の諸学派によって論争された主要問題だった。哲学者たちの見るところ、幸福を快楽と同一視するか、社会的成功や名誉や名声だとするか、知識や知恵だとするかによって、人間は大雑把に三つのタイプに分類することができた」
(コーンフォード『ソクラテス以前以後』岩波文庫

社会的成功とは無縁のライフコースなので、幸福=成功とみる視点をほとんど手放している。ほとんど、というのは、ゴミの日が来ないから袋に入れてベランダに置く、くらいの整理だ。石垣のある3階建ても、ポルシェ・カイエンも、所有者の後背に透けてみえる職業の威信と事業の成功が、うらやましい。僕のアパートには、ゴミの日になると、ゴミ出しを忘れぬために、玄関ドアの前へ、つまり共用廊下へゴミ袋を並べて置く世帯がある。それを見るたびに、こっそり捨てておいてやろうか、もしくは自分のゴミを追加しといてやろうか、といたずら心が芽生える。

さて、僕が日常生活で幸せを感じる瞬間は、朝7時に彼女が寝る布団にもぐりこんで(別寝制は、せめて寝る前だけは自分の時間がほしいと思った僕が勝ち取った権利の章典である)、カーテン開けっ放しの窓から射す陽光を嫌って、梅干しのように顔をしわくちゃにして寝ているところを優しく起こし、その起きる一瞬の「なんだ」という驚きと「なんだこいつか」という落胆のリアクションを見、寝ぼけ半分に「まあまあお入り」と持ち上げられたブランケットに顎までうずまって、単純過密の工場労働で馬車馬となって疾駆される退化の始業まで残すところ半時間、ひたすら自分が人間であること、たった一人の人間からでも好かれているのだということを確認するときに、幸せを感じる。仕事が終わって、晩飯を食い、風呂に入ったあと、うだうだTVを見ながら凍らせたゼリーをつついているときに幸せを感じる。こう書き出すと、僕の幸せは実に単純で、感官の満足な刺激に尽きている。頭に電極をぶっ刺して同じ状況を神経細胞のパルスで再現すれば、脳だけ溶液に浸かった状態でも、「ぼかあしあわせだなあ」をない口で連呼した気になるだろう。僕の幸福は快楽なのだ。知識や知恵を愛する愛知人を気取っていたい。だって周りの人から賢い人だと思われたいもの。そのために本を読んで頭に知識を詰め込んできたけど、それは快楽からはほど遠い苦痛であった。ソクラテスデルポイで受けた神託「汝自身を知れ」は、身の程がうかがい知れるようになってからが深い。ようやく知りえた自分らしさも、作り上げた自分像の作為的な部分を持つものだ。だとしたら本当の自分とはなんであろうか。ま、そんなことはどうでもいいんだが。

ソクラテスが思う幸福とはなんだろう。「幸福はかれが魂の完成と呼んだもの――「みずからの魂をできるかぎり卓(すぐ)れたものにすること」――のうちに見い出される」。魂の完成ってなんやねん。長渕剛かよ。「おかねもち」の子ども銀行券セットが「しあわせ」とパッケージされて大人の模倣玩具として売られていないのは、商品企画部に皮肉の才能がないか、幸せが無形のせいだ。しかし幸せは形である。幸せのパンケーキは魂を磨き、幸福のチョコレートが魂を完成させる。ああ自分は幸せかと憂う前に、自分は幸せかと問える環境自体の透明な幸福性を発見しようじゃありませんか。

 

ペコさん…?

 

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市内某所、ペコちゃんを置く家がある。

殺風景な旧家屋のつらなり。車も通さぬ隘路の一角で、昭和の風景から、パリッとしたお仕着せ姿でこちらの時空をうかがう。初めは、子どもだと思って寿命が縮まった。

 

日付が変われば、衣装も変わる。

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夜はひときわ怖い。
幾人もの新聞配達人が腰を抜かしただろう。

 

毎日玄関先に立つわけじゃない。小学生だから登校日にあわせて外出するのかと思ったら、土日祝、時間を問わずランダムに現れ、そして消える。

どうせちょっとおかしな老人のいたずらに決まっている。衣装の手縫いが近日唯一の娯楽。通りに立たせるのは、かわいいわが子を見てちょうだい、という発表会さ。たまにペコちゃんが、ペコちゃんの紙袋を提げていることがある。仮面ライダー仮面ライダーTシャツを着るようなリアリティラインの侵犯、メタレイヤーのオーバーラップがある。家人にとってペコちゃんは人間なのか、ペコちゃん人形なのか。同居する子どもなのか、着せ替え人形なのか、存在性のいかんによって狂気の質が異なってくる。

通るたびに衣装の更新、いや彼女の着替えを期待して覗いてしまう。暑くなってきたし、夏服のほうがいいんじゃない? と訳の分からない心配をするようになった。店頭にいるやつはみんな偽物だよな、お前が本物のペコちゃんなんだよな。おれも年老いたら、佐藤製薬のオレンジ色のゾウを置いたるからよ。