おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

ショッピングが難しい

 

 

買い物が楽しくない。梅田に出掛けても(そう、梅田に出るだけで気が滅入る。人混み、電車の発車音、圧倒的に雑多なモノの壁、マクド、サングラス、路駐の高級外車、刺青の男、ピアスの女、ホームレスの寝床、室外機の風、高架下の腐り水、外食屋の連なり、場外馬券場の整理員、アンドモア、モアモア)、紙袋を提げてウキウキ歩く連中と同じように、ショッピングを楽しむことができない。

「新しい時計がほしい」と細君が言う。「あなたのも買ってあげる」という甘言に乗せられて、ロフトに来たが、ショーケースを覗いても、どれひとつピンと来ない。G-SHOCKが良いと思っても、現にしているCASIOの1,000円のデジタル時計がいい。腕に巻いて比べると、デザインでも性能でも明らかに劣っているはずのペラ時計が、格好よく見える。慣れだ。今さら新品のタオルケットで寝られないのと同様、馴染みない盤面を見ると、体内時計が狂うようで寒々しい。値段も割高だ。メーカーが7年持つと謳う安時計が1,000円。2万円の時計を買うより、この安時計を20本買い替えて140年生きたほうがいい、と胸算用で問題を片付けてしまう。細君は北欧産の限定色に惚れたようだが、僕がいらないと言うのを聞いて諦めた。いっしょに買わないと意味がない、という変な理屈だ。諦めきれずにリンクス梅田を訪ねる。むろん、ここでも僕の計算式は変わらなかった。

商品世界最大の禁句「え、いる?」を唱えたい。どこへ出掛けても、家にいるほうがいい、静かな部屋で寝転がっているほうがいい、本を読まないでも映画、動画を見ているほうがラク、と思う。目的なく、場当たりに、消費意欲の赴くままに、あれかこれかと悩むうち、それもどれもと欲張るうちに、時間と体力と残高を減らす、ショッピングとかいう高尚趣味に、静かなる強制力をもって参加させられるとき、僕は心底腹が立つ。休日をショッピングに充てるとは、出勤日を労働に費やすのと同じくらいにバカバカしい。細君は僕の顔をみて「あなたが不機嫌になるなら、もう帰るけど」と訊くが、これは暗に次に行く命令である。僕の無口を不機嫌の証拠として嫌うが、もともと無口だ。頭中の雄弁まで奪われたら、いよいよ白痴である。

僕の買い物嫌いは、長年の無職・フリーターの無・低収入生活によって、値札のついた商品というものが、つまり消費をエンタメ化した現代都市そのものが、(購入)不可能性として立ち上がって見えたことの、重大な後遺症にして勲章である。ショッピングセンターの離れ小島のソファで、枯れ木のように動かなくなった家族サービス業万年ヒラ社員のお父さんたちは、同じ哲学的気付きを得た同志のようで頼もしく、同じ休日の惨敗者を見るようで腹立たしい。自分のしたいことをしたいとも言えないのである。

金がほしい、金があったら…と思う。しかし金があれば欲しいもの(車バイク自転車ゲームPC)は山とあれど、いらないの論理ですべて却下できる。買わねばならぬものがないなら、大枚稼ぐ必要もない。必死に働きたくない。会社組織で働かずに食える才覚(口先、美貌、無恥、手腕、豪運、家系、甲斐、気違い)があれば僕だって、スキルを磨く時間さえあれば、でもなにをどうやって、今からじゃ何をやっても遅すぎる、の堂々巡りに日中勤務中の大半の思考を費やす。大多数の人がそうやって老けていく。望みは子どもに託される。その子もやがて老けては同じことの繰り返し。人生の脱出口を買いそびれた人間で、今日もラーメン屋は行列する。

「人の社交性はその人の知性的な価値にほぼ反比例している」

 

結婚の事実を受け入れられていないというか、今まで彼女だった女が続柄妻として住民票の登録を受けたり、クレカの名義変更で何社も電話をかけたり、僕の名字でつくり直した実印・認印を買ったりする、もろもろの実生活上の手続きを見ると「一緒になったんだな」と、意識の外堀を小さな事実が埋めだし、空っぽの実感にかたちが与えられつつある。ここだけの話、世間が祝福するほど、結婚はおめでたいものではない。この点ではショーペンハウアーの言い分に完全に同意する。

精神の孤独に応じて身体的にも孤独(訳注 妻子のないこと)であれば、それこそ願ってもないことである。身体的に孤独でなければ、自分とは質的に異なった十重二十重の取り巻き連中が殺到して、邪魔したり、敵対までして、その人の自己を奪い去ってしまうが、さてそれに代る塡め合わせは何一つ与えてくれない。(『幸福について』新潮文庫 p213)

 

そもそも人間は誰でも最も完全に融和できるのは、自分自身を相手にしたときだけである。友とも、恋人とも、完全な融和はできない。個性や気分の相違のために、必ず多少とも不調和が生ずるからである。したがって心の根本的な真の平和と、気もちの完全な平静、すなわち健康の次に最も貴重なこの地上の財宝は、孤独のうちにのみ求めることができ、持続的な気分としては、徹底的な隠遁のうちにのみ、求めることができる。(p215)

 

妻帯によって、親、同僚の見る目が変わった、社会的な信用度が上がった、と書いたが、実はろくでもない人間、とんでもない奴というのは既婚者にも多い。なぜなら、人間がまともなら、だれかと結婚して一緒に暮らしたいと思わないからである。

ただし孤独にも良い孤独と悪い孤独があって、ショーペンハウアーが言うのは、もともと精神の高潔な天才が、自身の仕事を世人に邪魔されないための孤独の尊重であって、世人に勝るともなく劣っている才量、感応力しか持ち合わせていない凡人が、いくら孤独を深めても、その社会的な影響力のなさを外因にもとめて暴れる攻撃的な、もしくはひたすら内因たる自己を責める防御的な精神(病)にやられるだけだ。凡夫に孤独をかけ合わせるとろくな結果が得られない。その意味で僕は結婚できてよかった。親と同居の半ひきこもり生活もそうだが、結局は守られたカッコつきの「孤独」、誰かの不在によって一時的に実現する孤独、回復が見込まれる孤独が好きなだけなんだ。ママ友が話す横で、砂場の孤独を楽しむ子どものようなものだ。自活能力のない僕は人より人に頼って生きざるを得ない。ただし、それと社交を好むのとはまた別問題である。

人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に耐えられないからである。社交を求めるのも、異郷に赴いたり旅に出たりするのも、内面の空虚と倦怠とに駆られるためである。そういう人の精神には、独自な運動をみずから掴むだけの原動力が不足している。(p217)

 

人の社交性はその人の知性的な価値にほぼ反比例している。だから「非常に非社交的だ」ということは、まずそれだけで「優れた特性をもつ人だ」ということになる。(p221)

学生時代に、友達のいない奴、休み時間に誰とも喋らずにボーッとしている奴が高得点をとった話も、進学校にいった噂も聞いたことないが、僕はこの偏見を、対人関係の盾として孤独に生きる。