おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

金はない。時間はある。でも、やることがない。

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忙しければ自由が欲しいと気を病み、暇なら暇でやることがなくて苦しむのだから、人は勝手である。勝手がユニクロを着て歩いているのを、人と呼ぶのだ。仕事は忙しい人に頼め、という鉄則はその通りで、仮にいま風呂掃除を命じられると、僕は1日かけて風呂釜に水を流すだろう。LINEの返事は既読12時間後で、彼女はそれを「コミュ力じゃなくて人間性の問題」と経済学者の冷血で片づける。

バイトが終わって午前9時、社会が始まる時間である。行きは新聞配達のバイクと、ゴミ収集車のほかは誰もいない道路を走り、帰りは取引先へ急ぐ商用車、子どもを乗せたママチャリ、遅刻した学生の駆け足に逆らって、また空いた道を進む。早い昼食を摂り、満腹を横たえて、とろとろと午睡へ接続するとき、僕は天使の抱擁を受けるような多幸に満ちる。そして地獄は、目覚めとともに始まる。

何もすることがない。1日のスケジュールを載せるのが怖い。生の薄さを実感するのが恐ろしい。登録画面で「29歳・男・フリーター」と現実的な指標に解体された、わが社会的地位を見るような絶望がここに生じる。

9時の退勤、10時の昼飯、11時の就寝。正午に目覚めることもあれば、15時まで寝る日もある。体にまかせて眠れるだけ昼寝する、というのが男の一大テーマだ。夢中服にアイマスクと耳栓を装備する。夢の窒息死は現実への生還(あるいは別の窒息死)となる。なるべく深く、長く暗黒につかっていたい。20分の昼寝で3時間の睡眠効果、長すぎる昼寝はかえって身体に毒などという夜寝党のデマが拡散しているので注意されたい。

バイト先の50代のオヤジは「お前こんなとこにおったら人間ダメなるで。ここには人生の落伍者しかおらへんのや」と自嘲する。30代の独身男は、仕事中に見つけたつまみを買って帰り、事後を考えずに酒を浴びて、人事不省のまま睡魔の唇に吸いとられることを唯一の趣味としている。起きてまた夜まで飲み続けるんや、とまだ酒くさい口で語ってくれた。僕の未来図である。13時に起きて14時まで何もしない。14時から何もせず、こりゃいかんと思った15時には、もう何もできない。サルトルは言った。

「午後三時。三時というのは、つねになにをしようと思っても遅すぎる、あるいは早すぎる時刻だ」『嘔吐』

よって何もしない。建設的なことを一切しないという意味である。主婦の愚痴ブログにおびえ、意識の高さに知性が追いつかない啓発家の痴愚を笑い、売れない芸人のTwitterに発言のアラを探し、ゲーム実況を見てヘタクソとののしり、観ない映画をウォッチリストに入れて得した気分になり、炎上した人間の出身校を調べ、あいみょんを聴いて何がいいんだと首をかしげ、こまぎれのバラエティ動画をだれるまで追いかけ、疲れたら横になり、金があれば都心のマンションに住んで外車に乗って、と妄想にまどろみ、起きたら主婦の愚痴ブログの苛烈さにおびえて…の繰り返しである。16時、17時、18時と過ぎる。今日は何もしなかった、と失意に打ちのめされる。ここから1日の損失をとり返そうと、散歩に出たり、ブログを書いたり、本を読んだりする。19時、20時、21時。作業20分と息抜き1時間を繰り返して22時。そろそろ寝よう。明日こそちゃんと生きようと念じて、読めたはずの本の影で丸くなって眠る。朝型生活とわずかな日銭を稼ぐ以外、ほとんどニートの暮らしぶりだ。このバイトが人をダメにするのでなく、ダメな人がその生活を許してくれる仕事に集まったのだ。

金欠でも時間持ちの人間が社会で傑出するには、その時間を何か意味あることに投入しなければならない。フリーターをしながら曲を作ってデビューする、漫画を描いて雑誌に載る、小説を書いて賞を獲る。華々しい実例のうらで、もっと実直に資格勉強して専門職に就く、トークを磨いて「オレオレ」のテレアポでトップ成績をとる、肛門を鍛えて国家間のある種の貿易にたずさわる。人の役に立つことは人間冥利につきる。僕にも時間はある。その時間で、将来の成果を見越して腕を磨くのでなく、ふつうの人の余暇活動のメニューをただ拡大消費しているだけだ。

競艇場におじんが群がる。100円の入場料を惜しんで舟券を求めるおじんが、場前の券売機にたむろする。駅前のパチンコ屋におじんが列をなす。目隠しシェードのうらで、予防接種を受ける子どものように黙っている。弾道の定まった人生の舌先を、ギャンブルという一縷の偶然に遊ばせるだけまだ救われている。宵越しの銭を持たないのが江戸っ子のエートスだ。大工の親分が職人を集めて賭場を開くのは、胴元となって甘い汁を吸うほかに、金があると働かない大工たちの懐を寒くして、彼らの労働力を間断なく工事に注入するための計画的搾取であった。散財によって労働に切実さを与えるのは、ギャンブルに認められるわずかな正の効能である。遊びもせず、働きもせず、公園でボーッと鳩のたわむれを見るともなく見るおじんがいる。社会の中空に放りだされた、どうしようもないおじんである。彼と同い年の社長に学者が、今夜のニュースや明日の朝刊に並外れた業績とともに現れる。両者を隔てるものは何だろうか。運か努力か、血か環境か。そんな係数決定の議論は尽きない。人は習慣の産物である、という言葉を思い出す。29歳にしてやっと、人間の日々がじつに単調な繰り返しで構成されることに気づいた。働いて帰る、飯を食って寝る。一本足のこまが、力を失うまで回り続ける。新商品を試すこと、時候の食べものを口にすること、つねに旬を映す画面に目をさらすこと、そんなささやかな変化を透明化した行動の合間にとりいれて、なんとなく去年から今年を、先週から今週を区別して生きている。長じて成果を残す人と、狭い世界に自足して一生を費える人は、わずかな一日の行動とその継続、つまり習慣によって差別されるのだと、この頃じかに感じるようになった。一度である。わずか一度の角度が、同じ二線の後端に月鼈の距離をもたらす。一字である。たった一字の蓄積が、人に物語を与える。一回である。一回の運動が、メダルとメタボをわける。僕は自らの惰性に逆らって、100年後の未来のために苗を植えるような時間の投資をしているだろうか。習慣をつくっているだろうか。一時の伐採を気持ちよく思うだけじゃなかろうか。可能性の焼け野原になったおじんを見るとき、僕はああはならないね、とせせら笑う。あんな奴とは違う。違うんだ、と思い続けて20年、男は行くあてもなく公園のベンチに座して、青年の軽蔑を背すじに受けても、もう何も考えない。

人は人のために考える。医者は、人に代わって身体のことを考える。漁師は、人の代わりに魚や船のことを考える。哲学者は、人の代わりに考えることを考える。僕はありあまる時間を使って、おじんと自分の異同について考える。これも立派な仕事である。問題は、考える人も考えられた人も、双方に得がないことである。意味のないことにも意味はある。その意味を考えるのは君の仕事である。

 

やる気を出す方法

 

子どもの靴にピーピーする空気袋をつけたのは、どこのどいつだ。動きを知らせる警笛代わりになるからいい仕事だ。しかしイスのクッションを着席、離席のたびにピーピー鳴らす意味はどこにある。家具屋の子どもイスに「音が鳴るタイプです」とわざわざ店長の注意書きがしてあった。世間の親は音の鳴らないタイプをお求めかもしれない。こんな話をするのは、鼻づまりで呼吸のたびに顔の前へ子どもが座るからである。

無気力である。低気力ではなく無である。「あなたは0を1にする人間ですか、1を10にする人間ですか」という質問がある。これは数概念の発展から言って、10や100(ここで0を使う記数法がややこしければ十や百)という大きい数が考えられたずっと後になって0が発見されたのだから、「あなたは1から0を見つけられる人ですか」と訊くのが本来正しい。0→1はバカでもできる。バイトの1時間前まで徹夜でゲームして、ついに「熱が38.5℃あるのでいけません」と0を1にすることで、睡眠の黒あめをねぶることができる。無気力も気力から発見される。が、当人にとっちゃたまったもんじゃない。嘘でもつかにゃ、やってられんということさ。

それでも書くのは、真鍮ペンの劣化のため。ひと月後には運命の万年筆を見つけたと騒ぐだろうが、いまはこのペンだけが頼りだ。グローブならしのキャッチボールに付き合ってほしい。

作家のエッセイに妙に間延びした、よく言えばマッタリのほほん、逆にダラダラかったるい、長風呂に適しても茶を淹れるにはぬるすぎる小品を読まされることがある。先生、今度はノーパン喫茶で5枚頂きたいのですが、と雑誌社の人間が揉み手でやってくる。なるほど、最近ではマスクのことを顔に穿くパンツだと考える向きもあるそうで、うっかり夜道で遭遇するとこちらの方が「チカン」と騒ぎたくなるようなご婦人もいらっしゃるのは確かである…と適当なことを言っておれば、原稿用紙がそのまま紙幣に早変わり。家がお金の印刷工場になるなら、僕だって1のことを10と言い、ヘビの話を龍の伝説にすり替え、カップ麺を30分待ち、徒歩で行くのをバスで来たと報告する。えらい小説家に、エッセイは寄り道こそが本道だ、の名言もあるが(たぶん、だれか一人くらい言っただろう)、それは文字数稼ぎ、原稿料稼ぎの言い訳である。僕の場合は錆が金だ。ペンのかげりのために無駄話する。いまはこのペンだけが頼りなのだ。

僕の好きな作家(北杜夫開高健)は躁鬱傾向にあり、人を笑わせたり面白がらせる作風に反して、日々を鬱悶と過ごしている様を手記に見たりすると、作家の持病みたいなものをそこに確認するわけだが、僕は深刻な無気力に陥ったり、渾身気力に満ちたりすることがない。あこがれるクリエーターとの列席は書類審査で不合格だ。文章に就職するなら、学歴フィルターより神経フィルターの存在におびえなければならない。

伊集院光は自身がウツノミヤ(鬱期をそう呼ぶ)にさし掛かったとき、紙に書いた大目標=おしゃべりがうまくなる、とそれに続く小目標(たとえば外出して話のネタを見つける)を細かくリストアップして順々にこなしていくことで精神の回復をはかるらしい。深夜ラジオでは1人で2時間しゃべり続け、日中の帯番組ではお昼間の空気にあわせて適時打の笑いを量産する。その話術は、術というより人が及ばぬ芸であって、まだうまくなりたいと望む欲深さにはゾッとさせられる。僕もこの方法で無気力を脱したいが、そもそも目標がない。文章がうまくなりたいとも思わない。

江戸時代の文人画家、柳沢淇園(きえん)に『雲萍雑志』(うんぴょうざっし)という随筆がある。淇園は、引退した元指物師に、
「すべておもしろきことは足らぬところにありて、足り過ぎたるは雅なることなし」と言わせた。

茶室を作るのに松を使え、木材は節が7つあるものを選べと細かく注文をつける客の無粋をなじったことばである。文章力も、不足で間に合わせるところに味が出る。上手は上手で「はいそうですか。それは結構で」と言って言われるだけの茶道教室の卑屈に落ち着くだけだ。阪急梅田駅からJR大阪駅へ向かう動線上、勤めびとの兵隊行進の足並みの向こうで、そこだけ透明のウインドーで表と仕切られた一個の華道教室がある。ドラッグストアが人の目線を盗むべく、赤や黄いろのセリフを投げる横で、灰と黒のモノトーンで内外観を統一し、看板も出さない。控えめなレッスン案内の張り紙がなければ、検死室と見紛うようなアルミ台の清潔である。人々の往来を横目に、キツネの毛並みを頭に再現した役員の妻たちが、ランチの予約まで草木を生けて時間をつぶすのを見たとき、僕ははじめて身体に走るこの感覚が虫唾だとわかった。花が蛾であれ、枝はナナフシであれ、と願った。完成した趣味はやる本人は良くても、それを見る他人には興味なく腹立つばかり。文字を生けるのも、教室のみやびでなく、露天のさとびに道を求むるほうがかえって高雅でないか。

やりたことが見つからない人のために、子どもの頃に熱中したことを思い出せ、というアドバイスがある。僕は机にも本にも寄りつかなかった。勉強も読書も、僕が根っから情熱を傾ける対象ではない。血に無理をさせているのだ。この説によると、僕がもっとも自然に、努力を努力と思わず、なおそこから生きる活力まで得られる活動は、ゴミを漁ってエロ本を見つけること、になる。

高学年で家にPCが来るまで、エロの供給はもっぱら紙であった。20棟が連なる団地群で育った。数百世帯のゴミが、一挙にゴミ置き場へ集まる。それを盗みだすのである。どの置き場も小さな一軒家ほどある。コンクリ壁にアーチ状のトタンをのせた簡便な建物で、表には監獄にあるような鉄柵の門扉を備えた。大人は決まった曜日に開放される門から出入りするが、僕たち小人は、小さい図体を柵のすき間にすべり込ませて、日時を問わず出入りすることができた。僕らは生ゴミくさい寺子屋で、実写にマンガ、不倫にSM、排せつの原理から夕飯にでるあの野菜のめざましい使い方まで、ありとあらゆる教養を叩き込まれた。いまは仮病でバイトも休むが、僕はこのとき本当に熱が38℃あっても、いい授業があると仲間に聞くと、布団を出て学んだのである。若妻を得て回春する老人ではないが、あの頃の情熱を迎えて、血と欲をたぎらせたい。それがいまの無気力を救う唯一の方法なのだ。だから僕は本を求めてゴミを漁ろう。あの鉄柵のあいだに、まだこの頭が入るならば…!