おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

同棲、どうせいっちゅうねん!

 

ふだんは筆先からボウボウと気焔をあげている作家が、家では無能の夫と化し、嫁からいびられている実態を自虐的に描いた、あの家庭的な文章が好きだ。あのエラい人が家のなかじゃコワい嫁はんにビビり倒しなんだ、作家特有の奇行、こだわり、人格の難から、家族のみんなに煙たがられて家庭の最下層に押しやられているんだと、いじめっ子がママに怒られるところを見るようで快感だ。ほんとうは王様の彼が家来を叩き、奴隷を殴る暴君として家に君臨しているのに、文面ではいじわるババアに難癖つけられる婢女のような役割を演じていても、読者はその虚構を楽しむのである。

 

さて、僕は新今宮の日雇い労働者が1日でつくる金を2日かけて稼ぐスーパーのバイト店員、社会にとどろく名声も、人にほこれる地位もない。同僚の60代のおじさんが「男は稼がな肩身がせまい」としょぼくれるように、ソファでふんぞり返ってビールに野球ができる立場にない(まずソファが高くて買えない。ソファを買うか、ニンテンドースイッチを買うか。くつろいでゲームがしたい。わが娯楽生活の論理的難問である)。掃除、洗濯、洗いもの、夕刻は梅田から帰る彼女を駅まで迎えに行き、事前にクーラーと扇風機と炊飯器のタイマーを忘れないでいる、従順な下僕である。昭和男児の怒れる男卑女尊であれ、平成男子の憐れむ男の娘であれ、精神は気高くありたい。フンの雨に打たれた胸像のように、「誰あれ?」と笑われても、「汚い」とののしられても、胸を張って、目は太陽のたてがみをにらむ仰角を保ちたい。

ステータスを棚に上げ、唯我独尊の高みから、男おばはんの愚痴を聞かせるのが、今回の主旨である。おばはんはしゃべる。黙りゃいいのに口を開き、聞きたくもない話をえんえんと聞かせる。茂木健一郎はこれを「無意識の垂れ流し」と呼んだ。思考の源泉かけ流しである。しかし、よくよく観察すると、「えらいこっちゃ診察券どこにやった」「せやまず橋本さんとこ電話せなあかん」と、はじめから頭で考えたことを口にするのではなく、口にして思考をまとめる感がある。蛇口にホースをつなぎ、ホースをもとの水道管へつないで、水を循環させるようなことが、頭と口と耳のあいだで起こっているわけである。僕のこの生活感まる出しの、所帯やつれの、あかぎれ白髪の、布で隠した調味料入れの、開いた牛乳パックまな板の、ボウルとザルの重ね置きの光景がみえる愚痴も、垂れ流しのそしりを免れない。そう、僕は男おばはんなのである。食器をキュッとなでる音が嬉しいし、洗濯物がパリッと乾くと嬉しい。150円の食パンが98円だと嬉しい。万能おたまが活躍すると嬉しい。いままでにない感情の発生が、おばはんの価値観をはぐくみつつあることを知らせる。共働きの両親のもとで暮らすひとり息子から、稼ぎ手を支えるパートタイマーへ、つまりニートからおばはんへと、またひとつの狭小世界をつくりつつある。

 

世間はお盆休みで、歯科医院のおもてには院長のゴルフ休みが告知されている。アルバイトの僕は5連勤だが、彼女は9連休だった。家に帰ったら、自分を待つ人がいる。まことに結構なことである。結婚しないかにみえた男が妻帯のきっかけとして述懐するのは、一人暮らしの即席めんの寂しさを救ってくれる、愛すべき他者の存在であった。しかし、僕は誰と限らず、人と時空間をともにするのが苦手である。ドストエフスキーがシベリア拘留を元ネタに書いた『死の家の記録』を思い出す。いざ捕まってみなければ「おそろしい苦痛が、獄中生活の10年間にただの1度も、ただの1分も、1人でいることができないことにあろうとは、わたしはぜったいに想像できなかったろう。作業に出ればいつも監視され、獄舎にもどれば200人の仲間がいて、ぜったいに、1度も——1人きりになれない!」と、感嘆符の涙で、集団生活の地獄を語る。どんな強制労働より寒さよりまずい飯より、孤独の収奪がなによりの苦役だと明言している。そうなのである。

人といると始終監視されているような気がする。というのは、妄想患者のリアルだ。家のまえの通りを録画した動画をYoutubeにアップする。スクランブル交差点の24時間ライブストリーミングみたいに、働きアリの軍行を見せる意図はない。家の前をいく通行人と通行車が、すべて彼を破滅させようとたくらむ悪の軍団(それはたいてい特定の国や団体と結びつけられる)であることを告発するための証拠として残した「被害」映像なのである。南方向から来たナンバー2451の白いワゴン、散歩を装った黒ジャージの男、と「加害者」の特徴を丹念に記録していく。無意味で無関係な現象(単なる通勤途中の車や散歩中のオヤジ)を、なんらかの意味をもった、ここでは彼への攻撃の意思を持った存在だと考える思考はまことに迫力を持っている。僕が彼らの報告を覗くのは、自分にもその気が認められると思うからでもあるが、また自分がそこまでの狂気をはらんでいないと、自己確認するための検査でもある。だいたい人は人に興味がない。ラ・ロシュフコー箴言集に、「人間はだれかに悪意を持つほど勤勉ではない」みたいなことが、うろ覚えだがあったはずで、その通りだと思う。悪意ある行動はまれで、関心なき行動が悪く映るだけなのである。英語でいうDon't take it personallyの前置きである。他人の行動がすべて自分に向けられた意思のあらわれだと考えるのは、おかしい。ただ、その他者関係が、男女の同棲ともなると話は違ってこようと思うのだ。

自分の行動の意味がつねに問われている気がする。あらゆる行為が「2人のために」という但し書きを持たないと無効を宣言されている気になる。2人のための小麦粉でなければならない。2人のためのC.C.レモンでなければならない。2人のための移動、片付け、糸ようじ、毛抜き、スプーン、みそ田楽、ネギの塩ダレ、カレイの煮付けでなければならない。お互いの共益関係が行為の一々によって、たえず確認されなければならない。これが公的書類を持たない男女の、信頼と疑念で成り立つ共同生活の更新手続きというわけだろうか。僕が窒息を感じるのは、この関係の密着である。とくに休日ともなると、その接触は空気も漏らさない。違う部屋でいそいそと用事(本を読んだり、PCをいじったり、海外ドラマを観たり)に取り組むと、どうして構ってくれないんだ、と不機嫌になる。女の不機嫌は、無形の借金である。単独行動には高額の違反切符が出る。この記事は、バイト帰りに実家へ寄って、子ども用の学習机で書いている。夜、いびきをかく彼女の隣で、光を漏らさず横寝で隠したスマホを持ってちまちま稼いだ字数でもある。

 

休みの日がいちばんつらい。彼女は土日休みで、これまでは週2日我慢すれば(そう、我慢だ)、平日は好きに寝たり起きたり、本を読んだり、素人のカラオケ配信を観て「ヘタクソ」とののしったり、冷凍からあげを温めたり、我慢した便意を声ならぬ声とともに蒸発させることができた。ひとりの行動が崇高なのではない。ひとりでいる時間、誰からも指図、強制、暗示を受けない非干渉地帯が聖域なのである。土日がやってくる。目覚めは平日どおりの6時台、僕は決まってきな粉を混ぜたヨーグルトと、食パン、チーズを食べる。彼女は、きのうの残り物の味噌トンテキ、マルちゃんの塩焼きそば、白菜の中華鍋などと冷ご飯をあたためて、勝機は朝餉にありと言わんばかり、出陣前の兵隊のように歯を剥いて食らいつく。食は正義である。食べるのはいいことだ。王将のCMも「食は万里を超える」と言う。「わたし食べないんです」と少食を自慢されるより、よっぽど気持ちがいい。飯を食って横になる。人間の幸せは、満腹の横臥と快音の放屁、この二瞬に極まる。血糖値の上昇によるめまいにも似た幸福に身を任せつつ、サイト周回もそこそこに、手にした森鷗外全集の厳格、石川淳集の流露、安部公房の怪異にまどろんで夢にさらわれるのを、生のこの上ない楽しみにしている。そこへ横槍が入る。

塩ダレのそうめん、鶏肉のマヨドレ焼き、トマトと玉子のスープ。キムチ冷麺、鴨肉のラーメン。タピオカミルクティー、ふわとろかき氷、パンケーキ、高級食パン。インスタのグルメを見せて「これおいしそうだよね?」と訊く。見ないと怒る。だからそのたびに顔を上げて「ほんとだね」と返すが、「ちゃんと見てない」と腹を立てる。そこで、おれは飯に興味がない、栄養が摂れたら錠剤でもゼリーでもなんでもいい、わざわざ食事のために買い物、準備、食事行為そのもの、あと片付けに毎日2時間を費やすのはバカげて見えるし、500W2分のチン飯とレトルトカレーをかき込んだら、ささっと寝転がってダラダラするほうがよい、と持論をぶつけると、弱小党派の街頭演説にぶつかった不運を呪う顔でこちらを睨む。沈黙の隙をみて読みかけの本へ戻ると、すぐに「これおいしそうだよね?」がくる。おいしい飯の行列の、まずいまずい時間である。

彼女が食に熱中するのは、食べることを人生の最大事として扱うためだが、僕が実家に帰るたび親から「痩せた」と言われるのを気にして、食欲を刺激する目的もある。「まるでわたしが食べさせてないみたいじゃないか」と黒い噂が立つのを恐れている。確かに痩せたが、それは夕飯のおかずが1品足りないからではなく、好きなときに甘いものを間食できる食糧事情にない経済の問題である。どんな料理もパッケージ裏の栄養成分表示に還元してしまう僕が「このお肉おいしいね」、TV番組のタンタンメンをみて「これ食べたいね」と言うと、「あんたが何か食べておいしい、とか、何かをすすんで食べたいと思うのは、本当に成長したね」とお褒めのことばをいただく。食育とはこういうことを指すのだろうか。

 

僕は社会学部だったので、日本の労働社会についてひととおり説明を受けた。よくある講義テーマは「正規・非正規雇用の分断」「男女のキャリア形成」である。この問題は扱いやすい。就職を控えた学生にとって真に迫っている点(手取り収入がいくらになるという話だ)、資料が山ほどあって文献に苦労しない点、つまり初めから問題がわかりきっている点、国による調査データが充実している点、レポートの字数が稼げる点(厚生労働省による平成26年度の「雇用の構造に関する実態調査(就業形態の多様化に関する総合実態調査)」によると…)が、僕みたいなやる気ない学生にとって、易しいからである。男子学生は、大卒/男性/正社員として経済のメインルートへと進むために、そのほかの落ちこぼれコースは、他国の政治として冷ややかに眺めている。だから客観的に問題を分析できる立場にあるとも言えるし、血を舐めた経験のないやつに労働問題を語る資格はないとも言える。僕は説明会4,5社、面接2,3社で、就活をやめた。背もたれを使わず椅子にピシャリと掛けて自己資本比率の説明に「はい」とうなずくとき、自分のやりたいことはこれじゃない、自分の居場所はここじゃない、と確信した。僕を採用するような会社には入りたくない。僕と付き合うような人とは付き合いたくないと本気で思ったのである。どうにかなる精神でグズグズした結果、研究対象でしかなかった非正規雇用者に自分が落ち着いてしまった。社会学部の人間が社会人になり損ねるなら、大学なんて要らないのである。あのとき「一度、正規雇用のルートを外れると、復帰できない構造が日本社会には存在する」と、紙上で学んだ空洞の命題が、もろに実体を帯びて立ちはだかっている。低収入の僕は、稼ぎ頭である彼女を支える主婦の地位を占め、彼女なしでは名実ともに生きられない。つのる不満も、たまる欲望も、彼女のまえでは我慢しなければならない。我慢しなければ生活はもとより生命が立ちゆかないので、歯噛みして「マイニチシアワセダヨ」を唱え、特攻隊みたいに笑って泣かねばならない。社会と家庭における地位役割が、まさにパート主婦のそれとなり、学生時代には書類の一項目でしかなかった彼女たちの状況が肌でわかる。そりゃ愚痴のひとつも出ようものだ。道端会議のひとつも開こうものだ。こんな風に書くと僕が彼女を好いてないようだが、状況はつねに好き・嫌だ(キライというよりイヤだ)と思うことの、絶え間ない移り変わりである。結婚していないなら、我慢せずにすっきりした代案をとればよい。しかしこれは年寄りの杖と一緒である。僕のばあちゃんはよく杖を忘れて帰る。杖がなくても帰れるなら初めから杖なんか要らんやろと笑ってしまうが、あるほうが安心である。転ばぬ先の、と言うではないか。ちなみにこの例えでは、僕のほうが杖である。よって杖からすれば捨てられぬ先の人、ということになる。主人に依存しなければ自分で立つことも叶わない棒っきれなのである。

 

表現の失敗

 

1日1字だけ書くMini Habitsのおかげで、前回は5,000字の記事をものにした。質の高低は別にして、公開完了がブロガーとして嬉しい。質の高低を共にすると、文章で魅せたい、ことばのチョイスとリズムのタピオカドリンクでありたい、そんなド文系のプライドを匂わせようとたくらむ手前、人の評価と自分の納得が伴わないと恥だ。

中島らもは、失敗についてこう言った。

エッセイを書いたり、芝居の脚本や落語、小説を書いて口を糊していますが、この世界にも「失敗作」という恐ろしい言葉があります。これも認めません。こういう表現の世界ほど客観的評価に意味のない世界はないからです。技術的に拙劣な「失敗作」が、たとえたった一人の人間でもいい、その人の胸を打って生きる力を与えたとします。その場合、「失敗」とは何に対して失敗だったのでしょう。
『空からぎろちん』双葉文庫

中島論によると、ブログにおいても失敗はない。僕の記事は成功しかありえない地元の神童、将来は学者か国務大臣を嘱望された青年が都市へ出、酒の魅力、女の知力、金の威力にさらされ、地味な保険会社の事務員に収まるように、引用後半の「生きる力を与えたら」という条件がネックになる。

「息子ちゃんを連れて海に行きました。日焼け対策にキッズ用のラッシュガードを買ったのですが、着たくないみたいで」というママ3年目の育児日記、「今日も5万負け。吐きそうだ。爆益の予感がしたんだけどな。調子悪かったぶん明日は勝てるはず」と夢みる貧乏人のFX奮闘記、「群青色の空に浮かんだ純白の雲は、どれもペンキで塗りたくった冗談みたいだ。真夏の殺人光線(そう、それは季節における第一級殺人なんだ)に水晶体を焼かれた僕は、蝉の死骸をぷいと乗り越えて、とろけそうな恋の熱中症に倒れるべく、サマーをバケーションしている真っ最中である」らしいうぬぼれ屋のひとり語りを読まされたとき、そこに生きる感動を覚えるだろうか。またこの手のブログだ…という既視感、絶対の個性を持つ僕たちが、恐るべき類型に回収されてしまう表現世界の束縛のほうに、むしろ不思議な感動が立ち上がらないか。そもそも君は、映画・音楽・劇・小説・実話・又聞き・時事・催事に触れて、明日から頑張るぞ、と心の底から生きる活力がもりもり湧き上がる体験をしたことがあるか。「生き方が180度変わりました」と、苦労人の成功譚に触れるたび、年がら年中生き方がぐるぐる変わるレビュワーが、しじゅう打たれている回心の電撃を味わったことがあるか。僕はない。これが自分の生き方を決めたと言える表現に会ったことはないし、これからも出会わない。

表現は人間の意図である。人を感動させようとする魂胆はもとより、善人に見られよう、すごく思われようという地下電線がある。それが見え透くように思われて、素直に喜べない。大福餅に小判を隠すような、一見なにげない旅行土産のえびせんべいに、のちの便宜を期待する意味を込めるような、そんないやらしさが、人間の制作物にはかならずや潜んでいる。父の日のキャンペーンで、スーパーの壁に貼り出されるパパの似顔絵にも、興味ない題材にいやいや取りくむ子どもの忖度、さらにその後景には5名様に当たる商品券を手にしたいママのそれとない教唆が隠れている。僕の感動はむしろそういう意図にどれだけ心を砕いたか、見せ方見られ方にいかほど苦心したか、つまり服飾専門学生の私服の力の入れようみたいなものへの尊敬と軽蔑から来ている。まるで不感症の女が、私を気持ちよくさせようとするその心根が憎い、とややこしい文句をつけて自分を高みに置くようなもので恥ずかしいが、ここまでの意見も、意見を伝える文飾も、またすべて僕の意図どおりの表現なのであって、それを真に受けて、ハンドメイド・ジュエリーのスモールビジネスを始めたり、LINEで稼げるカンタン副業、YouTubeの配信業を興して、小遣い稼ぎで始めた企てに、ほんとうの自分を生きている実感があります、と天職の使命を覚えるような感激に打たれてしわまぬよう気をつけてほしい。

 

作品の失敗はない。人間の失敗もない。


「あのときもっと勉強しといたら」と後で悔やむ人はよくいますが、その人はその時点では何をどうもがいても勉強することが「できなかった」。だから「しなかった」だけの話です。…今ある自分というものは、必然のよってきたる結果なのであって、「なるようにしかならなかった」から「なるようになった」姿なわけです。その必然の帰結である自分の姿に、「失敗」というものさしを持ち込んでも意味のないことです。


入試に落ちた人、就職にしくじった人、パートナー探しに油断があった人、株価の0をひとつ打ち損ねて100億円の損害を出した人、ポッケにティッシュを入れたまま洗濯した人、後悔に悩めるすべての人間、「後悔じゃなくて反省すべき」と今すぐ後悔したほうがいい発言をする意識の高い人を含めた、あらゆる人を救う前向きなあきらめである。これで僕は自身の短小包茎、学歴コンプ、地位、影響力、不甲斐なさ、弱虫、けちんぼ、ヘビ嫌い、手荒れ、脱毛、ものもらいの悔しさを克服した。なるようにしかならない、と自分の境遇とその結果を追認する態度は、資産なし教育なしの家庭に生まれた凡人はもちろん、外科医と貿易商の父母を持ち、金銭・将来・自尊心になに不自由なく不都合なく生まれ育ったイケメンセレブ大学生が、自身の服装趣味の軽薄、人間関係の希薄、行動原理の浅薄を自覚するとき、彼を救ってくれるのも、裕福であることを強いられた環境の限界にたいするまたひとつの諦念である。

中島らもはどうしてこんなに面白いんだろう。クスリでもやってんじゃないか?と思うが、すでに本人が著書で、ハシシ、ブロン、LSD、幻覚サボテン、覚せい剤の体験を書いたし、事実としての大麻取締法違反、アル中での入院など、クスリ漬けの一生涯だった。間食のグリコにも罪悪感を覚える万年シラフの僕にはとうてい及びがたいメンタルの極北である。

中島らもは、読んだその場では面白いが、あとになって残るものがない。飯どき、トイレ、枕上など、場所を選ばず、開いたページの一編、半ページを読む楽しみはあるが、それ以上になにか、彼が言うところの生きる力になる感動など、ひとつもありはしない。彼が大阪の小さな広告屋で、商品のPR、紙面の広告案、TVコマーシャルのプランを考えていたことを思うと興味深い。ようは、CM的なのである。短くて易しくて快くて楽しいが、さっき流れたCMを思い出せと言われても無理なように、記憶に残らない。繰り返し接触するうちに、好感度と知名度が醸成されて、ついつい中島らもという商品を買ってしまうのである。彼が文学賞とほとんど無縁だったのは、彼の文章が文学的というよりは商業的だったからではないか、と思う。

金のために書くのが文学からもっとも遠い思考なら、本を出したり、雑誌に連載を持つことで食っている作家は、彼らが偉大であるほど、売れっ子であるほど、文学的精神から遠のき、反対に自分の書き物が1円1PVにもならない弱小ブロガーのほうに、ノーベル賞級の文学感が認められるはずなのに、実際はそうじゃない。赤貧は強い胃腸を作るが、広い頭までもたらしはしない。大文学者と呼ばれる連中は、たいてい食うに困らない地主の息子、官僚家のお坊ちゃん、院長社長のご令息、意気地のなさから中退しても、それまでまことに結構な教育を受けて育った者が多く、文芸、つまり文字を使った思想のやりとりは、社会における高階層・角部屋・南向きに受け継がれてきた高級文化遺産であることがよく解る。たまに不良の仕事がもてはやされるのは、文化的背景や教育を欠いた振るまい、発想、発言が、破格的だからであるし、結局それを評価して芸術に位置づけるのは、正統な学歴と業績を積んできた先生と呼ばれる人たちである。文学文学と書いてきたこの文学の意味はさっぱり分からないが(めんつゆでないのは確かだ)、文学的な感動というのは、個人ではなく社会の感動である 。みんながどう思うか、偉い人たちがどう感じるかをまねして感じる、追従といい子ちゃんの出世学だ。巨大アンテナにつながる感度なきブリロボックスだ。大口を開けたマンタに隠れる盲目のアカンタレだ。ポテトサラダのアクトビラペヤングソース焼きそばだ。ポリエステルのナポリタンだ。サイコロのサイコロステーキの6の目だ。

駅のベンチに石像化した老人を見る。コンビニ前の無料WiFiで生き返ったようにゲームする青年と出会う。いそいそと溜め池へ出勤する釣り人とすれ違う。フードコートでメロンをパクつくご婦人にお目にかかる。ほかにすることがないのか、と時間の豊富をうらやみ、趣味の貧困をわらう。文章においても、もう書くことがないんだろうなあ、と思わせることが、好きで読んでいる開高健のやっつけエッセイに多い。老練作家のじゅくじゅくに熟れたレトリックだけが跳梁する内容空疎な文章で、読むのに気力を使うが、脳裡の遺物は少なく、揃っても白一面のジグソーを解かされているような気分で、ことばのピースがガチッとはまる生理的な快感だけが目と指を搾取していく。文学的興味のうすい作品であるが、そういうものに技の凝縮、というか技巧の結晶そのもの、きゅうりの松の飾り切りがきゅうりなしで出てくるような感動がある。書くことがなくても、書き方だけで読ませられるんだ、と文芸の芸の、ただれた芸に参ってしまう。表現の型だけがある。僕はどんなに深刻なメッセージより、この型そのものに生命力の痺れを覚える。表現世界の不思議は表現できない。

このエントリーは無意味だ。形式だけで一記事押し切ってやろうと書き出したのだ。僕には才能がある。言うのを先延ばしにしてもいいが、それは先延ばしの才能である。夏休みの宿題から検尿ぎょう虫歯科検診、浪人留年の周回遅れから今も就職と自立の課題を先延ばしにして、問題は膨らむ一方だ。深刻化する事態に、腕組みの等閑を決め込むあたり、なにをやっても不首尾に終わる凡人の証拠を見るが、これが凡庸ブロガーの勝機である。最後まで黒幕が知れないサスペンスのように、結局意味がわからない『20世紀少年』のように、沈まないタイタニックのように、ずるずると思わせぶりな態度で、なにか起こるのでは、と期待させるだけの書き方ができるからだ。僕が今日用意したのは、なにになにで書くか問題である。記事の下書きを、どのノートに、どんなペンで書くか。B5のルーズリーフかA6のコンパクトノートか、ゲルインキかシャーペンか鉛筆か、いろいろ試して決めかねて、結局ああでもないこうでもないと筆記具をとっかえひっかえ、今はサッポロビールノベルティでもらったモレスキンのパチモンみたいな薄手のノートに、10年前の入試で使ったマークシート用の三菱鉛筆を、ステッドラーの色鉛筆の削り機でちびちび削りながら書いている。この組み合わせが正解だと思わない。ひと月後にはデジタル派になって、タイピング命と言うかもしれない。ただ、こうした迷いを通じて、なにに限らず探求というのは答えを見つけることではなく、あれこれ探してぐるぐるまわる回転運動そのものが僕の答えなのだと、そんなことを思ったのであった。