おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

アイホン

 

しつこい勧誘や悪徳セールスだって撃退できる。

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そう、アイホンならね。

 

***

 

なに教とは明言しないまでも、インターホン越しに神のありがたみを伝えるオバちゃんがやってきた。「ポストに冊子を入れておきましたのでご覧になってください」と言い残し、こちらに「いや」「あのー」も言わさずに消える。いきなりの訪問では、こちらが警戒して追い返されるのが目に見えているので、無理な説得や教義の熱弁はしないで帰るのだ。その去り際のいさぎよさに、平成30年の宗教勧誘はこう淡白であるべきだ、などと感心したのである。

雑談のタブーは政治、宗教、野球という。趣味の不一致がケンカになる。しかしあえて踏み込んで書くと、どう見ても運動音痴の肥満体である男児が、監督の息子というだけで少年野球チームのレギュラーに選ばれ続けるという血の采配を目にして以来、野球、野球にみる汗と涙の根性論、土と日焼けの努力観、スポーツが人格を矯正するという思想(中学で最もタバコを吸ったのは野球部であった)がすべて嫌いになった。野球という競技が憎いのではない。野球の代わりに、首を切り落とした子牛を、馬にのって奪いあうブズカシが日本に浸透していたら、ブズカシを嫌っていただろう。流行りものにはとりあえずNONと言っておきたいのである。

宗教は好きだ。信仰の内容ではなく観察の対象として、実演ではなく座学として好き。少なくとも僕は特定の宗派宗教の信徒ではないと自覚している。しかし家はなにかの宗派に属しているので、とうぜん祖父母の法事ではナニナニ派のお坊さんがやってきてお経を唱える。うにゃうにゃら、なにを言ってるのかわからないし、余りにその儀式めいた儀式がおかしくて途中で笑ってしまいそうになり、本当に笑う。そんなとき母を見ると、坊さんの頭をうしろから指さして、「ハゲやな」と口を動かし、笑いを押し殺している。信仰とはそんなものである。ただなんとなく従ったほうが良さそうなので従っている。これがリアルな宗教観だと思う。駅の「左側通行」と同じ感覚である。

一週間後、オバちゃんは再来する。
「あの冊子は読んで下さいましたか?」
これには面食らった。まさか二度来るとは思わないし、冊子の一読を宿題にされていたのも初めて知った。
「すみません読めてないです」
見もせず捨てたのだ。捨てたと言ってはカドが立つし、なにか悪いことをしたみたいで謝ってしまった。また冊子をくれるのかと思ったら、
「5ページを開けてもらうとですね、幸せとはなにか、どうすれば幸せになれるのか、人類の幸せ、個人の幸せ、家族の幸せとはなにかが書かれています。こういう世の中ですから幸せって大事でしょう。ホームページにも神さまと幸せについてのお話が載っているのでぜひご覧ください。調べるときは――」
一気にまくしたて、また消えるように去っていった。

残念だが、僕は幸せなのである。世間のものさしがどうあれ、僕は幸せな気分でいるのである。なんなら犬マークの代わりに幸マークを表札に貼りつけてやってもいいくらいだ。それを人間ならだれしも不幸だと決めてかかっているところに、この伝道師の落ち度がある。だいたい宗教をやれば幸せになるなら、信仰心の強い国では国民の主観的幸福度が高くなるはずだが、現実はそうなっていないし、むしろ逆の傾向すら読みとれる。「不幸だから宗教をやる」のは説明できても、「宗教をやれば不幸じゃなくなる」は説明できないんじゃないかな。

幸せの秘訣はあんまり考え過ぎないことだ。
その理由? もちろん考えておりません。