おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

リズムの生活

 

生活は無音である。

ライブに行ったり、グッズを買ったり、新譜をチェックしたり、握手会に参加したり、チェキを撮ったり、サイン色紙を売買したり、使用済みコスチュームを落札したことはない。唯一の音楽関連グッズは、ビートルズのTシャツだ。ユニクロでいちばん地味な柄だから買った。白地に白で「The Beatles」のロゴがある。遠目には白一色だ。はじめから無地でよかった。

中学の休み時間は、パカパカケータイを耳に当てて「16和音すげー」と着メロを聞き回した。着メロは着うたになり、いまはシンプルなリングトーンに戻った。流行りのJ-POPが鳴るより、老人が電車でぶちかますボレロカルメンのほうが赤面せずにすむ。遊びで設定した『サザエさん』が、テスト中の教室に響いたときは、冗談でやったという弁解のために、音がやむまで机に伏して笑いをこらえるふりをし続けた。先生は気付かぬふりで巡回し、クラスメイトは聞かぬふりで黙々と解答に打ち込む。曲がループしたとき、生まれ変わりが仏教で罪とされる理由がなんとなくわかった。

音痴なのだ。楽器がダメ、カラオケがへたという話ではない。音楽を言葉にできない。YouTubeやCDの感想を饒舌に語る人がいる。作家を褒めるとき「思っていることを言葉にしてくれる」と言うが、音楽の語りも、モヤモヤをかたちにするという意味で高度な技術だ。音楽史への位置づけ、楽理の言及が入ると隔絶だ。こっちはハ長調イ短調、4分休符と8分休符がわからない。ピアノとオルガン、チェッカーズ一世風靡セピアがわからない。クラブで踊る男女とは趣味が合わないと思っていたが、僕の音楽の聴きかたは快不快、彼らのアガる/アガらないの基準と同じだ。ネットラジオでいいと思った曲をCDで買いなおす。音楽はレビューの得点より直観に従うほうが満足できる。イントロの数秒で好悪の決着はつく。

 

 

f:id:gmor:20180330195005j:imageジャズの本を買った。
村井康司『現代ジャズのレッスン』
 ____『あなたの聴き方を変えるジャズ史』)

 

「自分の敬愛する作家が例えば事務机よりも座机を選ぶからといって、朝の五時に起きて仕事を始めるからといって、便所に書棚を作ったからといって、締切りの前日からでなければ書こうとしないからといって、毎晩銀座のクラブへ飲みに行くからといって、一日に書く枚数を五枚と決めているからといって、必ず下書きをするからといって、いつも和服だからといって、日本古代史の本をたくさん読んでいるからといってその通りにしたところでその作家のような作品が書けるわけではない」と言う筒井康隆が熱狂的なジャズファンだからといって、僕はジャズを聴き始めた。オヤジくさい喫茶店のBGMに我慢すれば、英語の睡眠学習みたいに、筒井康隆語がペラペラになると思ったのだ。「ジャズはこの1枚を聴くだけで足りる」というマイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』を歯磨き、昼寝、読書のあいだにかけ、ジャズのかたちに血が凍るまで聴き続けた。「なにがいいんだ」が「こうでなくっちゃ」に変わる。古今の名盤に手が伸びる。『カインド・オブ・ブルー』はジャズではないと判った。ジャンル全体の雰囲気から遊離したジャズではない何かなのだ。

 

原盤のライナーでビル・エヴァンスが「日本の墨絵のような音楽」だと述べているように、ここでの「一回生による抑制の美学」は、もしかしたら本人たちの思惑よりはるかに高い次元に達してしまっている。だから、これは「信じがたいほどに美しいアート」なのだ。にもかかわらず、いや、そうであるからこそ、『カインド・オブ・ブルー』は「ジャズというジャンルの代表作」にはなり得ないのではないか。これは僕の個人的感想なのかもしれないが、このアルバムは、ある「ジャンル」という文化的枠組みの中で語るには、あまりにも「アート」として完成度が高すぎるように思える
村井康司『現代ジャズのレッスン』

 

本はこの感覚を趨勢、奏法、構造から裏書きする。

 

 

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音楽本の不満は、「クールなサウンド」「ソウルフルな演奏」と言われても、曲を聴くまで、実感がわかない点にあった。

聴きながら読み、読みながら聴くと、うわついた音に解釈のひもがつき、解釈された音がことばに響いて、今度は意味が鳴る。語彙が音感を包む。羊の群れを囲い込む。こんな音楽=文章体験はしたことがない。

音痴の知、疒外れるか。