おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

物と物との相働く世界

 

下界へ降りる。

ナチス・ドイツを研究する教授の授業を受けたとき、小教室のスクリーンで映画を観た。ナチスの党大会の模様を映した『意志の勝利』である。ヒトラーを乗せた飛行機が、雲間からふっと姿を現し、天空から使者が降り立つように見える。「何度観ても鳥肌が立ちますね」と指し棒を機影に当て、男が語る。教室には「なに言ってんだコイツ」という空気が蔓延したが、今では先生の興奮も解らないではない。

下界へ降りる。
飛行機ではなく、階段を使って。

段は高い。踊り場までの距離も長い。1階降りるのに、ふつうのビル2階分の体力がいる。壁には「左側通行」「カバンやスマホを見ながらの昇り降りは危険です」「出退勤のスキャンは終わりましたか?」という従業員への注意喚起、響かない経営理念、営業目標の未達成をいましめる棒グラフが、所せましと貼ってある。ストリップなら美女の顔写真がある場所だ。ここには人を歓待する赤の垂れ幕もなく、幻惑する紫の照明もない。グレーの壁と床と天井と、節電のためにあばら骨が1本取り除かれた蛍光灯があるだけだ。張りだす鉄柱も、ねずみ色のアスベストでびっしり塗り固められている。 合理性の冷たい腸のなかをぐるぐると回る。これが村上春樹の小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』なら、主人公がエレベーターでポケットの小銭を数える場面だが、僕は自分の足で階段を降りながら、飴4つと、Bluetoothのイヤホンの所在を確かめている。

下界へ降りる。
息抜きの小道具を数えて。

人のブログを読むと、職業が気になる。肩書きは有職無職を伝えても、実際の労働の手つき足つき、時間割、汗、冷や汗の出るところまで知らせない。そのくせ自分とは縁遠いタレントや広告ディレクターの華々しい仕事術にだけは詳しいのだ。この社会を支えているのは名も知れぬ人々の地味な労働である。ブーアスティンも言うではないか。「有名人の支配する今の世界では、奇妙なことに真の英雄は匿名人としてとどまりがちである。……単に人に知られているということよりも、もっと実質的な理由で賞賛される、確かな美点を持った人は、しばしばたたえられない英雄として終わる。それは、教師・看護婦・母親・正直な警察官、孤独な、薄給の、魅力のない、人に知られない仕事に精出している人たちである」と。

これは労働賛歌ではない。「うんと働け、長時間働け。人は過労が原因で死にはしない。浪費と悩みが原因で死ぬのだ」と言うチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ式のメッセージとは真逆である。早着の代わりに遅刻を、残業の代わりに早退を、信用より二度寝を、アリよりキリギリスを、ほめ言葉よりくそ味噌を、仲間より自分を、明日より今日を選ぶ人間の、業務報告である。

 

***

 

 午前5時

道男はバックヤードの汚さには慣れてしまった。 大型スーパーの裏側を初めて歩いたときは笑いが止まらなかった。ダンボール、プラスチックの折りたたみ式コンテナ、むき出しのまま商品を載せた荷台車が、40メートルはあろう通路の端から端まで、1台の駐車スペースも余さず、ぎちぎちに詰めてある。その乱雑さに驚いた。ケチャップ、粉末青汁、うずら卵を入れたダンボールを、子どもが遊んだ積み木みたいに、箱の大小を無視してでたらめに積んである。かと思えば、ゼリー飲料を100個てんでばらばらに敷いた板の上へ、乾麺、小麦粉、しそのふりかけが置いてある。米袋の腹で、透き通った栗ようかんが一つだけスッと直立していたとき、現代アートを見たものかと錯覚した。散らかった荷物の山の向こうで「整理整頓」「片づけられない人は入るべからず」「きれいな職場がうれしい」のステッカーの文字がむなしい。

朝一の仕事は日用品の補充だ。ここで道男ほか十数名の人間にまかされた仕事は、空いた棚に商品を補充すること、これに尽きる。朝起きられずに辞めた奴のポストへ新たな人員が補充される。物を並べ、物によって人が並ばされる。両者の差は、管理番号をバーコードとして持つか、社員証として携帯するかの違いである。

生理用品は女が扱うものと不文律で決まっている。若い男は意識して寄りつかないが、中年となるとお構いなしである。甲羅を忘れた亀のように言動おぼつかない水川は、商品名をいちいち声に出して復唱しないと、棚の名札と一致させることができない。ナプキンの包みを小脇に抱え、
「はだおもいはだおもいはだおもい…」
「多い日の昼用、多い日の昼、多い日…」
「超朝までガード、朝まで、超朝まで…」
と繰り返す。

年配の女たちが古いアルバムを見返すようにナプキンを並べる姿とはまた別の、一段とつめたい哀愁が漂う。

日用品のつぎは加工食品だ。道男はバイトを始めてから、にぼし、ワカメ、キクラゲ、かんぴょう、干ししいたけが好きになった。重量が気に入った。かつおぶしは赤ちゃん用の風呂桶ぐらいあるダンボールで届くが、空気のように軽い。個人の作業成果は、周りに散らばるダンボールの量で計られるので、箱は大きくても中身の軽い乾物が、最も仕事しているように見えて、仕事せずに済むのである。阪急グループ創始者小林一三は「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」と若者を励ましたが、道男はそういう頑張りとは無縁である。

店には直轄の社員、バイトのほかに、シルバー人材センターから派遣された掃除夫がいる。パリパリの白髪が氷晶みたいに析出した70代の老人が、グレーの作業ズボン(出勤前からずっとこの恰好である)のポケットに手を突っ込み、空いた片手でモップを押し押し店内を徘徊する。未開封の荷物とばらされたダンボールのあいだを縫うように進むので、床の清掃にならない。道男は作業中、背中をモップが通るたび、自分が邪魔もののように思われて不快である。時間をずらせば誰もいない何もない通路を効率よく掃けるのだが、彼は気にしない。言われたことを言われた時間に言われた通りにやるだけだ。濡れた床を台車が通ると、車輪のホコリが水分に引っ張られて黒い筋が残る。それをモップで拭くと、また床が濡れて、走る台車が黒く尾を引く。老人は首をかしげて、従業員をうらめしそうに見ながら再々度モップをかける。道男はこの、いつ果てるともしれない、砂場の砂を掃くような無益な労働を目にすると、自分の品出しの仕事もしょせんは同じ徒労の一種なのだと痛烈に自覚させられる。シジフォスは転がり落ちる巨石を山へ運び続けたが、僕らも明日には空になる棚へ商品を置き続けるのである。

 

 

 午前6時

トラックが着く。一番乗りはパン屋だ。蛍光ジャンパーの男が背丈より高く積んだパンケースのかたまりを、ベルトで縦に5台連結させて、店内へと運び入れる。首を左右に振り出して前を見つつ、人ひとりの幅しかない入口へ、器用に巨大な棒線を押し込んでいく。人は熟達すると精密機械を上回る。それは町工場の職人がもの言わず語るところである。しかし道男は、自分がぽん酢のささいな位置の違いをめざとく見つけてしまうとき、ダンボールをあっという間に潰してしまうとき、コロッケのパックを一度に5個も6個も掴んで並べているとき、いつのまにか品出しという作業に慣れ、そのつまらない労働の型が体に染みついていること気づいて、ぞっとする。人間が習慣の産物だと見抜いたのはアリストテレスだったか。パスカルはまた「習慣が、石工、兵士、屋根屋をつくる」と言った。毎日の品出し作業が、道男という人間を、スーパーの店員として、単純労働者として、商品経済の末端構成員として、完成に導く。

惣菜、豆腐、ヨーグルト、牛乳、野菜、肉が続々と到着する。食品は潰れないよう合成樹脂のラックに小分けにされている。運搬中の荷崩れを防ぐために台車まるごと業務用のサランラップでぐるぐる巻きである。このビニルの膜をカッターで破いて丸めたゴミが、開店前のスーパーでは通路のいたるところに、蛾の産み落とした卵みたいに転がっている。

道男は銀台車と呼ばれる、保冷シートつきの台車を運ぶ。これには肉が入っている。自販機くらいある大きい台車を2つ繋げてバックヤードを走るので、過去にコーヒーのペットボトル100本、うどんだしの粉末200個、板チョコ300枚を床にぶちまけたことがある。片づける仲間が口々に、
「こんなところに置く奴が悪いんや」
と慰めるが、置いたのは10分前の彼らである。

 

 

 午前7時

道男の全権は、1枚のA4紙に握られている。どこになにを置けばいいのか、商品名と位置を教える陳列指示書が不在の上司を代表する。社員は8時を過ぎないとやって来ない。道男はこの仕事を顧問のいない部活だと思っている。バイトが集まり、互いに指示や命令を出さず、慣例に従ってなんとなくその日の仕事をやりおおせている。上役の監視と客の目がないので、みな作業中に持参した飴やチョコを食べたり、電話したり、メールしたり、勝手に帰ったり、自由である。なにをしても2ヵ月と持たなかった道男が、このバイトだけは1年と続けられた理由である。

道男は豚だ。毎日センターから送られてくる豚肉パックを、指示どおりの順番で並べる仕事をしている。彼の役割は、それ以上でも以下でもない。ロボティクスとAIの発達した時代には、まず失くなる職業だろうが、案外こういうこまごました、機械化するまでもない単純で煩瑣な作業が、人間最後の活躍の場となるかもしれない。機械は人間の消費を最大のステータスとしている。ここに並ぶのも豚や鳥ではなく、国産人肉かたロース、人肉の小間切れ、人肉の切りおとし、人肉のももうす切り、アメリカ産人肉ヒレかたまり、スペイン産イベリコ人肉ばらうす切りに取って代わるかもしれない。道男は作業用のメタルテーブルの上で太ももが一枚一枚うすくスライスされていくところを想像して寒気を覚える。実際、寒いのである。冷蔵ケースは夏でも1~2℃を保つ。このケース4段20面を豚肉で埋め尽くさねばならない。パックは3段積みで、奥まで2,3単位を入れるので、総数は500を超える。台車から陳列ケースまでの肉の移動に、道男の血と骨、汗と呼吸が費やされる。

苦痛である。急げば30分で終わる作業を1時間かけて行う。早く終わってもすることがない。かつて道男が仕事に慣れた頃、
「お前もゆっくりやる技術を身につけたな」
と言われたことがある。これは嫌味ではない。他部門を手伝うと「はやく終わったらどうする」という顔をされる。だから道男は、時計を見つめて何もせずに1分が過ぎるのをじっと待ってみたり、一度並べた肉のパックを崩してもう一度並べ直したり、裏へ回ってシフト表の出欠を1日1日指で追ったりすることで時間をつぶす。人を不能にするには鉄格子や足枷、重労働は必要ない。暇を与えてさえやればいいのである。なにもしないことを強いられる動物園の動物の命は短い。

 

 

 午前8時

冷凍食品が届く。カゴ台車3台に、アイス用の保冷台車1台である。道男は冷食を食品だとは思わない。食べものにあるまじきその硬さは、積むとレンガを並べているような気分になる。冷凍ケースに腕を突っ込んで作業すると、指の感覚がしだいに消える。朝から何も食べずに動きっぱなしなので、腹が減ってフラフラする。雪山で死ぬときはこんな感じなのだ。こびりついた霜の世界でそう思う。俺は一体なにをしているんだろう、と虚無が立ち上がってくるのもこの時間帯である。

ベテラン店員の北見が、
「そろそろキチガイ水いこか」
と道男を誘う。神事も人事も酒だ。この仕事の終わりもアルコールである。北見は60代の男で、クモが脚をひろげたみたいに長年の肉体労働の跡が顔にくっきり刻み込まれている。現場では誰より元気だが、更衣室で見る彼の姿は、背を丸めて、筋だらけの腕で肌着を取りかえる老バッタであった。道男は、北見の言動に昭和の清香と悪臭を感じる。

「お前こんなところで仕事してたら将来まともな社会人になられへんど」
「わしらが現役の頃は残業100時間200時間なんて当たり前。高熱でも這っていく。どんな病気に罹っても、向こうが頼むから来んといてくれ言うても、行った。お前も根性出さんかい」
道男は適当な相づちでオヤジの相手役を務める。

キチガイ水”は多すぎる。金麦、麦とホップクリアアサヒ、頂、のどごし生、のどごしストロング、のどごしZERO、アサヒオフ、スタイルフリー、極ZERO、淡麗プラチナダブル、グリーンラベル、極上(生)、ラガービール黒ラベル一番搾りスーパードライヱビスマイスター、華みやび、プレミアムモルツ、香るエール、エトセトラ、エトセトラ。酒を飲まない道男にはすべてが同じに見える。名前と数字と宣伝文句が書き出されたアルミニウムの壁である。コンビニの冷蔵庫では目立っても、ここでは同業他社が多すぎて、結局なにを飲んでも同じなのだという悲しい直観だけが得られる。

道男はここで働く人間が日中なにをしているのか知らない。また別のパートへ赴く主婦、フリーター、2時限目へと走る学生、創作活動にいそしむバンドマン、芸人、孫と遊ぶ年金生活者、本業へ向かう居酒屋の店主、その嫁、タイヤ屋、クズ屋、デンキ屋。噂ではそんな顔をもつ人間が集まっていると聞くが、互いに深入りはしない。となりに並んでもビール缶のように孤独である。皮で分断されたキチガイ水である。

 

 

 午前8時57分

道男は裏手をゆっくり歩いて時間を稼ぐ。コンクリ張りの廊下は、塗装が落ちて、山のけもの道みたいに、人の通るところだけ地肌が丸見えになっている。何万回、何十万回と人に踏まれ、台車に轢かれ、荷物に擦られ、削られ、均されて、鈍い銅のように黄色みがかっている。頭上の蛍光灯がむらむらと照り返る。コンクリートも磨けば貴金属の輝きを得るらしい。しかし、俺はいつまでこんな所にいるんだろう。いつまでここで若い肉と思考を摩耗すれば、光るものが得られるのだろう。道男は、ハエ捕りの青い誘引灯のしたで、事務所へと向かう階段を登り始める。