おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

マイ瞑想法

 

スタンフォードの自分を変える教室』を読んで瞑想を始めた。ものごとをやり通す力が鍛えられる。「ストレスも減少し、気が散るような内的な要因(欲求、心配、欲望)や外的な誘惑(聞こえてくる音、見えるもの、匂い)に惑わされない」と言う。ほかにも創造性が豊かになる、免疫力が高まる、記憶力が向上する、頭が良くなる、エアコンのフィルターが臭わなくなる、自転車のパンクが直る、水道代が安くなる、定期預金の金利が上がる、親戚から有名人が出る。流行りの本を開くと、瞑想のちからが及ばぬものはないと言わんばかりに、ありとあらゆる効能が載っている。

タイマーをセットして床にあぐらを組む。目を閉じ、呼吸を意識する。集中できるのは最初の15秒だけで、「この後なに食べよう」「あの動画まだ見てなかったな」「ライン返さないと」という日常茶飯事、「なんでおれはあんな事してしまったのか」という嫌な思い出にこころ奪われる。途中で立ち上がってタイマーを消す。意志力を鍛えるらしい瞑想を、続ける意志力がそもそもないのである。

アプローチを変えて、瞑想の元ネタである座禅、その源流にある禅の教義教則に踏み込んでみる。

『現代哲学事典』山崎正一市川浩編 / 講談社現代新書によると、禅には4つのフェーズがある。

第一禅:心の分別作用+喜+楽
第二禅:喜+楽
第三禅:楽
第四禅:…(無)

心の分別作用を停止させるなんて生きているうちには達成できない。分別とは、ことをわけること、ことわりである。『創世記』の神は、光と闇を分けて昼夜をつくり、水を分けて大地と海をつくった。これは私たちのものごとの理解の方法、理性の働きかたそのものである。自他を区別するから、自分の靴下が穿けるし、他の布きれと区別するから鍋つかみに足を通さずに済んでいる。区別のラベルは、ことばである。雑多な個物の集まりから、共通の特徴を抜き出して犬と猫と男、さらにポチとタマとしみけんを見分け、聞き分け、知り分ける。「分別作用をなくす」とことばで考えること自体、ひとつの分別なのだ。禅宗の奥義は不立文字、つまり文字に依らないことを第一とするが、それを訴える「不立文字」がすでに文字なのだから、張り紙を禁ずる、という張り紙を見せられるようで、困りものである。

喜・楽の説明は事典にないので、自己流に解釈する。喜は、外部の刺激にたいする五感のリアクションと捉える。外を走る車や居間のテレビの音、着込んだ服のあたたかさ、座る床のつめたさ、かたさ、のような感覚を忘れるよう努める。楽は、内面的に整合のとれた感じ、満ち足りた感じ、それを感取する私という感覚のことだと考える。それらを薄めて、私を何者でもない存在に解消するようなイメージを持つ。するとその先、10秒に満たないわずかな時間、なにも頭に浮かばない状態になることがある。これが気持ち良いのだ。無はすぐ「お風呂に入らなきゃ」という雑念にとって代わるが、そしたらまた始めに戻って、分別作用を消すべく格闘するところからやり直すのである。

 

理屈はいいから実践だ。

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スマホのタイマーは味気ないのでロウソクを使って雰囲気を出す。パッケージの「燃焼時間 約12分」は「約」の一字がありがたい。時の流れに刃を入れてチクタクと小間切れにする近代的な時間を生きる身には、火が消えるまで、という悠長な感じが心地よい。

 

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ロウソクの明かりだけを見ていると、部屋の境界線が失われて、ものの大小の感覚がおかしくなる。なにもない宇宙空間を、ロウソクと対峙したまま漂っている気がしてくる。ロウが枯れて芯が倒れると、皿に残ったわずかな燃料を吸って、青白い炎がとぼとぼと輝く。その丸く小さな光のつぶが、消えようとして最後の収縮を始めるとき、まるでひとつの銀河が、皿の奥の宇宙へ音もなく飛び去っていくように感じる。かつてロウソクの前で瞑想した古人たちも、同じような光景を目にしたに違いないと思うと、ひとりで勝手に深い連帯感を覚えて感動してしまう。

こんなことしても意志力は身につかないし、女にもモテない。宝くじ、競馬、パチンコは当たらない。でも、それでいいのである。道元は「座禅は習禅にあらず」正法眼蔵と言った。座禅は禅を習得するための手段や方法ではなく、禅そのものなのである。瞑想を、なにかメリットを得るための手段として使うあいだは、真の効能など得られはしないのだ。