おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

才能のない人間だけが、ネタ切れを嘆く

 

どうも、かたむきみちおです。

労働が肉体を彫刻する。というのは、腰がくの字に折れた農家、びん底メガネの学者、シャリのかたちに指の曲がった寿司屋、塩化ビニルの人形みたいなAV男優を見ればよく分ることです。人が外部へと、つまり広い意味での自然にたいして、どう働きかけているのか。その反作用が鋳型となって、人体をかたち作ります。工事現場のおじさんが、暑いなか、長袖のジャンパーを着ています。ワンサイズ小さいせいか、服がパンパンになっていました。僕はいや、日々の過酷な労働が彼の肉体を鍛えたのだ、と気付きました。顔の肉が落ちて骸骨のかたちに皮が張りついただけになった老年の作業員ですら、ボディビルダーのようにぶ厚い胸板で鉄パイプを運搬しています。そのちぐはぐさがおかしいと思って見ていると、炎天下の作業用に作られた送風機つきの上着を着ていただけでした。

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さて今回は『映画と恋とウディ・アレン』というドキュメンタリー映画から創作のヒントを学びます。

私たちはウディ・アレンではありません。あなたが黒ぶちメガネのハゲたユダヤ人である可能性はありますが、免許証にアレン・スチュアート・コニグスバーグと記載がない場合、あなたはウディ・アレンではありません。高校生のとき、コメディアンや新聞社に自作のジョークを売りつけて、すでに両親より稼いでいた男とはそもそも資質が違うのです。『天才たちの日課』という本がありますが、そんなものをまねても天才になれないし、天才になろうという発想じたいが凡人の証明です。世田谷ベースにあこがれた中年会社員が、アメカジに手を出し、米国製のビンテージ雑貨を集めても、所ジョージにはなれません。皮膚にまで染み込んだサラリーマンのモラルのうえに、趣味が遊びが模様として滑っていく様子に哀感をみるだけです。だからウディ・アレンのまねをしたって意味がありません。それでもそとづらを似せれば、いつか本物になれるかもしれない、と信じることに救いがあるわけです。

ドイツの老人ホームでは、脱走しようとする認知症の入所者を集めるために、ニセモノのバス停が用意されています。職員はこれで脱出願望を持つ入所者を検出できるし、逃げ出そうとした場合には一網打尽にできる。一方、老人には車も自転車もなく、足も弱っておぼつかず、頼るべき身寄りもおらず、脱出の機会をバスにかけるしかない。逃げても逃げても敵の手中、というのはおぞましい話ですが、老人にとっては一生来ないバスを待つあいだ、ここから抜け出せるのだと思えること、それ自体が一種の救いになっているとも言えます。問題は老人ホームを成人ホーム、小人ホームへと拡張したとき、そこにニセのバス停はあるか、ということです。中年の危機に陥った男は世田谷ベースで、人生の落伍者は成功指南書で、凡才は『天才たちの日課』で各自のバスを待ちます。そういうものの延長に、僕にとってのウディ・アレンもあるということです。

多作家の彼は「そんなに撮ったら、もう題材がないだろう」と言われた際に「映画のアイデアは無限にある」と答えました。この姿勢です。才能のない人間だけが、ネタ切れを嘆くのだと思い知りました。彼がすごいのは、実際にアイデアが無数にあることです。ベッドサイドのテーブルに、思いつきをメモしたイエローのリーガルパッド、ホテルの便せんが山と詰め込んであります。映画の脚本を練るときは紙束をベッドにぶちまけて一枚ずつ目を通し「これは違う、これはいける」と選びます。

これをみて外山滋比古『思考の整理学』を思い出しました。たとえば、メモを溜め込むことは「アイディアと素材さえあれば、すぐ発酵するか、ビールができるのか、というと、そうではない。これをしばらくそっとしておく必要がある。…”寝させる”のである」に相当するアイデア醸造の過程であり、ベッドでの読み比べは「(テーマが)ひとつだけだと、見つめたナベのようになる。…テーマ同士を競争させる。いちばん伸びそうなものにする。さて、どれがいいか、そんな風に考えると、テーマの方から近づいてくる」にあたる主題発見のプロセスです。僕はウディ・アレンの脚本づくりに、シンプルで強力な、知的生産の方法をみて感動しました。

 

僕は普段からめったにメモをとりませんが、早速、机の一番上のひきだしを「アレン・ボックス」と名付け、日々の思いつきを書き溜めることにしました。

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そうやって出来たのがこの記事です。

残念ながら、これで僕のアレン・ボックスは空になってしまいました。ネタ切れなのでこれ以上は書けません。