なつやすみのにっき

 

古代ギリシア人は好んでセミを食べた。唐揚げにマヨネーズをかける。パリパリの羽根の食感は口にしないでも分るが、内臓に歯ごたえはあるのだろうか。オレンジ色の腹を見せて、道にばたばた転がっている死骸を見ながら、空想で胴体をしゃぶる。涼みがてらスーパーに入ると、売り場の季節感を盛り上げるために、ラジカセでセミの鳴き声が掛かっていた。セミを獲って食べるのと、録った声を聞かせるのでは、どちらが奇習だろうか。

仏教では、人に執着を起すものとして六境(色・声・香・味・触・法)を想定する。なかでも一番有力なのは視覚である。斎藤緑雨は言った。

  • 人は鏡の前に、自ら侍(たの)み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具にあらず、迷ひの具なり。一たび見て悟らんも、ニたび見、三たび見るに及びて、少しづつ、少しづつ、迷はされ行くなり。
    『緑雨警語』(冨山房百科文庫

手鏡を開くたびに人は狂っていく。整形美人の歪んだ顔を見ればよく分ることである。

アイマスクと耳栓をして昼寝をする。ベッド脇の窓にカーテンがないので、部屋を暗くするには目を覆うしかない。耳をふさぐのは社会の回転音を聞かずに済むからだ。そうすると独居老人の遺体のように、よく眠れる。あまりの睡眠の深さに、もう帰って来れないんじゃないかと夢で不安になるほどだ。鉛の皮から脱皮できないヘビである。かたい殻のすぐしたで、生身の僕が手足を揺らして起きようともがくが、皮のかたまりには一動作もない。いわゆる金縛りである。僕はこれを霊の身分証明でなく、安眠の証拠として受け取っている。

六境に対する肉体の感覚を六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と呼ぶ。そのうち眼と耳を閉じて寝るので、起床後は、昼食を抜かれた駄犬みたいに、与えられた感覚をむさぼってしまう。抜いた耳栓のにおいを嗅いで鼻識を満たし、意識では「チーズみたいなにおいだな。きっと最近よく食パンの上へクリームチーズを乗せて食べるからだな」と理性的な分析を加え、表から裏から耳栓を眺めまわして、張りついた耳垢の大小、色かたちを点検する。これが癖になってしまった。飛行機で仮眠から目覚めたあと、外した耳栓を嗅ぐ。「あ」と気付いたときには、となりの客の眼識がいきり立っていたことがある。

衣替えで、押入れの奥から夏物を引っぱりだすと、一番下に敷いてあったお気に入りのTシャツに、コーヒーをこぼしたようなしみが点々と染みて、茶色のぶちになっていた。洗濯せずにしまったのかなと思い、手にとると、米粒のような小さいホコリがあちこちについている。不思議なのは、そのホコリが方々好き勝手に動いていることだ。目を凝らすと、ホコリはすべて虫であった。ダンゴムシを脱色して縮めたようなやつで、灰色の、半透明の背中から、もぞもぞと、布を掻く無数の手足が透けている。そういえば去年の冬に、同じ虫を家のいたるところで見た。一体どこから沸いたのかと不思議に思っていたのである。するとあの茶色いしみは虫の排泄物だろうか。マンションを一棟まるごとビニール袋に入れて処分した。

西田正好『一休』に僕の好きな逸話がある。一休は29歳のとき、自分の大師匠にあたる、高名なお坊さんの三十三回忌に出た。関係者はとびきり上等な服を用意して、めいっぱい着飾り式典に臨んだが、一休だけは今でいう、スウェットにクロックスでやって来た。なんだその格好は、と咎められた一休は「にせ坊主どもめ。お前らの引き立て役を買って出てやっているのだ」と言い返した。その真意は、「うわべだけ着飾ってさも禅僧らしくふるまいながら、じつのところ、肝心の道心をすっかり見失ってしまっている禅僧たちへの、激しい憎悪」であった(同 p.97)

ゆるいTシャツに色落ちした半ズボン、水たまりで滑る底のちびたサンダル姿で大阪を出て、銀座を歩いた日、僕は一休の話を思いだした。ここにはブランド品を身につけた人間ならいくらでもいるが、ほんとうに高級な人間は一人もいやしない、と毒づき、左右14本の足で道を掻いた。僕はシルクの街を進む虫であった。