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おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

いい仕事をするために

 

お金を使わなかった日は、手帳の日付を赤く塗る。「節約してエラい」の印だ。嘘をつくな。家賃、食費、光熱費はどうすると自立した社会人なら思うだろう。僕は実家暮らしだ。その気になれば、親が死ぬまで寄生していられる。バイト先の先輩は言う。「親孝行? なんだそれは。親のスネはかじれる時にかじっておけ」。僕はメンターという言葉の意味が分からず今まで使わなかったが、この人こそが僕のメンターだとそのとき確信した。

カレンダーが赤く染まれば、節約に成功した月だ。競馬で1日に20万円を失っても、残り29日がすべて赤なら、出費を抑えたことになる。2月は過半数の17日を赤く塗ったが、手元にお金は残っていない。どうせ次の給料日が来ると思って、お金があれば、あるだけパチンコにつぎ込んでしまう。

「毎日が同じことの繰り返し」とは、授業に出ない学生のぼやき、不倫に走る主婦のつぶやきではない。アリストテレスが言うように「人間は習慣のかたまりである。(ゆえに卓越は、いち行為ではなく、習慣に宿る)」のだから、人はだれでも同じことを繰り返す。覚せい剤の常習者も、クスリを打つという習慣を持つ以上は人間だ。薬物追放キャンペーンの「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」は「覚せい剤やめますか、そうして人間やめますか」と言うのが本来正しい。それが証拠に、中毒から更生したと語る芸能人をみると、みんな人間の抜け殻のような顔をしている。

パチンコ店は朝から満員だ。ずらっと並んだ一列の白髪頭に、ときどき休符を打つようにハゲ頭が現れる。客の大半は年金生活者だ。病院の待合室を裏返しにしたような奇妙な光景である。趣味貧乏のあわれな老人どもめ。おれは年老いてもああはならない。そう思っても、いずれ同じ道を辿ることになる。

20代後半ともなると人間の弾道が見え、生活の枠が決まる。フリーターの僕は、このまま社会に求められない人間として、暗く凍てついたコースを歩むだろう。中国哲学者の森三樹三郎が『荘子』の逍遥遊篇、その解説部で述べた「社会的に無用とされるものは、それゆえにこそ、世のわずらわしさから開放され、個人の自由な生活を楽しむことができる」という言葉に、なぐさめを見いだすほかない。老年になれば絵が固まる。毎日変わるのは日付けと天気だけで、あとはひたすら過去のパターンの反復だ。必然のうちに消化するものを余生と呼ぶ。老人は、固着した日常にわずかながらの偶然を引き込み、どうなるか分からない未決の未来を遊ぶためにパチンコ台へ向かう。僕もその老人のひとりだ。

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ショッピングセンターで彼女のトイレを待つあいだ、そばの本屋で千原ジュニアの『うたがいの神様』を読んだ(この時ほど女子のトイレの長さに感謝したことはない)。「『そんなに忙しいのに、休みの日まで出掛けて疲れませんか? 大変ですね』と、言われて。いやいや、疲れてない。それに、疲れていたとしても、『別に疲れててもいいんちゃうかな』と思うんです。それが遊ばない理由にならないだけで」という箇所にドキッとした。休日に繁華街までやって来て、人混みのスープに混ざり、溶かれ、掻き回され、わざわざ疲れるのは馬鹿げていると感じ、デートに嫌気がさしていた。母はハワイ旅行の直前、家にのこる僕と父に「よく遊ぶ者がいい仕事をするのだ」と言い放ち、勇ましくひとりで2台のキャリーを引いて出て行った。専業主婦がいい仕事を語るのは妙だが、言葉には説得力がある。

ブログに置き換えると、よく遊ぶ者がいい記事を書く。遊ぶ者がいいネタを拾う。家にこもりきりでTVを見、たまに外出したかと思えば、パチンコで散財するだけの僕は、つねに題材に困っている。そのギャンブルだって本気なら一流のテーマだ。妻子に黙り数百万円の借金をつくった男が、競馬で返済してみせると言い、週末になるときまって十万円単位の負けを報告するブログがある。競馬で借金を返すとは、扇風機で火事を消そうとするようなものだが、生活を賭けた勝負には馬券一枚の購入にも異様な迫力がこもる。休日のひまつぶしに興じるようでは、社会人として適当でも、ギャンブラーとして失格だ。そして私生活を切り売りするブロガーとしては後者のほうに魅力がある。タモリは、ゴルフ中にふざける仲間に向かい「真剣にやれ。仕事じゃないんだぞ」と怒った。遊びが遊びにならないくらい本気になれる遊びは、どこにいけば見つかるだろうか。

 

 

 

 

【今週号のパーツ】

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・パターンの使いまわしが知の衰退である

 

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