旅する文章

 

旅で困るのは荷造りだ。初日はこれ次の日はこれ予備にあれも持って行きたいが欲張るとかさも張る。季節にあい、テーマに即し、移動に叶い、土地の風景に沿うような完ぺきな装備で家を出たい。服? ちがう、本のはなしだ。着替えより本の選別に時間がかかる。ほんとうの読書好きは本に触れたが最後、一読巻を措くあたわずして、read from cover to coverにして、「針を打ったそばから頭のなかがキーンと零下52度まで冷えて、脳細胞が氷みたいに透明になって、すっきりして、みるみるもやが晴れて、うおーおれは神だーって気がして、立ち小便のターッと壁を走る音に宇宙の旋律を感じて、見るもの嗅ぐもの触れるものみんなみんな美しくて、おれはこの世界の住人になるんだって思った」りして、旅のことなど忘れて、ついに出発しないものである。遅れたらやばいと思って早め早めに駅、空港に着いてしまう僕なんかはまだ愛好家として素人から皮一枚へだてた初級者、待ち時間にふらっと寄った書店から出られず、列車、飛行機のひとつやふたつ乗り損ねて、はじめてまともな本好きと呼べる。

読書会に行くと、上級者は「1年に300冊読みました」「蔵書がついに1万冊を超えまして」とむやみに自慢しない。どのくらい読むんですかと訊くと、静かに2本の指を立てる。
「娘2人の結婚式にどちらとも行きそびれましてね」
負けじと横から3本指の手が入る。
「わたしは本がもとで自己破産が3回」
おお、と感嘆の声を漏らす一同。すると場内後方から手が挙がる。目をむき出して固まるサラリーマン、コーヒーカップを持ち上げたまま口をあんぐり開けた主婦、耳に手をあててブルブル震えだす大学生。見れば、なんと5本指だ。あいつはなにをやったのか。かたずをのむ人山にすっと切れ目を入れるように店員が割り込む。ただの注文だったのである。(僕は読書会に行かない。人付き合いのわずらわしさを嫌って家でしっぽり本を読んでいるのに、どうして人と本を読まねばならんのか。ひきこもりの道具を社交の用具にするとは、しゃもじを靴べらにするが如きふらちである。「多様な意見に触れる」をメリットに挙げる人がいるが、われわれの耳は、他人の意見を聞くために2つ用意されたのではなく、横になったままテレビを見るために進化したのだ。)

猿人と厭人のハイブリッドで動く僕が、気乗りしない社交行事にどうしても参加せねばならぬとき、護符のように持ち歩く1冊の本がある。茂木健一郎という天然パーマの高学歴タレントが書いた『セレンディピティの時代――偶然の幸運に出会う方法』である。もとは2年で休刊した男性向け雑誌『月刊KING』の連載記事で、まんがイラストの多用もあいまり、内容はすこぶる軽い。しかしその軽さが、僕の人間的うつろに共鳴する。たとえば旅の項、

人生の大切なことは、自分ではコントロールできない。これは「開放系」として機能する脳ミソを持った人間の宿命である。人間の脳の中には、常に新しい情報が入ってくる。周りから、どのようなことが飛び込んでくるか、予想などできない。旅はその「予想外」が普段よりはなはだしくなる時間帯。その意外性を楽しめなければ、そもそも旅する意味がないし、偶然の幸運との出会いも見逃してしまう。

出発前の土壇場になって湧くものぐさ、旅の途中のストレス、しんどさをはらうために繰り返し読む。人と会うのがイヤな日には、「不安や恐怖などのネガティブな感情こそが、新しいものとの出会いと結びついている」という一文を読む。自分の生き方に自信が持てなくなったときは、「表現は生き方の果実なのである。ヌルい人生からは、ヌルい表現しか出てこない。心に響く言葉の背後には、必ず、厳しくも妥協しない生き方がある」を読む。「身体を張ってこそ、どうなるかわからない未来に思い切り身を投じてこそ、世間ときちんと交わってこそ、人の心に届く言葉を吐くことができる」を読む。本来ならば、部屋の角で膝を抱えて丸くなり、自分ひとりの宇宙で四十六億年の孤独にたえながら、ありえたはずの未来をえんえんと思い描き、歯ぎしりし、内側から絶望に突き破られて死んでいくつまらない一個の生命体であるところの僕が、人と繋がりを持ち、人と繋がることを良いことだと信じていられるのは、この本あってのことだ。言い過ぎではないかと思うかもしれないが、もちろん言い過ぎである。

例によってここからが本題だ。本書に次のような一節がある。長くなるが、引用と女の髪は長いほうがいい。

賢明である女性たちの中にも、ちょっと客観性、社会性がなさすぎるんじゃないの、と思われる一群がいる。それは「おばさん」と言われる人たち。……私が考える「おばさん」の定義は、思ったことを何でも口にしてしまう人のこと。その言葉が他人にどう聞こえるかなどということには一切頓着せずに、心に浮かんだことを考えなしに何でもしゃべってしまう。私は、これを密かに「無意識の垂れ流し」と呼んでいる。

週1回、福祉施設で行うボランティアの関係で、平日9時過ぎの電車に乗る。あらかた普通のリーマンを運び終えた電車には、10時始業のパート従業員、百貨店向けにめかし込んだ奥さま、資料を読んで集会に備える宗教信者など、大阪で言うところの「おばはん」が満載である。四方から聞こえるのは、例のおしゃべりだ。それを心で「無意識の垂れ流し」と呼んであざ笑う趣味は、暖炉でふかすパイプ煙草と同じくらい乙なものだが、僕は問題を解くのに忙しい。おばさんたちは来る日も来る日もだ液涸れ、舌切れるまで話を尽くして、どうして話術が一向に上達しないのか。おばさんのなかから一流の弁舌家、演説家、噺家、ラジオDJ、テレビ司会者が飛び出さないとおかしいではないか。(これは僕たちにとっても深刻な問いだ。書いても書いても、文章がうまくならない原因がここにある。)

僕の行きついた答えは、効果である。「無意識の垂れ流し」は、意識的な絞り出しではない。相手をぎょっとさせる、はっとさせる、ぽっとさせる、すかっとさせる、にこっとさせる、じめっとさせる効果を狙っていない。話すだけ話して自分がすっきりすることだけが目的だ。彼女たちが一日万語のおしゃべりで熟達したのは、相手を喜ばせる術でなく、自分が気持ちよくなる技である。日本では古くから前者を「芸」、後者を「ひとりH」と区別してきた。

おばさんには話芸がない。僕らブロガーには文芸がないのである。伝統芸という言葉があるが、芸とは伝統のことだ。芸達者になりたいなら、歴史に学ぶ必要がある。ここに丸谷才一文章読本』の抜き書きがある。

人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない。ある種の学者たちのやうに、せつせと名文とつきあつても書く文章がいつこう冴えないのは、文章の伝統から学び取る態度が間違つてゐるためなのである。

才能は、伝統との向き合い方に表れる。井上ひさしも「現在望み得る最上かつ最良の文書上達法とは」というエッセイのなかで次のように語った。

大切になるのは、いったいだれの文章が好きになるかということで、ここに才能や趣味の差があらわれるのだ。だからこそ日頃から自分の好みをよく知り、おのれの感受性をよく磨きながら、自分の好みに合う文章家、それも少しでもいい文章家と巡り合うことを願うしかない。

落語界の「師匠選びも芸のうち」も同じ意味である。そういえば、春風亭昇太立川談春との対談でこんなことを言っていた。

落語の「うまい」というのはすごく難しい言葉でね。……「うまい落語とは何か」と考えると「想像」がキーワードだと思う。お客さんによりクリアに想像してもらえるかどうかが、うまい下手ということだと思う。上手にしゃべることそのものが「うまい」んじゃなくてね。
『楽に生きるのも楽じゃない』

はっきり言って僕は、文章をうまく書くことにしか興味がない。健康のためなら死ねる現代人と同じく、ランプの精にうまく書けるようにしてやると言われたら、文盲になるという条件さえ平気で飲める。しかし、このうまさがくせものなのだ。うまさについて考えれば考えるほど、なにがうまいのか分からなくなってくる。

同じ春風亭昇太のことばがヒントになる。

正解は自分の中にしかたぶんない。それぞれ作・演出を任されているわけだから。だからそれぞれやってることが違って、「あの人がやってることはね―」とか言ってもしようがないんだと思う。落語って背伸びしてもカッコ悪いし、等身大の芸だよね。語りだけで構成しているものだから、つくろっては無理だし、だからすごい正直な芸能。

文章も同じだと思う。パーソナリティで勝負するっきゃない。その書き手の人間味をはぐくむものがほかならぬ旅なのだ。

旅をしない小説家なんて、縄跳びを忘れたボクサーのようなものではないか。
開高健『開口閉口

てなわけで週末、旅行してきます。

 

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