無賃生活の終わり

 

バイト終わりと言っても朝の9時。ブックオフに寄って帰りたいが開店は10時だ。ちょっとした時間のつぶし方がわからない。

公園のベンチで失業者みたいに鳩と話すにはまだ寒すぎる。バイク用のダウンジャケットを着たいが、高校生のときに買った10年もので、川に浸してやっと文字が浮き出る水みくじかと思うほど背の「adidas」が薄い。唐代の詩人が見れば、在地から千里をへだてた故郷に思いを重ねるだろう脆くはかない記憶のかすみである。その背を丸め、一般企業の始業時間から、手のひらのシワを数えて過ごす男がいたら、人はなにを思うか。

寝ぐせをそのまま固めたような髪型だ。衛生キャップを長時間着用していたという事情を知らない人が見たら、スーツに折り目をつけてアイロンをかけたような、自分のおかしさを隠そうとする所作それじたいが狂気を帯びている本物のキチガイに映るだろう。荷物台車に踏まれた靴は、つま先が黒ずみ潰れ、あたかも今朝、団地のゴミ置き場から拾ってきたような外観だ。子どもを遊ばせるママ連から「不審者がいる」との通報を受けてやってきた警官隊により浮浪罪で逮捕されてぶち込まれた留置所で相部屋となったスキンヘッドの男に「ベッド下にものを落としたが腕が太くて入らない新入りのおまえがとれ」と言われてかがんだすきに後ろから口をふさがれ尻を犯されて涙し相手の果てる瞬間を少しでも早めて苦痛を短くしようとのど奥でうめいて感じたふりをすることになるのは目に見えている。ベンチに座れば尻が痛む、という常識には、風が吹けば桶屋式のかくも深遠な連結が隠されているわけだ。芸術「作品は体験の浅い人にはその深さを示さない」(今道友信『美について』)と言うが、尻の穴だって同じである。

コンビニの飲食スペースで開店を待つ。先月のスタバ以来、実に12日ぶりに金を使った。ずっと小銭に触れないでいたから、どの色のどの大きさのコインが何円なのか忘れてしまい、1枚ずつレジに置いて数字を確かめねばならず、後ろから舌打ちの鳴ること雨に振られるトタン屋根のごとくであった。iPhone歩数計がつねに3ケタを超えないひきこもりの僕が、どうしてお金までひきこもらせているのかと言うと、預金残高が同じく4ケタに満たないからである。荀子が見た人間の本性「貧なるは富まんと願い、賤なるは貴ならんと願い」の通り、いやしくも人間として生を受けた僕もバイトして金を稼いでいるが、給料日までまだ半月もある。回りくどい言い方をしたが、要するに使う金がないのである。「これは知覚される対象なくして、知覚する主体が独立に存在するか、という主観と客観の哲学的考察に即座に結びつきますね」と主任にかけあったが、くちびるを持ち上げてうす紫の歯茎を見せるだけで、給料の前借りはできなかった。今ひとつの理由は、引き算ができるようになったことだ。パチスロで1日に4万円負けても金が減ったと思わず、翌日同じ店で財布を開いて中身がないことに驚いたことがある。今のバイトも、面接で課された計算問題の引き算ができなかったので、担当者が席を外したすきに電卓アプリで答えを出した。戻った社員が「やけに早いですね」と言うので、「岡本太郎も言ったじゃないですか。『人生は積み重ねだと思っているようだが、逆に、積みへらすべきだ』と。つまり僕は引き算のほうが得意なんです」と言い返す。30歳目前にしてフリーターをしている僕の人生の和はゼロだけどね、と僕が言うので僕は、引き算の答えは「差」だから、この場合、僕の人生はもう他人と比較にならないほど大差がついてしまったと嘆くのが正解だよ、と教えてあげた。なにか質問はあるかと聞く担当者に、悲しい気持ちがどこからわくのか尋ねたかった。

開店したブックオフで知らない番号の電話を受ける。
「××さんですか?」
男の第一声は地方なまりで聞き取れない。僕の本名が佐藤なら斎藤くらいを突いていたので反射的に「はい」と答えた。勤務シフトにも同じように名前が誤って記載されていることを考えると、いかにも起こりそうな間違いだ。
「連絡先のメールアドレスは登録しましたよね。天気予報は届きました?」
先週のバイト終わりに登録した。でも天気予報は届かない。
「おっかしいなあ。届いてると思うんだけどなあ」
と困る男。しかし僕とこれだけ馴れ馴れしく口をきく人間が職場にいただろうか。だれとも決して打ち解けない自分の対人スキルをよく反省すべきである。
「まあいいや。あのね、今度の会場は」
と飲み会の案内を受けたとき、はじめて間違い電話だと気がついた。名前の類似、メールアドレスの登録とその時期の符合が、偶然というには妙に一致していて気味が悪い。この会話はなんだったんだ、と相手も電話口で首をかしげたはずである。昼過ぎ、同じ番号からまた着信があったので、今度は天気予報も届いたし、飲み会にも行くと言っておいた。

 

買った本
井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫.
井上靖『猟銃・闘牛』新潮文庫.
大槻ケンヂ『神菜、頭をよくしてあげよう』角川文庫.
河合雅雄『ふしぎの博物誌』中公新書.
北杜夫『船乗りクプクプの冒険』集英社文庫.
___『さびしい王様』新潮文庫.
___『父っちゃんは大変人』文春文庫.
___『大結婚詐欺師』角川書店.
諏訪春雄『日本の幽霊』岩波新書.

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