(ここにおもしろいタイトル)

 

また懲りずに本を買ってしまった。
「カネがないのに本を買うのか?」
愚問である。本を買うからカネがないのだ。

こんな実験がある。
金欠のくせに本が好きなKという男を呼び出し、バイトの給料の入ったATMと、自転車で5分とかからず通える書店を与えたところ、不憫にもKは、本を買う→カネをおろす→本を買う→カネをおろす→……のピストン運動を始めて、ついに預金を使い果たしてしまった。Kはその後だれにも顧みられることなく、マンホールの溝に生えた緑ゴケをむしって食べる生活を送った。政府はこの実験に学び、貧しい人間を本嫌いに育てるべく、低収入世帯には低俗な趣味を尊ぶよう教育を施し(その成果は、レクサスのロゴを貼りつけたカスタム軽カーの大げさな左折に見ることができる)、ATM利用時にチクチクと刺すようないやらしい手数料を課した。

かたむき氏の発注書によると、ここで「怒りのばくはつ(内容は音声ファイル参照)。とにかくこのおれが面白く、賢くみえるものを」とある。素人め。現場の苦労を知らぬから無茶な注文をしくさる。たまには自分で話をまとめてみろ、うすのろめ。申し遅れたが、私はブログ更新代行サービス会社の社員、かたむき氏の代筆担当者である。今まで君たちが読んできたものは、実は私の手によるものだ。顧客の秘密を漏らせばただでは済まない。むろん私はこれを最後にゴーストライター稼業から足を洗うつもりだ。70億人中たった3人の物好きのために伝えると、私が辞めても、ほかの社員が引き継ぐから更新は続く。代行の仕事は、誰がやっても品質に差が出ない単純作業だ。道路の舗装からCMのディレクションまで、クリエイティブな仕事の大半は、人を替えても問題なく動く仕組みに乗っかっている。私でなければ、という感覚は、思い過ごしか思い上がりの錯覚だ。替えが利くのは悪いことじゃない。個人は悲しむが、種としては喜ばしい。平和の時代に生まれた諸君は「身を鴻毛の軽きにおく」の心得を忘れている。いやしくも満州をおさめた関東軍の兵士を先祖に持つならば、彼らが入隊初日に受けた訓示を遺産として引き継がねばならん。「自分の肉体の生命などは、『大君』(神格化された天皇)の命令の前には、一羽の鳥の一枚の羽根ほどにも軽いもの」とする精神である(三國一郎『戦中用語集』)。この大君は各自が適宜、社長、所長、女房にとり替えてほしい。命の軽さに耐えられないと言うなら、社長の顔にうんこを塗りたくり、寝ている所長の鼻の穴にチューブを挿し込んで鼻サラダのわさび和えをつくれ。奥さんはそっとしたまま逃げて、私といっしょにパチプロとなって自由に生きよう。駅前で開店を待つ。職場や学校へ向かう人波の「このクズめらが、平日の朝っぱらからギャンブルなんかしおって」「僕もダメな奴だけど、あいつらよりはマシだ」「ああはなりたくない」ともの言わず語る目線のつるぎに生身をさらそう。ポーランドの詩人は言った。「源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」。私はゴミだ。泳ぎ疲れ、波にもてあそばれるままのゴミ。どろにまみれ、反吐をかぶり、工業排水のあぶくを全身にくっつけて、魚の死体といっしょに河口をただよう。しかし、流れの果てに海の接続を知るのは、そのゴミだけだ。苦労してみつけた源泉は、きっと観光客向けに整備された模造品だろう。ほんとうの源泉は、山の一点ではなく、山のいたるところから滲み出る水の全体にある。その水を供給するのは雨、雨となって降る雲、雲をつくる水蒸気、蒸気を生む大海である。かつて侮られたゴミこそが、真の源泉にたどり着く唯一の存在なのだ。それが証拠に、どのパチンコ店にもかならずCR海物語が置いてある。この台でおろしたての年金をなくすトボけた老人達をみれば、海に始まり海に終わる、命の循環さえ知れる。この続きはあとでやろう。まずは仕事だ。

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筒井康隆は『創作の極意と掟』刊行時のインタビューで、作家を目指す際に参考にした本はあるかと訊かれ、「ありますあります。最初は僕だってねえ、もう右も左も分かんなかった。ちょうどあの頃ね、丹羽文雄、なんて言ったって皆さん憶えているかな。あはは。あの人の、小説の書き方についての本があった。それですね、一番最初に読んだのは」と答えた。

好きな作家の裏にある原材料、なにを読んで彼は小説家になったのかという成分表は、出身大学の偏差値と同じくらい気になる。同じ文章を書く者として――というと、F1マシンと幼児用ペダルカーを同じ「車」という類概念で一括する乱暴さはあるけれど、ともかく文章上達のヒントになりそうなものは何でも読みたい。

Amazon丹羽文雄『小説作法』の中古本を買う。届いた包みを開けると、『小説作法』に小さく「実践篇」の文字がある。まさか、と思って本の奥付をみると、発行は1955年、これはウィキペディアの情報と同じだ。なんだ、正式には「実践篇」がつくのか、と思って開いたページに「先に私は、『小説作法』を書いた」の一文をみつけて、発狂した。

クソがっ。続きのほうじゃねえか。電話だ。電話してやろう。おたく、えらいことしてくらはりましたな。え。どないしまんねん、どないしまんねんと大阪弁で迫り、もとの『小説作法』をタダで送れと、ごねて、ごねて、ごねまくるのだ。食べ物だけじゃない。読み物のうらみだって恐ろしいことを教えてやる。

「いや待て」
ダイヤルをやめてアプリを開く。そうだ。もし、ふつうの『小説作法』より『実践篇』のほうが高かったら、ふつうの『小説作法』ぶんの代金しか払ってないから、得したことになる。ほら見ろ。『実践篇』のほうが高い。その差額は、25円――。

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告白する。かたむき氏の代筆として登場した私は、実はかたむき氏によって代筆された人格なのだ。賢明とはいえない読者のなかには、どういうことだと混乱する人がいると思う。安心してほしい。私もその一人である。

『アウトプットのスイッチ』の巻末に、著者のデザイナー・水野学と、生物学者・福岡伸一の対談が載る。福岡は、クリエイティブな活動を生物の進化になぞらえて、「設計したんじゃなくて発生してきたものが本当の解」だと語った。

そうだ。蝶は美しく見えるように翅を設計したわけじゃない。たまたま発生した色、カタチ、模様がたまたま残り、それが蝶の解となった。私はこれまで、なにを書くか事前にこまごまと設計図をひいて正解を出そうとしてきた(ありがたい。テスト勉強のおかげだ。正答を選んで、部分点を稼ぐ。しかし答案についた丸がすべてゼロという意味だったら?)。でも、あてもなく進んだほうが、予想しなかったものに振りまわされて面白くなる。偶然に賭ければ、オリジナルの答えが出る。人にすり寄り、人にあわせる努力はむなしい。他人は採点するだけで、答えてはくれない。

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私は、図書館に流れ着いた。平日の館内には、私の未来型――いつ来ても同じソファの同じ位置に同じ格好で座り、ただ目をつむって時間が過ぎるのを待っている家なき中年おやじ、つぎに私の現在型――寝巻きのグレーのスウェットに、こぶの大きな安物の黒いダウンを着た姿で、襟元と肩口に大量のフケをばらまき、表情筋の隆起ひとつないのっぺら顔を小きざみに上下させて、哲学、心理学、精神世界の交差点に立ち、生きることの出口をひたすら探しもとめる若い男、そして過去型――柱のかげに隠れて女子のパンツが描かれた絵本をじっと見つめる男児に出会う。なるほど、小説は人生の縮図を見せるが、図書館ロビーには、しわくちゃになった原寸大の人生がいくつも横たわっている。『超一流になるのは才能か努力か?』を読んでいると、前に座るベージュのスラックスを穿いた老人が、フローリングの床でパイプ椅子を引いたような、「ばー」という音を出した。それがあまりに堂々としているため、おならとわかるまでに時間がかかった。書店では棚の向こうから「ばー」、トイレでは3つ横の小便器で「ばー」。世の中には人前で屁をしても平然としていられる人がいる。努力では磨けない技能だ。

予備校で東京からの中継授業を受けているときに、前に座った同級生の男が片尻をあげて力み、放送をかき消すボリュームの屁をしたことがある。ばー、お構いなしに世界史の重要項目を説きつづけるスクリーン上の講師。ばー、生徒もみな何もなかったようにペンを走らせる。本人も身じろぎひとつしない。異常だばー。この空間はばー、なにかがおかしい。ばー。ここはおれの居るところではないと思って、それから二度と行かなかった。人が自分のほんとうの居場所を見つけるための音となりたい。そんな意味を込めて私はこのブログ「おならっぷばーん」をつくった。

 

 

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