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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

血の水槽は、くちびるで洗う

 

男女のぬれごとのひとつに、相手の肉を吸ってアザをつける遊びがある。初めて付き合った女の子が、身体に吸いあとを残したがるのをみて、変わった趣味だなあ、と思った。次のガールフレンドが同じ場所にまったく同じことをしたとき、この遊びは女性が育つあいだに会得するわざのひとつだと確信した。そこで訊いたのである。

「みんなが読むような少女マンガでさ、主人公の女の子が彼氏の身体にあとを残すみたいな描写があるの?」
彼女はすこし考えて、
「とくにないかな。なんで?」
いや前の彼女もさ、と言うのはまずい。
「マンガの真似でこういうことするのかなと思ってさ」
「ちがうよ。単純に自分のものだってアピールするためにやるの」
盗まれないよう、大事なゲームカセットに名前を書いた小学生の頃を思い出す。
「じゃあ俺も乳首のまわりにある余白にマイネームで名前を入れてもいいかな」

女性は交合のさい、男がみな似たような手順を踏むことに、偶然の一致の妙を感じることはないのだろうか。ことの始まりから終わりまで、諸子百家の持論、珍説が女体という真理のまわりをウロつき歩くわけだが、誰も箱を開けたあとから包装紙を破かないように、指を突っ込んで散々かき混ぜたあとからパンツを穿かせた布のうえで今さらはがゆい愛撫を授けたりしない。つまり事態はつねにエスカレータ式中高一貫校のごとく、程度の高いほうへ向かって進行する。男子の目的は山のいただきで白い吐息をつくことだけだが、どのルートを通っても、登る行為に変わりはない。拡散するバラエティは、おつまみミックスとして袋にまとめられ、298円の値札とともに店に並ぶのである。「あら、せっかくちがうメーカーを選んだのに、中身はみな同じ味なんだわ」と買い物客が気づくまで、2組の玉袋があれば充分だ。やがて女は訊ねる。

「もしかしてAVとかでさ、男優も同じような感じで女の子とエッチするの?」
僕はきっと嘘をつく。
「そんなことはないけど、なんで?」
前の彼氏も似たセックスをしたから、とは言わない。
「AVの真似でこういうことするのかなと思ってさ」
「違うよ。単純に気持ちよくさせたいからする」
「それじゃあ、あたしの乳首の余白にマジックで名前を書いてちょうだい」

・・・

女が痕を残したがる理由はわからずじまいだが、やたらと水族館に行きたがる理由だけははっきりしている。テレビ、雑誌が取上げるせいだ。魚がバカみたいに泳ぐところを見て一体なにが楽しい? 排水溝のザリガニ、水堀のコイには見向きもしないくせ、アクリルガラスの向こうを名も知れぬ小魚が横切っただけでまるで奇跡が起こったように騒ぐ。ピンクだの紫だの、それらしく照明さえ当ててやれば、使用済みコンドームのゆらぎも、深海のクラゲと同じように女をうっとりさせるだろう。デートに付き合わされるたび、「お魚さんたちカワイイね」と言う内心で、そんなことを思う。しかしそれは東京スカイツリー横の、すみだ水族館に行くまでの話。

・・・

平日夜の閉館2時間前に入った。小学校の遠足隊はおろか、ひと組の子連れ客もいない。水族館でいちばん厄介なのは、エラに寄生するギロダクチルスではなく、市立緑ヶ丘小学校の3年生である。子どもの光がかげを追うのだ。かげなきところにムードなし。もちろんムードとは幻である。それが大人になると実体の雰囲気として感じられるようになる。曇りガラスの目を館内に持ち込んで、子どもに触れてもやが晴れたと文句を言っても始まらない。ムードを通さねばまともに見られぬ綺麗さの、相手の顔と中身が悪い。

おや、と思ったのは、仕事帰りの一人客ばかりで賑わっていたことだ。腕時計の秒針が消えてなくなる薄明かりの館内のすみで、ぱんぱんのビジネスカバンを床に投げだし、コートのうえから自分を抱きしめてちぢこまり、口を開けたまま、一人ソファに飲まれている中年サラリーマンがあちこちにいた。彼らの舌で温まったコガネムシのさなぎが、つぎつぎと羽化して口から飛び発つのが見えた。植物の不動と包容、明日のToDoリストを風雨のいたずらとみる超然の構えである。なるほど、これが現代流の悟り方というわけだ。わざわざインドの山奥にわけ入って菩提樹を探さなくとも、あるいは家を捨てて仏教の奥義を学び、禁欲の修行に耐えなくとも、駅から5分歩けば、個、「われ」といった感覚、往き先、死の先、チンコの先の思い思いに煩わされることなく、明日の俗界を生きる活力がよみがえる。とならば、キザな態度で哲学的な考えを起こしても、考えるだけで動くのは面倒だ、というより動くのが面倒だから考えることにしたのだ、と言ってあごに手をやる現代人にはうってつけの避難場所である。自宅での手作業を嫌って、いそいそとDVD試写室に向かうお父さんのように、ほかの場所では抜け殻になれない人、精神の容れ物になれない人がやってくる。胸のうちにごっそり溜め込んだもやもや、タバコのやに、藻のヘドロ、ヤギのひづめ、曲がった釘、ガード下の立ち小便、イモリの頭、ヤモリのしっぽ、昨日の競馬新聞、テープで直した割れメガネ、黒くしなびた片軍手をでろでろと吐き出しにくる。

気に入った。建物が狭く、展示物が少ないのはむしろ美点である。わざとらしく延長した通路をだらだらと歩かなくて済むし、なにより魚を見る手間が省ける。結局、水族館でじゃまになるのは魚なのだ。多くの人はカン違いをしているが、雄大であるとは、ジンベエザメの宙返りを見て思うことではない。このガラスが割れたら…と恐怖するほど圧倒的な大水槽に5,000トンの水が満ちている。しかし、魚はいない。いや、よく見れば遠くかすんだ水面際に、親指大の赤いあざやかな金魚が1匹、ふっと尾ひれを動かして進むのが見えた。そのわずかな前進に果てしなき雄大さがこもっている。

単に人に知られているということよりも、もっと実質的な理由で賞賛される、確かな美点を持った人は、しばしばたたえられない英雄として終わる。それは、……孤独な、薄給の、魅力のない、人に知られない仕事に精出している人たちである。
D.J.ブーアスティン『幻影の時代』

 

ディズニーランドの年間パスはタダでもいらないが、すみだ水族館のパス(4000円)は年に5枚買ってもいい。ここに通える東京在住の人をねたましく思う。「でも大阪には海遊館があるじゃん」って、きみ言うけどもやな、

あんなもんあきまへんで。第一こう、女の赤貝がぱっとひらいて、その隙間からなんともいえん塩くさい水のだーっと垂れてくるようなムードっちゅうもんがあらへんねん。ある意味、これがほんまの大阪ドームやね。な、うまいこと言いますやろ?

 

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