おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

危険な日記【無修正】

 

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(まだ売ってんのかな?)

クリスマスイブの朝、バイト前にマックで泥水みたいなコーヒー片手に苦楽をともにした思い出があるので、中身はとっくに用済みでも捨てるに捨てられない。「アラ、いらないのに手放さずにいるなんて愚の骨頂、沼の底なし、知恵の不在票だわ」と口を挟むのは、片づけの魔法で人生をときめかすデカ尻の主婦。

「でもね奥さん、あなたに登場してもらう予定はなかったんです。本を紹介する本、数珠の玉をとめる紐の役割を果たす1冊は、混然とした本の世界に一種の系統を与えるわけですから、それだけ偉く、また貴重でしてね、つまりそう簡単にお役御免とならず、しぶとく本棚の一角に生き続けるもの。この雑誌にはその生命力がない。未知の本を紹介するだけでリスキーなのに、それを誰ともしれぬ紹介者が本業の合間にちょろっと書きつけた没魅惑の小文で推すのだからリスクは二重、その意味で『危険な読書』のタイトルに偽りはないが、本を手にする必然性、文脈、運命を勝手に作りあげてしまう優れた類書にくらべると、そのスリルにアフリカの原野と上野動物園の差がありますよ。しかし」 

しかし、この対談には惹かれた。

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編集者の末井昭、写真家の植本一子がある本について語るところ、

・・・

植本:この普通に撮っている感じがいいんですよ! 今はインスタとか、おしゃれにトリミングして撮れるじゃないですか。そういう感じが一切ない。日記を書くにあたって、こういうところにも影響を受けたのかもしれません。
末井:余計な部分をカットしていない。
植本:そう。そこが面白かったりするんです。きれいにトリミングしちゃったら全然つまんない。
末井:きっとそういう部分に読んでる人が反応するんですよ。……

・・・

「きれいにトリミングしちゃったら全然つまんない。」
僕はこれ、逆だと思う。

脱いだくつ下、飲みさしの缶ビール、丸めたティッシュをあえて詰め込んだ生活臭ただよう日記にもトリミングの跡はある。なにかを写そうとカメラを向けた時点で、フレームにおさまらない枠外の景色は、余分なものとして取り除かれる。

人間に不可能な認識がある。それはパースペクティヴをもたない認識、すなわち無観点の認識である。神に不可能な認識がある。それはパースペクティヴによる認識、すなわち観点による認識である。
市川浩『現代芸術の地平』

主婦には主婦の、会社員には会社員の、子どもには子どもの観点があり、測定があり、認識がある。誌面コピーにある”ノートリミングの世界”とは、神の住む世界だ。そんな差別なき平等の国、偏見なき平和の園に”本当の面白さ”など潜んじゃいない。だから神の顔には笑いジワも、ほうれい線もないのである。

人間である限り、トリミングは避けられない。問題は、観点によるトリミング(第一次)に、意識的なトリミング(第二次)を重ねるかどうかだ。発言どおり、第二次トリミングを徹底すると日記はつまらなくなるのか。

僕はキンセラに賛成する。

(想像力を使え。いいか信じろ、お前の生活はおもしろくも何ともないんだ。決して書き留めるな。)

僕らの日常は、おしゃれ加工なしでは見るに堪えない、聞くに忍びない、読むにも厭わしい、便座うらのシミみたいなものだ。そりゃ、対談者のふたり――出版社を立ち上げた雑誌編集長、ラッパーを夫にもつ写真家の主婦――みたいに、足場がすでに特殊で、無自覚の第一次トリミングからして一般人と遊離したわざを持つ人は、調理なき料理で三ツ星の美味に達することもあるだろう。しかし僕らは、素材の味をアスパルテームで、見た目をカロチノイド色素で、歯ざわりを増粘剤で加工することで、やっと食べものもどきを製造できる。この創意、あるいはサギ師根性のない素人に、おいしい日記が書けるものか。少なくとも読み物に関する限り、僕はパステルカラーの病院食より、ゲッと身震いするような毒々しいレインボーケーキが食べたい、そして作りたい。

ややこしいことを考えて息が上がってきた。動悸、息切れには救心。記事の幕切れにはローマの古諺、すなわち「趣味については論議すべからず」。

 

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