マイ・ボーイズラブ

水と油は洗剤の一滴、少女と中年オヤジは紙幣の二枚で交わる。決して出会わぬはずの僕とボランティアは、打算と見栄で一緒になった。ブランド品欲しさに身体を売る女子高生と、学位欲しさに単位を稼ぐ大学院生に差があるとすれば、にぎるペンの太さと、先から出るインクの色くらいなものだ。

好きに打ちこめば飯もいらぬという根っからの学者タイプの人間は、気付かぬうちに学校を駆けあがって研究者になってしまう。が、なかには僕のように履歴書のデコレーションのために進学する奴もいる。そんなエセ学徒に生涯のテーマはない。ハリボテの向学心に一生の情熱はない。しかし成果なしでは学位も出ぬので、しかたなくネタ探しに奔走する。僕の場合、それがボランティアのかたちをとった。

いま通う施設はドコのアレでと話を進めたいが、詳述はできない。小中学生がたくさん集まる場所に、こんな教育上めっぽうよろしくない人間がまぎれ込んでいると知れると、保護者が黙っていない。10代の娘を社会の魔手から守るためにカトリックの寄宿舎へ預けたら、その寮長と神父がともにJKリフレ店の常連客だった、みたいな話である。ソッチの趣味は持たずとも、世の母親が「勉強しないとああなってしまいますよ」と指さす「ああなる」の代表格みたいな僕が、実は人より勉強したせいでこうなっているという社会の皮肉、常識の逆説、世間のニヤリを、子どもたちの眼前に突き出してもいいのかという問題は残る。

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戦国武将は、恥毛の芽も出ぬ男児を愛妾としてそばに置いた。歳がひと回りもふた回りも違う子ども相手に、一国の主がわざわざ敬語をつかってご機嫌とりの恋文をものしていたのだ。そんな昔話をひいたのは、子どもと触れあうなかで心に芽生えた男子を愛でる気持ちを肯定したいがため。僕には特別寵愛する小学生の男児がいる。寵愛というと、赤いビロード地のカーペットがだっと暗闇に伸びて淫靡だが、事実は床屋にある足ふきマットの平板平素、この子と会話を重ねて心を通わせたい、身体に触れたいとは思わず、遠くから遊ぶ姿をみて楽しそうでなによりと父性的な満足感にひたるのみ。

しかし彼だけを妙にかわいいと思うのはなぜだろう。そのかわいさに神物の近寄りがたさを感じるのはどうして。ピンとはねた寝ぐせ、くるり長いまつげ、タンポポのわた毛のようにふわり膨らんだ白塗りのほっぺたが、僕のなかで開いてはならぬ扉の錠前をほろほろと溶かし始めたのか。アメリカの刑務所では、罪の種類によって囚人間に序列があり、子どもにイタズラした犯罪者は最低最悪。イジメ、レイプ、リンチの果てに命を落とすことなど、朝食のゆで卵より当たり前だと聞く。日本の刑務所の場合はどうか? 悪魔の目覚めにおびえながら、僕は免許の更新に向かった。

なぜ免許更新に? そんなことはどうでもいい。
その帰り道だ、疑問が氷解したのは!

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ふらり立ち寄った古書店で手にした本。この若き日の筒井康隆のポートレイトがゾッとするほどその子と似ているのである。僕の小児愛の正体は、敬愛だったのだ。かわいさのなかにどこか手の届かぬ隔絶を感じたのは、子どもを見守る年長者の目線と、筒井康隆を神聖視するまなざしが、その子のうえで立体交差していたせい。よかった。どうやら僕は、刑務所の作業所から盗みとられた金属片で背中をめった刺しにされて獄中死するという末路を、その果てに持たぬコースにいるようである。

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共同体の正式メンバーとそうでない人とを区別することは、人間の集団生活では避けられない。しかし、正常者と異常者の区別は正常者がするということに、異常者は納得しない。
――加藤尚武『現代倫理学入門』

本の裏表紙に自分が正常であるらしい証拠を見つけて、平生の心拍数を取り戻す。狂人、ヘンタイ、天才の諸先生方にあこがれても、僕はしょせん正常者による正常者の定義におさまりたい小人物、規則から一歩もはみ出すまいとする模範囚なのだ。だから少年愛のなにが悪いと開き直ってみせることもできない。正常者が日がないそしむ労働は、ファッション誌の見まねに心血をそそぐ女子大生とおなじ、時代に即したまともさの追求というわけだ。ユニクロが貧乏人の制服となるように、安っぽい常識がわれわれの皮のうえに領地を拡げてゆく。

 

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