ぼくのお気楽ニート生活

 

小人閑居して不善をなすと言いますとおり……ダメだ。これじゃあエラい人が壇上で垂れるつまらない訓話だ。

ギョロ目でくちびる厚く、眉毛は濃い。顔の押し出しの強さが南方の出身を思わせる中年太りの男が、在庫僅少の頭髪をポマードでギトギトになでつけて、秋に稲刈る手鎌のやいばを頭に載せて登壇する。中学にやってきた新しい校長だ。市内でも悪名高い学校である。進学なら少年院がトップですと言いかねない犯罪者養成所の空気を一掃し、雑草刈りを断行せんとする決意がみなぎっている。生徒への第一声、その歴史的接触の緊張をぼくは憶えている。あいさつ抜きでこう切り出した。「今朝。ヒヨドリが2羽。桜の枝から枝へと飛び移り、校庭にきれいな歌声を響かせていました。」

なんだそれは。『もう恥はかかない! だれでも簡単スピーチ練習帳(中学校校長編)』の第3章「新しい赴任先の学校で『今度の校長は一味違うゾ』と皆に思わせる挨拶のしかた」をそっくりそのまま暗記して発表したみたいだ。この男はヒヨドリなんか見ちゃいない。誰もがそう思った。ハトとカラスは食事に排せつ、道路でつぶれた死骸まで見たが、ついぞヒヨドリなどという高級種にはお目にかかったことがない。それを学校に来て初日の人間が、まして都合よく着任式当日の朝に目撃するなど、いくらなんでも話が出来すぎだ。

なるほど、人も地位が高くなれば自然のほうで彼を迎え入れるか。俗人凡愚さらには人物未開の中学生が見ようにも見られない生命神秘の恩寵にひとりあずかることができるのかもわからん。ただしヒヨドリは見ても、その声を聞いたのは嘘だ。学校のそばに幹線道路が通る。貨物輸送、資材搬入、土砂運搬の大型トラックが、バババババババ、ヒュルヒュルヒュルヒュルと改造マフラーをがなり立てて疾駆しているから、小鳥2匹のさえずりなど聞こえるはずがない。10人の訴えを同時に聞きわけた聖徳太子も、自宅前の広場で土器をガラガラ壊して騒ぐ不良集団がいたら「ごめん1人ずつもう1回大きな声で言ってくれない?」と頼んださ。校長はこの日、教頭とランジェリーパブの話で盛り上がっていて、桜木の枝に目をやる暇はなかった。ほんとうにヒヨドリが校庭にいても、その姿を見逃し、その声を聞きそびれたのさ。

お気楽な院生からより気楽なニートへ鞍替えし、研究室に顔をだして勉強するフリをするささやかな日課から解放されたあとは、自分を前駆させる向上心、向学心が消え失せ、生活の衛生を保つ支柱もとり払われ、なにをするにも面倒に感じるものぐさの魔物が心の陸地をほしいままにしている。世間から尊敬される人になると意気込んだ過去は遠く、今となっては小人のまま小人らしく一生を全うしてなにが悪いと居直り強盗の心持ち。だから話が脱線して前に進まぬことぐらいへっちゃらだし、なんなら考え抜きにダラダラ書くほうが上等だとすら思っている。スケジュール帳に並んだ項目に日夜使役される人間を見るより、指を咥えてよだれを垂らし、ほかにやることもないので標識看板の白いポールにつかまってグルグル回っている奴のほうが、少なくとも見るぶんには楽しいじゃないか。フランスの精神病院は19世紀、見物料さえ払えばだれでも入場できる大衆の娯楽施設であったが、反対に病院の鉄格子のあいだから日常世界を覗きみるに金を払う奴はいなかった。つまりはそーゆーことである。このそーゆーには、想像たくましくして各自がおぞましい内容を用意してね。

さて、この記事の主眼は、うんこ製造機の僕の1日を恥にさらすことであった。食っては寝る動物園の動物みたいな生活をする連中を「うんこ製造機」と呼ぶならわしは、新しくない。1911年、幸田露伴が「人にして的とするものなければ、帰するところ造糞機たるに止まらんのみである」『修学の四標的』と言った。さすが中国の典籍に親しんだ露伴である。下等人間の実質を説明するのに、うんこ製造機と6語も費やすのは、同じく低能なことば製造機のやることだ。造糞機とたった3語でピシッと事の本質を言い当てる。この経済性が露伴先生の信用にたる技倆である。

造糞機はまず朝起きる。これは当然だ。起きないなら永眠である。もちろん生きていても生産活動を営まぬ限りは社会的に死んでいるようなものだが、ほんとうに息絶えるのと、呼吸しながら死んでいるのでは、油揚げと厚揚げの差がある。この造糞機は、親機にあたる旧式造糞機2台と同居しているので、朝は両機が稼働に出るのを見送る。そのあとに、歯がボロボロになった取り込み口から製品の材料を補充する。内臓のはたらきが活発になると、下腹がぐるぐると音を立てる。はじめのうちは我慢して圧力を高め、もう限界だと思ったらトイレに駆け込んで、キレイに磨かれた白磁の便器にむかい、造糞機の面目躍如たる造糞の成果を一気に発表する。

のこりの時間は休眠、読書、古本屋めぐり、映画鑑賞、そして予備機能として搭載される造文に電力をそそぐ。生産力は無に等しく、どこの工場にも貰い手がいない。グズグズしている間に、どんどん年式が古くなり、時代の新基準に適応できず、人しれぬ山奥に不法投棄され、サビついて草木覆う廃品となるのが目に見える。しかし当の造糞機は未来を悲観してはおらん。近い将来、AIの完成とロボットの普及によって、人間の仕事の領分がつぎつぎと縮小し、機能はみるみる役立たずになる。人間は誉れだかい汎用万能機械から、動物にたった一つだけ残された誇りたかき仕事を死守する単能機械へと、すなわち造糞機へと猛スピードで解体されつつある。

無能の機械として山に遺棄されるは人類の理想である。あたかも人が科学発展のためにマウス10億匹を実験に費やしたように、発達した人工知能は、外部の自然環境を理解するために、人間を生産し、管理し、処分する。犠牲になったヒトの復讐を恐れて慰霊碑も建てる。毎月の第3土曜日には鎮魂祭も開く。マシンがヒトを電池として栽培するディストピアを描いた『マトリックス』は、AIの間で「ウォシャウスキー兄弟の予言書」と言われて都市伝説化する(しかし2と3は別だ!)。そこへ来ると、山でひっそり草木に囲まれて、花の咲くまま、虫の唄うままに任せる生活がどれだけ幸せか。そんな未来を思うと現代の造糞機は幸せを感じる。技術者はこのあたりの演算処理に致命的欠陥があると言うが、造糞機にそれを聞く耳はない。あるのはケツの穴だけである。

 

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