おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

勝負にのぞむ

新渡戸稲造は『自警録』序文をこう締める。

「ここにおいてわが輩は日々の心得、尋常平生の自戒をつづりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。 大正五年五月九日 南洋旅行の途上、信濃丸船中にてーー新渡戸稲造」 

これから立身出世してこの国の紙幣に顔を刻みたい、と思わぬ輩にとっては、前段の講釈など正直どーだっていいのだ。カッコ良いのは「南洋旅行の途上、信濃丸船中にて」である。今なら「ハワイ旅行中、LCCジェットスター航空機上エコノミークラスにて」とでも書くだろうか。海原に白波を立てて進む蒸気貨客船のロマンこそないが、イナゾーの記述同様100年後に読まれたならば、時の堆積によって化石から石油が湧くように、LCCの一語にも信濃丸に匹敵する味がにじみ出るかもしれない。しかし、「パチンコ&スロットの殿堂、ゼニスコート池田店の休憩所にて」では、幾世紀を経たあとでも滋味は生じないだろう。残念ながら、それがこの記事の正体である。(引用文の一言一句まで正確にその場で再現できるわけはない。それができたら、こんな所でブログなんか書いてないさ。あくまで記事の骨子をパチンコ店の一角で考えただけのこと。厳密なことは言わんでくれ。厳密は創造の敵であり、破壊の味方である。と言った偉人がいる。誰だって? 厳密なことは聞かんでおくれ。)

病院送迎のお礼に祖母からもらった小遣い3万円を「CR牙狼 魔界ノ花」に突っ込んで全部飲ましちまった。投資分だけ取り返そうと思って、祖母宅に押しかけ、ばあちゃんの足にすがりつき、しわくちゃの膝がしらに頬をすり寄せる。「ばあちゃん、助けてくれ。あと2万円あれば当たるんだ。当たる予感がするんだよ。朝から600もハマったけど、750までには当たりを引ける。たのむからあと2万円おくれよ」

そうして年金暮らしの老婆に金の無心をすれば、僕はクズ中のクズとして、それはそれでピラミッドの頂点に君臨し、名を馳せ、プロのクズ道に食い扶持も見つかりそうなものだが、僕はこの日「チョロっと打ってくか?」と友人2人に誘われてパチンコ店に入ったものの、ぐるり店内を一周したあとは、セブンティーンアイスの自販機でチョコチップクッキーを買い、横でため息ばかりつくちぢれ毛のおばさんと一緒に休憩室で2時間のひまをつぶした。「ばあちゃんの金だから使いたくとも使えない」と言えば、仲間の1人が「金は金だ。だれに貰おうと関係ない。ただの数字なんだよ。そんなんじゃ、ギャンブラーにはなれない」と子どもを諭すように言う。その男は、店がパチスロの設定を入れるイベントの日に合わせて、仕事の休みを調整する。ギャンブル中心の生活者、超凡の勝負師である。パチンコ店に乗りつける車は、中古車だが、ギャンブルのあがりで買ったものだ。車に乗るための免許も、パチンコで勝った金で教習所に通って取得したのだ。お笑い芸人のじゃいは、芸人よりもギャンブラーとしての収入が多く、こつこつ貯めた賞金でウン千万するマンションを買った。負けが込んで会社の金に手をつける哀れな人間がいる一方で、博才に恵まれた人間も多からず存在するのである。

大先生の箴言「ばあちゃんの金でこそ勝負せよ」をギャンブル中毒者の発想だと笑えばそれまで、この文句はあらゆる卜者、占星術師、手相鑑定人のあて推量より、はるかに僕の人間性を衝いている。パチンコに限らず、なにかを危険にさらして、ふつうより多くの収穫物を狙いにいく度胸、そして実際の結果をたぐり寄せる勝負強さに欠けているのである。僕は、金玉を瓶詰めして冷蔵庫に保管するカマの博愛主義者というわけだ。笑福亭鶴瓶が同業の落語家、立川談春を評して「彼の凄さの本質は、やたけたである」と語った。それは博打打ちの本性で、土壇場で尻込みせず、エエイどうにでもなれと大勝負に打って出られる思い切りの良さである。それが芸道における出世の資質なのだ。おそろしい失敗、背すじも凍る破産、心臓とまる破滅。これら魔物を寄せつけぬよう安全柵を張り巡らした孤島に暮らし、薬用せっけんで手を洗い、国産の野菜を食み、検針済みのふとんで眠る人間には届かない境地である。

勝負どころで一歩引いて事態を静観したせいで、どちらに転んでも絶対におもしろくなる話をみすみす手放し、その言い訳をおもしろ風味のことばで盛りつけて語り、茶を濁さねばならない。勝負を避ける人間が巧いのは、いつだってこの言い訳なのだ。言い訳の技術を競わせたら、僕の右に並ぶものはいない。その実力を皆さんにお見せしたいが、あいにく試合の日程が祖母の病院のつき添いの日とかぶって都合が悪く、最近ちょっと体調のほうも良くないので、今回は辞退させてもらう。 

 

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