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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

近況報告 大学院やめるよ編

 

もっとも取るに足らない状況変化は、大学院をやめたことである。正確には休学だが、戻るつもりはない。はじめからビシっとやめないのは、物事の順序を重んじてのことだ。前戯なき挿入をもって良しとするプロ野球選手とは違う。カットが切り替われば、敵が都合よく死んでくれる時代劇ではない。音楽でも映画でも、音や映像が繰り返すうちにフェードアウトして終わるものは、作品の幕切れとして薄い印象を与えるものだが、僕も一個の細胞の集まりとして、周囲への影響を最小限に抑えようと思っている。だからケバケバしい服は着ないし、こちらの声が相手の鼓膜を振るわせて、聴覚神経のニューロンに生化学的な変化を及ぼす恐れがあるときは、ふだんの会話も控える。言語について考え過ぎた古代の哲学者が、なにを問われてもモノを指で差し示して答えることしかできなくなったように、僕も無言のままでメニューの項目を指示して、あとは相手が確認を求めたときにコクコクと頷いて応じるだけである。

延長したモラトリアムを釈明する最強の資格「学生」を失ったいま、僕の肩書きはテレビで見る犯罪者のテロップと同じ「無職」である。社会人経験もないくせに、人より教科書の知識を詰めた頭を持つから威張っている。自分は使える人間だと信じている。ところがいざ使われてみると、長年学校の門下で培養された学生気分、ストレス下ですぐに音をあげるひ弱なメンタルのおかげで、まともに使えたものじゃない。さらに悪いことに、長いあいだ書物に親しんだせいで、弱い自分を正当化し、合理化し、相対化する知恵だけはいくら使っても減らぬくらいに蓄えている。

末路は悲惨である。だれにも傷つけられない地下壕に閉じこもり、昼夜を問わず、ひたすら自衛のための理論武装を重ね、具体的な成功のビジョンも見えぬままに、なお成功者になった自分の姿を夢に描きながら、泣いて寝る生活を送る。しかし来たるべき未来の予習は済んだ。ひきこもり特集のドキュメント番組を何本もチェックして、レポーターや親、ひきこもり支援団体のスタッフに向けて、長年ふさぎ込んだ人間がどんな振る舞いをすれば、よりみじめに見えるか学んだのだ。

風呂は入らない。髪とヒゲは伸ばし放題で、2年に1度だけ工作用のハサミを使って散髪する。もちろん切った髪は捨てずにビニール袋に包んで壁にかけておく。床にはペットボトル、空き缶、食べ残しのコンビニ弁当、黒カビのわいたカップめん、鼻くそ、陰毛、精液を受けて丸めたティッシュ、よれよれの成人雑誌、壊れた家電製品をでたらめなルールに従って一部は整理し、一部は散乱させておく(その方がより狂気じみて見える)。人と話すときは、宙をみつめてボソボソボソボソボソボソボソボソしゃべる。自分には伝えたい意見、叶えたい意思などひとつもないのだから、うわべの調子をとり繕ってあたふたする様子を見せておけばよい。連中は、目の前にいる動物が汚ければ汚いだけ、喜んでいまの檻とは別の大きい飼育小屋への引っ越し作業を手伝うだろう。地方のレース場へ向かう競走馬のように、移送車の小窓から外界を覗いて、これからの運命を思うがよい。ムチ打たれ、走らされて走らされて、ケガに病気すれば死肉として処理されるだけの一生の意味を考えるがよい。「俺たちもう終わっちゃったのかな?」「馬鹿野郎。まだ始まっちゃいねえよ」――北野武キッズ・リターン』のラストで交わされる夢破れた青年2人の会話をなぞり「俺これから始まるのかな?」「残念。もう終わったよ」と言えば、エンドロールは流れてくる。

専攻は社会学だった。社会を勉強し、社会を研究し、だれより社会に詳しいはずの僕が、社会と断絶し、社会との交渉を苦手とする、一流の社会不適合者なのだ。これはお笑いである。このお笑いに付き合えないから、やめるのだ。ほかの院生も自覚している。飲みの席で、コミュニケーション専門の奴らに向かい「テメェらはコミュ力がない。もっと人と会話しろ」とか、世界文化を扱うグループに「考え方が狭い。お前らは多様性がない」と文句をつける。笑えない冗談をむりに笑うから、顔のしわとアルコールの量が増えていく。

社会のことなら、研究室で理論と格闘するなま白いガリ勉より、学校に備品を納入する営業マン、校門で車をさばく警備員、学食でカレーを盛りつけるパートのおばちゃんのほうがいくらかマシなことを知っている。彼らを観察し、彼らの話を聞けば、彼らのことが分かったような気がする。彼らを取材して得たデータを、学問の世界で大切にされてきた大理論と照らし合わせて研究の成果を語れば、この社会の巨大な仕組みの一端を理解した気がする。「顔は悪くない。悪いどころか風呂上がりに洗面台に立つと、うっかり自分の鏡像に惚れそうになる美貌だ。それに人格円満。誰も差別せず、平等に優しく接することができる。時代が違えば聖人だ。世が世なら君子だ。こんな好人物はめったにあるまい。だからあの子も当然おれに好意があるし、もっと言うとおれに抱かれたいと思っているはずだ」と、自分に気のない女子を口説くような、ひどい勘違いである。

現実の女性が、言い寄る男の病的なナルシシズムを瞬時に見抜いて危険を察知するように、現実の社会も「研究してやる。お前は研究される材料だ、素材だ」なんて偉そうにしていると、向こうから窓を閉ざしてしまう。いわゆる「社会の窓」問題である。社会の窓が全開なら、トイレでものはとり出しやすいし、勢いよく上げたジッパーの歯に、先頭の余り皮をジャリジャリくわえ込まれる心配もない。僕は人より余裕があるので、下着の中でみょうがのケチャップあえをつくる確率が高い。愛機を保護するためには、なんとしても社会学の学徒をやめねばならない。そしていつでもチャック全開で、目の前にある真正の、生の、ゾッとするほど汚くて美しい社会をじかに生きて、社会に学ぶ、実社会の学徒になりたい。

両者は似ているようで、乾いたゲロと誕生したばかりの湯気立つゲロとの差がある。水分が蒸発して繊維だけを残した、構造のわかりやすいパリパリの吐物と、消化なかばの新鮮な飲食物が、カラフルな細かい粒子となり、稠密なモザイク画を構成するビチャビチャの吐物との違いである。僕は抽象的なゲロの骨格となるより、胃液まみれのニンジンとなって地面を彩りたい。カラスについばまれ、また消化され排せつされ、今度はフンとなって車に垂れ落ち、動くワイパーのゴムで、フロントガラスのうえをリズミカルに左右に伸ばされながら、だんだんと色薄くなって、消えたい。

この記事を書き出す前から終わりを決めていた。前回の内容を踏まえて「シャーペンのように人間の芯は替えが効かないからツラいね」みたいな軽口を叩く気だった。しかしそれではつまらない。問題は未決着なのだ。いまの気持ちに沿うことばを借りて一応の区切りはつける。イギリス留学中の夏目漱石は、文学とはなにかを考え過ぎて弱ったときに、こうして答えを見つけた。

「私は下宿の一間の中で考えました。詰らないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。同時に何の為に書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。今迄は全く他人本位で、根のない浮き草のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事に漸く気が付いたのです」『私の個人主義

夏目漱石の事業がピラミッドの建設なら、僕の企画は、砂浜に埋まる友達の胸もとに遊びで盛りつけた茶碗大のおっぱいである。おっぱいとピラミッドを遠近法の力でむりに並行して語れば、僕の社会学がどんなものであるかは、僕が実社会を生きて自力で築くよりほかに、じぶんを救う道はないのだと思う。

って、カッコつけてる場合じゃねーんだってば…
なんか仕事みつけなきゃなー

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